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第26話「いつか、きっと」

 汗の引いた肌にやさしい風が当たるのを感じ、ゆっくりと瞳を開くと、知らない天井が広がっていた。

 日陰よりも少し薄暗い室内の中で、陽に照らされた欅<けやき>の床は赤褐色に光り、首を振る扇風機は静寂の中、ブゥン、と静かに音を立てていた。

 あたりを見渡してからゆっくりと、身体を起こす。上体から徐々に感覚は戻り、頭と脇の下に走るひんやりとした正体、袋に入った冷水を横の机に避けてから一度、ゆっくりと息を吐いた。


「……どこ?」

「あぁ、起きたのか」


 ひとりでに呟いた言葉の返事は、私のすぐそばから返ってきた。パイプ椅子の背もたれに腕を回しながら、長い前髪を上げた朝風君がそこに居た。額の汗は、鈍く光っていた。

 視界が鮮明になるにつれ、私を巡る血の熱さが体中を駆け抜けるような思いがする。同時に襲い掛かるのは血の引くような寒気と、今しがた動き出したように聞こえだす確かな心音。

 ブルッと身を震わせながらもう一度あたりを見回してみるが、そこに居るのは朝風君だけで、『彼』の姿は無い。

 その光景に私は胸をなでおろす。少しだけ、安心した。そして同時に、落ち着きを取り戻すと顔を見せるのは暗く深い感情だった。


「ごめんなさい」

「天野が謝ることは無い。ほんとうに、なんにも」

「……ごめんなさい」


 自分を縛るように、自分を支えるように、左手を強く握りながら言葉を吐く。今の私から出る言葉はそれだけで、何に対して謝っているのかは、回らない頭でははっきりと理解できていない。あのことに対してかもしれないし、そのすべてに対してなのかもしれない。

 湧き上がる自責の念を吐き出すためだけに、そう呟いているみたい。

 風化した過去は暴かれ、暗室にもよく似ているこの部屋でそれは現像され、それは今私の前にあるように思えてしまう。そしてそれは、朝風君も見てしまった、知ってしまった。

 私のせいで『みんな』が去ってしまった、あの頃を。


「先生、呼んでくるから」

「待って」


 ガタリ、と椅子から立ち上がる彼の手に、すがるように掴んでしまった理由も私は、はっきりと理解はできていなかった。


「まだ、行かないで。……もう少しだけ、ここに居て」


 彼は何も言わずにまた、背もたれに手を回しながら座る。顔色を伺うように彼を見ると、口はきつく締められ、上がった前髪ではっきりと見える瞳は薄開きのまま、ただ下を向いていた。


「ごめん、やっぱり帰りたかったら……先に帰っていいから」

「帰らねぇよ。お前が帰るまでな」

「……ありがとう」


 わがままな女だ。今の自分は誰が見てもそう思えるだろう。どこかで求めていた朝風君の口から出る『帰らない』の言葉は、嘘でも私に安らぎを与えてくれる。

 本当に、ありがたかった。

 しばらくの沈黙の後、ガラガラと扉が開く。出てきたのは涼しそうなアロハシャツの上に暑そうな白衣を着、同じくらいに白い白髪を蓄えた初老のおじいさん。このひとこそが『先生』なんだろう。


