「柏木君。いい加減そんな描き方、やめたら?」
未花から耳にタコが出来るくらい聞かされたその言葉は、今でも鮮明に思い出すことができた。
最初はいつだったかなんてことはもう覚えていない。中学3年とか、そこらへんだったっけなぁ。
背も小さかったし、髪ももっと短かったアイツは今とまるで違うみたいだが、逃げるように俺から背けた瞳はあの時と変わらず、ひどく惨めで痛々しい。
「そんな描き方って、どんな描き方だよ」
「描いているあなたがわからないというの? 配置も適当で配色も技法もバラバラ、見ていて頭が痛くなるような絵の描き方を、やめたら? と言っているの」
「それならお前が見なきゃいいだけだろ」
「それ、本気?」
顔を合わせるたびにそんなことを言うアイツの言葉なんて、俺は意味がわからなかった。
どうしてやめる必要がある? 何が悪い?あいつに聞いた時はなんて言ってたかな。あぁ、そうだそうだ。思い出した。
「他の人が見たら、ただの落書きにしか見えないじゃない。絵は描いて終わりじゃない。それを見た人の心にどう届くのか、それが一番大事でしょう」
「そんなのどうでもよくねぇか?」
俺の言葉でいくつアイツの皺を作ったんだろうな。別に苛立たせたくて言ったわけでもない。どうでもいい。それが俺の本心そのものだったのだから。
俺にとって絵というものはそれこそ自己満足のものでしかない。描きたいままに描いて、それで気持ちよくなれたらそれでいいだろ。
「できた『作品』なんて満足感の終着点なだけ。そもそも、どんな想いを込めたって評論家も素人も、的外れなことしか言えないじゃん」
「それは、あなたがうまく表現できていないだけでしょう」
「それならそれでいいけど、逆にお前はどうなんだ。見せ方とかルールとかばっかりで、本当に描いてて楽しいのかよ」
「楽しいわよ」
「そうかい。まぁ、本当に楽しいんだろうな。お前は」
アイツの絵はいつも窮屈そうなものばかりだった。この気持ちを表現したいからモデルはこれで、注目されるためにはこの色で、感傷的に淡く滲むように……とか、なんにでも意味を持たせて詰め込むのが、アイツの絵。
未花の描く絵は本当に、つまらない。逆にアイツは、俺の絵にそんなことを思っているんだろうけど。
別に、絵の楽しみなんて言ってしまえば人それぞれだ。誰がどう楽しんだって別に構わない。
だが、な。
「それで? 同じ楽しさを教えられた後輩は今、何人残ってる? 部長さん?」
「それは……」
未花が美術部の部長になってから、明らかに部の雰囲気は変わった。上に立つものがアイツ自身になったから、張り切っていたんだろう。
部の方向性を決めるのは部長の役目、顧問から指名された時にはそんなことを言っていたような気がする。だから1年、2年にも自分の『楽しさ』を強要したんだろう。教養、として。
――星見さん。これだと何を表現したいのかよくわからないわ。
――井口くんは、どうしてこの色を使おうと思ったの?
――佐伯さんの気持ちがこの絵からは、伝わってこないの。
その結果どうなったかなんてことは火を見るよりも明らかだった。
20人を超えていた美術部の部員は最終的に、片手で数えられるくらいまでに減った。
今思えば、止めようと思えば止められたのかもしれないが、気付いていたとしても俺は何もしなかっただろうな。絵さえ描ければ俺はどうでも良かったんだから。
周りの大人達は何も言いやしない。傍から見たらアイツは、熱心に教えを説く佳き先輩そのものだったんだろうな。
顧問だって毎日付きっ切りで部室にいるわけじゃないんだ。たまに様子を見るくらいなら確かに、アイツのご高説は確かに悪く見えないはずだ。
考えても見てほしいが、そんなのを毎日聞いてたらどうだ?
自分が楽しいと思って描いたものを否定されて、正しいと思ったことにバツをつけられて。
「誰だって、絵なんか描かなくなるだろ。お前、後輩になんて言われてるか知ってるか?」
「……知らない」
嘘だ、それならどうしてそんな泣きそうな顔で、熱くなって真っ赤な頬で、虚勢ばかりの声色で否定するんだよ。どうしてその否定ができて、自分のした行いを否定できないんだよ。
後輩たちの『本音』は聞いていて気持ちの良いものでは無かったが、聞こえちまうものはもう仕方がない。怖い人、ヤな先輩、邪魔もの。
「知らなかった方が、幸せだったかもな」
「だからっ、知らないって!」
それ以来アイツは俺に声を掛けることは無くなった。それどころか、美術室に来ることも無くなった。
「そりゃあ、そうだよな。良かれと思ったことが全部全部全部間違いで、知らねぇ内に他人の筆バキバキ折ってりゃあな」
今すぐにでもこの場から逃げ出したい気分だった。全身が冷たく、指先の感覚は全くない。冷え切った身体はうまく動かないまま、朝風君の耳も塞げないまま、柏木君の口も塞げないまま、立ち尽くすことしかできなかった。
震える脚は立っていることすらもままならなくて、陽に焦がされた鳥居に手をついて立っていることが私の精一杯。手のひらは今、灼けるように熱い。
「中学を卒業してからの未花のことは何も知らなかったんだよ。高校に上がってからはコンクールでお前の名前を見ることもなかった。だからてっきり、アイツも絵辞めたのかなんて思ってたところで、これだ」
「もういいだろ!」
「えっ何……?喧嘩?」
「こんな神社の真ん前でまた……」
柏木君の胸倉を掴む朝風君に、あたりは騒然としていた。醜いものを見るような瞳、野次馬のように掲げられるスマートフォン。そのすべてが今、朝風君に降り注いでいた。
「朝風君、やめて」
彼は聞こうともせず、むしろ強まる力で柏木君の身体が宙に浮く。
「自慢の『生徒』を持ったみたいじゃねぇか。泣かせるねぇ。それは熱心な『教育』のタマモノか?」
「だから、少し黙――」
「やめてって言ってるでしょう!」
騒然とした神社はその一声を聞いた後、再び短い静寂を取り戻す。ついに力の入らなくなった脚はだらしなく私の身体を崩す。
「天野っ!」
幸い、頭は打たなかったらしい。じんわりと湿っているシャツと、ごつごつとした固い手が私を支え、倒れた私の頭上には空ではなく、朝風君が映っていた。
指先から頭まで痺れるような感覚が徐々に私を支配する。
薄れゆく意識の中、近くて遠い彼の声を聞いてから私は、ゆっくりと深い海の底に落ちた。
「天野と一緒に居たかったから、ここに居るんだよ!」