毎年、あれだけ楽しみにしていた夏休みは一体どこに行ってしまったんだろうか。
外でなく蝉の声はあの頃と変わらず、そこに居てくれているというのに。
なぜ、休みと謳うのに学校に行かなければならなかったのだろうか。
配られたプリントに埋め尽くされた鞄はいつもより心なしか、重い。
季節がひとつ変わったところでさほど変わらない商店街を歩きながら、そんなことを考えていた。
この前に来た時よりもほんの少し賑やかなここはけれどどうして、この前よりも寂しそうな顔をして佇んでいるようだった。
アーチ状に覆う屋根は降り注ぐ日光を少しでも遮ってくれはするけれど、熱気の逃げ先がないここは少なくとも避暑地と呼べず、道行く人もどの店に寄るわけでもなく通り抜けていく。
確か、抜けた先にはここを寂れた商店街たらしめたモールがあったはずだ。近道であって陽も遮ることのできる道があれば誰だってそこを使うだろう。通り道にしか使われない商店街。なるほど、それが寂しさの所以なのかもしれない。
慈悲をくれてやるつもりはないが、その寂しさは俺なら埋めてあげることは出来るだろう。空腹の身体に染み渡る微かな脂っこい香りに、思わず進む足は速くなる。『元祖味噌ラーメン』。そのために俺はここ来たのだから。薄汚れた赤いのれんを上げ、すりガラスの戸を引く。
「っしゃっせー!空いてるお席で!」
「元祖味噌ラーメンで、あ、あとメンマ増量で」
いくつかボタンを外したワイシャツに、扇風機の生温い風が這入りこむ。この感覚が存在しない懐かしさを俺に教えてくれるようで、全身で感じたレトロはなかなかに心地良いものだ。
ぼぉっとテレビを見ている間に置かれたラーメンに、箸を伸ばす。旨い。夏だろうが何だろうが、やはりラーメンは、ここのラーメンは、旨い。
「あら、」
「っしゃす!どうぞ!空いてるお席で!」
流れる汗も気にせず啜る。
「冷やし中華、ひとつ」
「はいよ!」
ここで味変と言うのも良いだろう。この時期だと酢も悪くないかもしれない。伸ばした手は無機質な瓶とは違い、柔らかく冷たい感触に触れた。
「あぁ、すみません」
「あぁいえ……って、なんで?」
「なんでって……あ」
見知った声に顔を上げると、見知った顔がそこにはあった。午前中に見た同じ学校の制服、こんな時期でも着崩さず、伸ばした背筋よりも長い黒い髪。まだ桜が咲いていた頃も同じようにここに居た、天野。
「……なんで?」
「それ、私が最初に言ったんだけど。……この時期でもラーメンなんだ」
「この時期だからこそだろ」
理解しがたい表情を浮かべながらも、些事のように振り払う彼女は席の空いているこの店内でなぜか、俺の隣に腰かけてそんなことを言う。
「夏休み中は弁当作らんって言われたからな」
「奇遇ね、私もよ」
「そうか」
会話はそれっきりで、俺は再び箸を進めることにする。
彼女と会うのは夏休みが始まってからこれが初めてだ。これまでの頻度を考えると珍しいことではあるが、別におかしいことではない。むしろ普通と言えるだろう。俺が天野と会う理由は、もう無いのだから。
最後の1枚を描く。結果的にそれは最後ではなくなってしまったが、それが、それだけが俺と天野を繋いでいたものだったが、その契約はとうに終わりを迎えている。
俺があの時に筆を折ったとしても、結果的に絵を描き続けることになったとしても、どちらにせよ同じ今を迎えていただろう。あの一枚を描いたその後の俺達のことなんて一言も約束をした覚えはないのだから。
彼女もまた俺にそれ以上声を掛けないのは、それを天野自身も理解しているからだろう。終わってしまったのだから、必要以上に声を掛けることだってない。
だからこその久しぶりで少し、懐かしいと思えてしまった。
「ごちそうさまでした」
多分俺はもう、ここに来ることはないだろう。ここに来れば『偶然』彼女と会うことはこの先も、きっとある。あってしまうから。会話も無く同じ空間に居続けることは少し、気まずいものがある。
「ねぇ、ちょっと」
半分残った水を丁度飲み干した頃、彼女の声が俺を止める。
「まだ私、食べ終わってないんだけど」
「お、おう、そうか。悪い」
関係ないことで怒られたような気もするが、至極当たり前のように言われ、反射的に頭を下げてしまう。このまま帰ろうとしてもどうせまた何か言われるんだろう。彼女が食べ終えるまで仕方なく、席に座っていることにした。
「これから、暇だったりする?」
「まぁ、あとは帰るだけだからな」
美味しいものを食べている時の天野は、表情豊かに笑う癖がある。彼女としては見せたくないものかもしれないが、不思議とその笑顔に惹かれて、ついつい横目で彼女を見てしまう。
「行きたいところがあるの。朝風君も良かったらと思うのだけど……」
「どうせ帰ってもやること無いしな。今日くらいだったら、全然平気」
返事はなく、彼女は再び目の前の冷やし中華に箸を伸ばす。
天野との関係が無くなった俺はどこに連れていかれるのだろうか。彼女はどうして俺を誘ったのだろうか。どうして俺はまた、彼女の誘いに乗ってしまったのだろうか。
まぁいいか。そんなこと。
彼女の無垢な笑顔の前だったらそんなことは全部、どうでもいいかもしれない。
――せっかくだから、ちょっと歩いて行きましょう。