「おぉ、起きだか起きだか。よかったぁ」

「あぁそうだ、天野。この人がこの病……診療所の、先生」

「この時期だけしか開いてないけどね。なんだって暑い時期にここ、たくさん人来るでしょう? まぁでも、不幸中の幸いだったなぁ」

「えぇ、本当に。先生。ありがとうございます」

「いえいえなんもなんも」


 ひとり楽しそうに笑う先生は、広い心で私を受け入れるように手を振ってくれる。

 えがったえがった。なんて呟きながら先生は、横に置かれた小さな冷蔵庫から飲み物をふたつ、私と朝風君に手渡した。


「熱中症だね。あれだか? 夏休みって言っても勉強もクラブもたいへんだし、疲れとったんかもしれんな? まずな、ゆっくりでいいからこれ飲んでけれ」

「ありがとうございます。まぁ確かに、今日ずっと歩いてたしな」

「朝風君は大丈夫だったの?」

「みたいだな。幸い、頭も痛くないし、ぼぉっともしない」


 渡されたスポーツドリンクの蓋に手をかける。パキッという乾いた軽快な音からも、今は清涼感を覚えたような気がする。

 冷たすぎず、かといって温くない、丁度良い塩梅のソレは瞬く間に全身に潤いをもたらしてくれる。自制ができなければ、このまま最後まで飲み干してしまいそうだ。


「美味しい……」

「こういうのってさ、体調悪い時に飲むとすげぇうまいよな」

「医者としては、そういう時だけこれは飲んでほしいんだけどね。んならもうちょっと元気になるまで休んできぃ。先生隣の部屋さいるからいつでも声、掛けてな」

「はい、ありがとうございます」


 先生が出てまたふたりとなった部屋は、ついさっきまでよりも明るくなったように見える。気持ちの問題かもしれないし、落ちる夕陽が丁度差し込むようになったからなのかもしれない。


「朝風君は、さ。神社で柏木君が言ってたこと、覚えてる?」

「あぁ。忘れろと言われたら、忘れられるけど」

「ううん、忘れなくてもいいの。だってあれは、朝風君に教えてなかった私なんだから」


 胸のあたりが痛みながらも私は言葉を吐く。伝えなきゃいけないこと。伝えたいこと。ただ話したいこと。整理も何もできていないそれらが混ざり合いながらもとりあえず、言葉を紡ぎ続けることにした。一度口を閉じてしまったら私は、怖くて話せなくなってしまうかもしれないから。


「あれはね。全部ホントなの。人の絵にずけずけ口を出して、私の絵の描き方こそが正しいと思って、それをみんなに強要して」


 それを『教養』なんて言う柏木君の言葉が、最大限の皮肉が今となって痛む。


「みんな居なくなってから気付くなんて私、本当にバカよね。だから高校生になってからは、絵を描くことは辞めたの。それでもやっぱり全部は捨てきれなくて、だから見ることだけは……続けてた」


 完成した絵を見ることは続けていたけれど、思えば、誰かが絵を描いているところすらも私は、避けていたような気がする。完成したものだけがそこに在るのなら、強要される人間が居ない空間なら、私は誰も傷つけないと思っていたから。

 朝風君は相槌を打ちながら、じっと私を見つめていた。薄開きの瞳はそこになく、真剣に私を見てくれていた。


「昔、よく神社に来ていたって言ってたじゃない。それもね。良い絵が描けますように。とか、賞を獲れますようにとか。そういう願掛けで来ていたの。描かなくなってからはめっきり。来なくなったけど」

「それでも、今日は一緒に行ったな」

「うん……」


 そう、それでも私は今日、またあの神社にやって来た。

 わざわざ彼の行きそうなあの店にまで行って、わざわざ声を掛けて一緒に。


「この間ね、久しぶりに絵を描いたの。久しぶりに持った筆は重かったし、思うように線は引けなかったし、柏木君が言ってたみたいに、『どうでも良い絵』しか描けなかったんだけど」

「それでも、描けたんだな」

「えぇ、また描きたくなってしまったの。今はダメダメな私だけど、もっともっと良い絵を描けるようになりたいって。願ってしまったの。それでも、ひとりで行くのはまだ、怖い。だからあなたにも、来てもらったの」


 願いを口に出すと、朝風君は目を大きく見開いた。なるほど……なるほど。納得が言ったように呟くも、時折見せる曲げた首からは、まだわかりえない疑問も確かにあるように見える。

 だから私から、振ってみることにした。


「それで……ね、朝風君。どうして私がまた絵を描いてみたか、わかる?」

 私の中で止まっていた時計の針を、どうして進めようとしたか、わかる?

