江の島はやはり、島だった。
300メートルと少しだけの距離に掛けられた江の島弁天橋を渡り切った先では、同じ神奈川県とは思えない小さな風情達が身を寄せ合いながら、ささやかに出迎えてくれた。
ところどころに植えられた街路樹は……ヤシの木だろうか。細く華奢な幹を持ち、枝分かれすることなく天辺から大きな葉を開いた手のひらのように広げている。
一番の違いは建物の背の低さかもしれない。振り返ると見える橋先の建物はあれだけ小さく見えるというのに、目の前に建つ温泉や商店はそのどれよりも小さいように思えてしまう。
「江の島って、島だったんだな」
「……一体なんだと思っていたの?」
広がる海よりも冷たい目で見つめる天野にうまく言い返すことは出来なかった。そんな目で見るな、そんな目で。言いたいことはわかる。江の『島』に着いて一番にこんなことを言われたら俺でもそう言うだろう。
「あぁ、こっちね」
彼女に言われるまま石畳の小路を進んでいくと、さらに細くなる路地の手前には石造りの鳥居が立てられていた。電柱と同じような灰色をしたそれはよく目にする赤い鳥居と違い、古めかしさや畏れのようなものを感じさせられるような気がして、不思議とくたびれたシャツもぴっちりと引き締まり、肌に張り付くような思いがする。
鳥居に掲げられた
「朝風君は夏に神社って、来たことある?」
「年始以外は来たこと無いかもな。夏祭りでもあったら来ていたかもしれんが、天野は?」
そもそも、自主的に神社に行ったことは思えば一度もない。家族に連れられて寒い中、鼻水を垂らしながら並ばされた『思い出』のせいでもあるし、そもそも神様に委ねる願いなんてものもなかったからだろう。
「あるよ。何回もね。家族で来たこともあるし、ひとりで来たこともね」
やはり人はわからない。外見だけでも、見えている内面だけでも。
「本当に神社、好きなんだな。今日行くとこって多分、神社なんだろ?」
「えぇ、ふたりで来るのは初めてだけどね」
やはり彼女の言葉には棘がある。今の言葉もある意味では、その一種だろう。
何がそこまで信心深い彼女を作り上げたのかはわからないし、神社に行くとしたら当然するはずの『願い事』もどんなことにするのかは見当もつかない。帰る時にでも聞いてみるか。
「今日はね、ここに来たかったの」
しばらく進むと出迎えてくれたのは大きな石造りの階段で、横には大きなしゃもじのようなものに江島神社、と書かれていた。
「なんだかあれ、しゃもじみたいだな」
「たしかに似てはいるけれど……あれは琵琶<びわ>ね。ほら、先のほうにちょちょっと付いているでしょう?」
「ちょちょっと」
「えぇ、ちょちょっと」
目を凝らしてよく見ると確かに、しゃもじで言う持ち手側には羽根を伸ばすとんぼのように、『ちょちょっ』と付いているものがある。
横に添えられた『日本三大弁財天』を見るに、商売関係の神様なのだろうか。天野が商売関係……?何でひとやま当てようとしているんだこいつは。そもそもひとやま当てる必要もないだろう。
「ここから少し階段が続くけど、いったん休憩でもしておく?」
「まぁ、ここまで来たら行くとこまで行こう。ここで休んだら多分、今日はもう登れないかもしれんからな」
「そ。……怖いから朝風君は手すり側ね」
「俺はおじいちゃんか」
言いながらもがっちりと掴んだ手すりに身体を預けつつ、石造りの長い階段を上る。本堂はまだ少し先のようだ。
少し進むと待ち構えていたのは、白い石で大股を開くように建てられた門のようなものだった。
神社に門があるのは別におかしいことではないけれど、それは一般的に想像される神社の門とは様相が違い、ここが本当に神社であるのかどうか疑ってしまいそうになる。
神社の門と言えば、樫などのように薄茶色系の木材で作られた荘厳とした門を想像するが、江の島のソレは白く固く、ところどころに塗られた金の塗装は神社というよりも城に近い見た目をしているよう。
「なんとなく、神社っていう感じがしないんだよなぁ……」
「そう?」
「さっきくぐった鳥居もあの門も、正月に行った神社とはどこか違う感じがしてな。特に色味、とか」
「普通の神社は大体が鳥居も門も木で作られているけれど、ここは石とか銅とかで作られているから、じゃないかしら」
「だから電柱みたいな色してたのか」
「……罰当たりな言い方ね。ここはすぐ近くが海だからね」
「なるほど、木だと都合が悪いのか」
潮風の吹く江の島と木の相性は確かに、悪いかもしれない。塩害で腐食した鳥居なんていつ崩れるかもわからないし、違和感の正体はおそらく、土地に由来するものなんだろう。
日陰となった門の下をくぐると、うっすらとした寒気に近い清涼感が首筋を伝う。先に続く道は囲まれた木々のせいで薄暗く、どこか浮世離れしているようだ。
まるで今までいた世界とは違う場所がそこにあるように、あの門はその境界線の役割を果たしているのかもしれない。神様を祀る場所なんてものは、少なくとも町中とは違う世界だろうが。
山の上に建てられたであろう神社のうねる参道を登った先には、やっと神社らしい社殿<しゃでん>が出迎える。