どうせ暇だから、と軽いふたつ返事で了承した自分を殴ってやりたいと思ったのは、商店街の横を流れる境川を丁度抜け、砂の混じった潮風が脚を撫でる頃た頃だった。
登る陽は丁度頭上を指していて、対照的にまくったワイシャツの裾は萎びれたようにヨレ、こうべを垂れていた。
「なぁ、あとどれくらいなんだ?」
歩くことは別段嫌いというわけではない。脚も悲鳴を上げているわけではない。けれど先に気がどうにかなってしまいそうだ。距離がどうとか日差しがどうとか言う問題はあるけれど、それよりも終わりの見えない……わからない『ちょっと』は徐々に心と体力を削っていく。
「あの橋を渡ったら本当にあとちょっとよ。疲れた?」
「……いや、どれくらいか解ればそれでいい」
天野が指を指すよりも先に、その橋に脚を踏み入れる。入口に置かれた日時計は読み方がわからず、ただのオブジェクトとして鎮座しているだけだが、添えるように『江の島弁天橋』と書かれていた。
江の島、江の島かぁ。
「朝風君は江の島、行ったことある?」
「覚えはないけどな。小さい頃に何度か。人気なことくらいで何があるのかとかは、全然。天野は?」
「そこまで詳しい訳じゃないけどね、……よく『来てた』の」
前に言った天野の家から江の島はさほど遠い訳でもないし、夏休みに家族で行ったりもしていたんだろう。来てたということは、ここ数年は来てなかったんだろうか。
そんな所にわざわざ俺を連れて今日、急に行くというのはどういうことなんだろう。橋から見える江の島はその大半が緑に覆われていて、ほんの少しだけ顔を見せるタワー……タワーなのか?あれは。建造物があるだけだ。この年になって虫取りなんてするわけもないだろう。なんとなくだが、そんなことよりももっと大きな、大事な用があるような気がするから、余計な茶々は入れないでおこう。
ここに来るまで天野と交わした会話はそう多くない。暑さがどうとか講習がどうとか他愛の話をいくつかするくらいだった。
この橋に差し掛かってから彼女は口元をキュッときつく締め、時折なにか吐き出すように会話をひねり出すようになっていた。単なる疲れとか違った、どこか息苦しさがあるような、ないような。
「朝風君って、神様とか信じたりする方?」
また、何かを吐き出すように彼女は口を開く。
「またえらく急だな。実際見たことなんて一回もないんだ。居るかどうかもわからないし、妄信することもないけど……居るんじゃないか?」
「意外、神なんて居ないだろ。とか言うと思ってたのに」
そう思うことはたしかにあるけれど、居た方が人にとっても俺にとっても都合が良いもんだ。
「この数年間接点も無い天野と急に知り合ったり、画展の提出日に限って台風が来たり、こんなの何かが面白おかしく操ってないと起こらないだろ」
神様は多分、居る。とびきりに性格は悪いだろうけど。
海風に攫われた一縷の波がそうさせているのか、少しの間暑さを忘れた俺は良く口が回るようになっていた。回った挙句に変なことまで口走らないと良いが。
他愛のない会話が功を奏したかどうかは知らないが、天野の表情は少しずつその柔らかさを取り戻しているようだった。声を出して笑っているわけではないが、楽しそうだ。
「それでも、画展にはなんとか間に合ったわね。あれも神様のお陰?」
「それだったら自作自演甚だしいが……あれは俺とか天野とか、海原とか……全員が動いてくれたお陰だろう」
「ふふっ、それもそうかも」
神様は何もしてくれない。余計なことをするだけで、それを乗り越えられたのは俺達が頑張ったからだ。やれる、俺達はやれるんだ。良くないことは神様のせい、良いことは俺達の成果。俺達にとって都合の良い解釈をするために、俺は神様を信じる。
横暴で身勝手な解釈に思わず自分でも笑ってしまう。これなら神様はただの神で、俺達は人間というより人間様だろう。
「それなら、朝風君は中途半端な運命論者ね」
「実際、口に出してみるとずいぶんな罰当たりだな……」
天野の何気ない一言はいつも俺をいたずらに刺す。それ自体は別段痛いものでは無いが、視覚外から飛んでくるソレはいつも避けられない。
「そういう天野はどうなんだよ。信じるタチなのか?」
「私? 神様は居るよ、居るって……信じてる」
考えることもなく、簡単に淡々に天野は言う。そうであるように、そうであってほしい。というように。彼女に向けられた言葉をそのまま返すところだった。会ったことも無ければ見たことも無いものをそれこそ妄信するような人のようには到底、思えなかったからだ。
俺で遊んでいる訳では無いのだろう。一歩一歩近づく江の島を見つめながら、もっと遠くの何かを見つめながら純真に、その目を細めていたのだから。
「そうじゃないと、意味がないもの。こうしてここまで来たのも……これまで、『来ていた』のも」
ねぇ、朝風君。
橋の終わりに差し掛かり、遠く見えていた小さな離島が小さな俺達を向かい入れる頃。彼女は手すりに背預け、ゆっくりと俺を見つめる。
満ちつつある潮のぶつかる音、それを運ぶ潮風の囁き、海鳥が残す営みのさえずり。彼女だけが凪いだまま口角を上げ、引き込むように俺を誘う。
「今日だけは一緒に、妄信してみることにしない?」