「あなたを見ていたから、なのよ?」

「え、お、俺?」


 さらに訳が分からなくなったのか、彼の首はさらに曲がるようになった。その様子がなんだか面白くて、思わず笑顔が零れる。そうよね。あなたは多分、気付いていないよね。


「あなたが描く絵の完成が待ちきれなくてとか、理由はいろいろあるけど。一番はね、あれだけ苦しい中で真剣に、本気で絵と向き合っていた朝風君。あなたを見ていたからなのよ?」


 私は人の心なんて読めないのだから、朝風君の心なんて読めるわけもない。けれどあの時、最期の一枚を描こうとしていた彼は絶対に、誰よりも絵と向き合おうとしていた。私の心に描かれた彼の姿こそがまさに、人の心を動かす絵そのものだった。

 あの時の私は何を描きたくて、何を伝えたくて、誰に見せたくて描いたのかはわからない。それでも確かにそこにあったのはひとつ。描きたい。とにかく描きたい。そんな衝動だった。


「次に私が筆に触るのはいつかなんてことはわからない。それでもね。一歩進めたのはあなたのおかげだったの。今まで本当に、本当に、ありがとう」

「なんだか、もう会うことはないみたいな言い方だな」


 だから、


「だから、これ以上朝風君に迷惑なんてかけたくない。また私の言葉で傷つけてしまうかもしれない。また、筆を折らせてしまうかもしれないから、だから――」

「だから、なんて言うな」


 被せる彼の言葉に、喉まで出かかった声は強引に押し込まれる。一度引っ込んでしまった言葉はそうそう表まで出すことはできず、しばらく彼の言葉を待つことしかできなかった。また目を覆うように落ちてきた前髪を彼はかき上げる。


「俺は迷惑だなんて思ってないさ」

「でも、でも仮にそうだとしても、もう私があなたと居る理由なんて無いじゃない」


 そう、ひとつも。


「あるぞ。理由ならひとつ、あるぞ」


 彼は簡単に言ってのけた。どれだけ探しても見つからない『理由』を彼は確かに、あると言った。

 瞳の先には何が見えているのだろう。私の見えないものを見て今、確かに何かを掴んだのだろう。


「俺が、お前とまだ一緒に居たいんだよ」

「え……? 朝風君。さっき私が話したことも、柏木君が話していたことも、ちゃんと聞いてた?」

「あぁ、聞いたうえで、だ」


 どうして?

 納得も理解も、できなかった。また火照た身体にスポーツドリンクを流し込んでも、クリアになった視界でも回るようになった頭でも、その意味を探すことはやはり、できなかった。


「何回目かわからんが、俺が絵を描き続けたい。描き続けていいんだ。そう思えたのは少なくとも、お前が居てくれたからなんだよ。画展に誘ってくれたあの日だってそう。それよりも前、お前が俺に、絵を描いてほしいと言ってくれたあの日だって、そうだ」


 そんなこと。私がしたいからしただけのこと。朝風君がしてくれたことの方が何倍も、私にとって大きくて大切なことだったのに。彼は続ける。


「あの時お前が俺にしてくれたように、今度は俺が天野のためになにか、したいんだよ。させてくれよ!」


 表に出た感情が爆発するように、朝風君は少し、声を荒げながら私にそう言った。もしかしたら、私が彼にしたことは彼にとって、とても大きな意味を持っていたのかもしれない。私が、朝風君がしてくれたことをそう思っているように。