「もう少し先まであるんだけど、今日はここでしていきましょ」
「って、俺もするのか?」
「朝風君にはここまで来てしない選択肢があったのね……」
「10秒だけ考えさせてくれ」
財布の準備をする天野を横目に、知りもしない神様に縋る想いを少し巡らせてみることにしよう。いつもはどんなことを願っていたっけなぁ。
神社に来たというのに願い事も何も考えていなかったのは確かに、おかしいと言えばおかしいかもしれない。ただ屁理屈を言うと、俺は『来い』とは言われたが『祈れ』と言われた覚えはない。あぁ、『妄信しろ』とは言われたか。
真っ先に思い浮かぶのは将来のことだった。大学に、『東京藝術大学に合格できますように』。
いいや、ダメだ。
もしもここで願ったことで合格してしまったら多分、『神様の力で合格できた』自分を背負うことになるだろう。
同じ理由で、『次の画展で勝てますように』もダメだ。
一番勝ち取りたいものこそ、自分の力で手に入れなければ意味なんて無いのだから。
それなら、『アレ』が願い事としては丁度良いかもしれないな。
「Ok、行くか」
「えぇ、せっかく来てもらったのだから5円はこれ、使って」
「都合よく持ってるものなんだな」
日給5円と考えるとたちまち悲しくなってくるので、受け取ったそれはさっさと賽銭箱に投げ入れることにした。
二礼、二拍手、叶ったとしても叶わなかったとしても変わらないけれど、やっぱり叶ってくれると、少し嬉しい。そんな願いを心の内で呟いてみる。そしてまた、一礼。
「お願い、天野はどんなのにしたんだ?」
「まだ、秘密ね」
いつか話してくれる日というのは来るのだろうか。
来た道に戻るように階段を下り門をくぐると、降り注ぐ日差しと共に『現世』が出迎えてくれた。
「そういや、クラスの奴らと遭遇しなくて本当に良かったな」
「ん? あぁ、確かにそうね。いつもはひとりだけど、今日は確かに違うものね」
誰かに見つかっていたら、間違いなく面倒なことになっていただろう。思えばなかなかスリルのあることをしていたのかもしれない。
幸い、同じ制服を着た人間の姿はない。それどころか、同年代の姿そのものがほとんど無いように思える。子供や老夫婦、家族連れがほとんどで、制服を着ているのは俺達だけなのかもしれない。そう考えると少し……恥ずかしさというものがあるかもしれない。
「ん、あの制服は……?おや、おやぁ?」
あと少しで終わりを迎えそうな階段を下る最中、気にすることも無いはずの他人の言葉が耳を障る。
「多分、アイツだよな、いや絶対アイツだよな」
上りも下りもせず、ただ足を止めている知らない男は俺と天野、ふたりを見ながら呟いているようだった。
知り合いか? 小声で聞くと、天野は目を細めながら制服の袖を掴み、耳元で短く告げる。
「……朝風君、見ちゃダメ。何があっても、振り返っちゃダメよ」
言葉の代わりに首を一度だけ振り、階段を抜ける。抜けるまでは絶対に振り返ってはいけないというのは、怪談話や神話などで聞いたことはあるけれど、実際に体験をしてみるとなかなか……要らぬ緊張感がある。
「っぱりだ! っぱ未花だよなぁ!3年ぶりか?」
彼女は一言も答えずに進む。まるで聞こえていないように、見えていないように、居ないものとして扱っているように、少し、早足で。
その男にとっては名前で呼ぶ程度には見知った仲なんだろうが、今の彼女にとっては他人のよう。いや、その逆でもあるかもしれない。もう会いたくない、話したくないと思える程の、見知った男。
「最近めっきり見なかったが、まだ『クソつまらねぇ絵』は描いてんのか? それとも、『隠居』でもして講釈ばっかりか? おいおい、久しぶりなんだから……」
「関係ないでしょ、もう」
「こんな暑いのに冷てぇなぁ、お前は。ん、なんだ、今度は隣のこいつが『被害者』か?」
背後から聞こえていた声はいつの間にか俺の隣に並び、覗き込みながらニヤニヤと笑っていた。薄気味悪い『ヤツ』の腕は肩に伸び、心底深いため息をつきながら俺を見つめる。
「ご愁傷様」
「朝風君、あんなのの言葉、聞かなくていいから」
「お、おう」
「朝風……? お前朝風か。朝風 悠、だよな! こんなところで会うとは思ってもなかったぜ!」
二ヤニヤとした笑いは心底嬉しそうな笑顔に変わっていた。二度三度、叩かれた背中には跡が出来ていそうなくらいに衝撃が響く。
こいつは俺を見たことはなかったが、少なくとも俺の名前は知っているらしい。忘れているだけで実は俺も知り合いだったとか……は無いだろう。こんな奴が居たら忘れることが難しいはずだから。
彼の口から出た言葉から聞きたいことは次々と生まれるが、辛そうな天野の表情を見るに、諦めてくれるまで言葉も交わさず顔も見ず、ただただ進み続けることが最善なんだろう。
「一回会ってみたかったんだ、あんな力任せに筆振ってるだけでジジィの賞までとれた『朝風 悠』によぉ」
「は? じじぃってお前……」
「あぁそうか、自己紹介がまだだったよなぁ。悪い悪い」
思わず出てしまった声に彼は食らいつく。天野はもう俺すらも見てくれず、鞄を握る腕をプルプルと震わせているだけだった。
「柏木、