「それに……急に終わりとか言われてもなんかこう……寂しいじゃねぇかよ」

「それなら私、また絵、描きたいな」


 紛れもない本心を喉から絞り出し、言葉にする。言えた。ようやく言えた。10秒にも満たないその言葉を、数年も言えなかったその言葉をついに私は、言うことができた。


「なら決まりだな。体調も良くなったら今度は、スケッチのおでかけだ」


 滲む視界に零れる涙。恥ずかしそうに外を見ている朝風君には幸い、見られていないようだ。

 それならそれで、彼に見られないうちに隠すことにした。今の私に出来る、最大限の笑顔で。


「それなら、もうちょっとだけ私と居てくれるってこと?」

「口に出されると恥ずかしいからやめ……まぁ、お前さえよけりゃ」

「そ。ふふっ」

「なんだよ」

「ううん、なんでも」

 なんでもないよ。朝風君。

「あ、そういえば」

「ん」

「私、朝風君がどういう願い事したか、まだ聞いてない」


 もっともっと良い絵を描けるようになりたい。彼に伝えた私の願いはまさに、あの神社で神様にお祈りしたことだ。彼は考えてなかったみたいだけど、なんとかひとつ願い事を見つけて、それをたしかに願っていた。それはなんだったのだろう。


「……秘密で」

「言ってしまったら叶わないということ? もう妄信しなくていいのに」


 仮に、そうだとしたら私の願い事、叶わないじゃない。

 いつの間にか朝風君はいつものように下ろした前髪で瞳を隠していた。上げたり下げたりしていたせいかいつもよりぼさぼさで、そこも彼らしいと言えば彼らしい。


「黙秘だ黙秘。もう叶ったからいいんだよ」

「え、もう?」


 今が何時かは知らないけれど、神社に行ってからまだ数時間しか経っていないだろう。それくらいで叶う願い事なんて一体、朝風君はなにを願ったんだろうか。


「私にも教えてよ」

「いつか、な」

「それなら、そのいつかが来るまでは一緒に居てよね」

「あぁ、そうすっか」


 ふと、心の中で生まれた『いつかが来てからも』、なんて言葉は私の中で仕舞っておくことにした。

 もしかしたらそれを伝える日が、来るのかもしれない。


「そう、いつか。ね」


 陽が落ち、もうじき1日が終わる。

 『いつか』の来る日まで、あの陽はあと、何回昇るのだろう。




「ほんとうに、いいの?」

「あぁ、今日はもうちょっと歩いて見たくてな」


 天野が呼んだ両親の車が診療所の前に止まる。朝風君もと言われたが、流石にその……今からあの両親と一緒に居る体力は残されていない。特に天野の父さんには……妙な罪悪感もあるしな。


「うん、わかった。それならまた、今度。朝風君も気を付けてね?」

「あぁ、じゃあな」


 彼女を乗せた車がゆっくりと動き出す。見えなくなってから腕時計に目をやると、その針は18時を刺していた。


「こりゃあ、19時コースかな」


 なんていいつつも、その足はまだ家へ向けることはしない。


「んで、あいつもう帰ったけど」

「いやー、もう死ぬほど待ったんだぜ?」


 診療所を出てすぐにぽつんと置かれたバス停、そのベンチでだらしなく大股で座る柏木は首だけ俺を向け、心底怠そうな声色でそう告げる。


「お前が待ってる理由なんて無いだろ。天野ももう、帰ったし」

「あんな話にならねぇヤツはどうでもいいんだよ。お前ともうちょっと『お話』、したくてな」

「俺からする話は無い、わけでもないな」

「座れよ。もう今日はバス終わったみてぇだがな」


 足でベンチの隅を叩く彼からは、出来るだけ距離をとってベンチに座る。あぁそうだ、アイツには言いたいことがたくさんあるんだ。聞きたいことなんてものはもう、残っていない。


「話せよ、朝風。お前が聞きたいこと、なんでも答えてやるぜ」


 ハイというやつだろうか。疲れがたまっているというのに良く回る頭のおかげで、聞きたいことは一通り整理することはできていた。

 俺が口を開くことで、あいつとの『お話』が始まる。

 今日はまだ、帰れなさそうだ。

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