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第22話「梅雨明けのミルク色」

「次って、何ですか」


 そびえ立つビルから反射する陽に、地面がじりじりと灼けるような音を聞く。曇りがかった空の隙間から差し込まれたソレはスポットライトのように、俺だけを照らす。


「大賞を獲った海原さんに贈る出品権、それと同じものを君に。と言っているんだよ」

「は?」


 目の前の相手が誰かと言うことはわかっていながらも、返す言葉は素の声だった。

 あの人は今、何と言った? いや、言っていることの意味は理解できる。理解は出来るがどうして……彼の言葉に俺の思考は追いつかない。


「で、出来るんですか?そんなこと」

「もちろん。どちらも主催は僕だからね。口悪く言うと、ここには学校みたいに公正・公平なルールなんてないから、金持ち年寄りの道楽とでもとってくれれば良い」

「他の人は……どうするんですか」

「どうしようかね。それはまだ考えてもいないし、考えていたとしても教えられないかな。僕自身としては『君』が、一番『勝ちたい』と思っている『君』が上がってくれればそれでいい」


 なんだよ、それ。

 心が落ち着きを取り戻すにつれ、段々と携帯を握る力は強くなる。肩を使って大きく息を吸い込んで、吐いて、また吸って、飲み込んだ。


「大丈夫かい?」

「……続けてください」

「君の絵にはね、闘争心と言うか……酷く、醜悪なほどに『勝ちたい』という感情が込められていた気がしてね。もう一度チャンスがあったとしたら、君はどう強くなるのか。君はどう戦うのか。何を描くのか。いつの間にか目が離せなくなってしまったんだ」


 酷く、醜悪なほどに。ただ見ただけの人は何とでも言うが、それがあの絵の評価なんだろう。そんな感情を込めた覚えはないし、天野にそんなことも言われたことはない。この人は、会長は一体、俺の何を見たというのだろうか。

 仮に、仮に、だ。


「俺が大賞を獲って海原が柏木さんの賞を獲ったら、どうなりましたか」


 逆もしかり、ということなのだろうか。


「出品枠は増やさなかっただろうね。あの子の絵には勝ちたいなんてこと、ひとつも描いていなかったんだから」

「ひとつも……たったひとつもですか? 俺だってそんな感情、あの絵に込めた覚えはありません。ただ、あなたには描かれているように見えたんでしょう。少なくとも勝ち負けのあるコンテストです。それならあいつ――海原の絵にだって少しくらいはあるはずでしょう。それなのに、ひとつも?」


 あぁ。拍子抜けするほどに短く軽い言葉は、いともたやすく背中を貫いた。うまく呼吸ができず、震える手をただ耳に押し付けて、立ち尽くすことしか今の俺にはできない。


「無いよ、ひとつもね。最初から勝つとわかっていたみたいに、それは排除されていた。絶対の自信こそが彼女の強さそのもので、あれはまさしくアートだね」

「俺の絵はアートじゃない。ということですか」

「勝つという気持ちが描かれていたとしても、アートとしてそれは問題ないよ? ただそれは――主題だったのかな?」


 子どもの言葉遊びにも思えたのだろう。孫に言い聞かせる祖父のように、声色だけ優しく俺をまた突いた。


「混ざってるんだよ。もともとの主題はもっと別のものでしょう。それなのに『要らぬ』感情が混ざってる。ブレているんだよ、君の絵は。だからこそもう一度、もう一度なんだよ」


 彼の皺が入った手が伸びるのを見たような気がした。俺の手を引くのではなくただゆっくりと、手招いているだけ。

 思ってもいなかった誘いに湧いた感情は嬉しい。とは程遠く、暗く冷たい怒りだけ。

 俺の絵のことなんて今は些事にもならない。怒りの矛先はこの画展に対してでもあり、元凶でもある柏木会長、あの人ただ一点だ。

 大賞も獲れない俺を持ち上げて、道楽で戦わせたいから出品権を増やす?

 それならこの画展の意義は何だ。ただの茶番そのものにこれだけ費やしてきた俺達の努力は何だったんだ?

 今すぐこの携帯を叩きつけてしまいたい、身を任せて『こんなもの』から手を振り払うことだってしたい。けれど身体は、心は、それは出来ないと叫び続けている。

 海原はきっと、次の舞台に進むだろう。彼女と戦うのであればもう、その場所しかない。

 俺がここで会長の打診を振り切ったらどうなるか? 未来永劫、もう彼女と競い合うことは出来ないだろう。

 負けたまま俺は終わるんだろう。

 完膚なきまでに粉々にされたプライドの散らばる道を進むしかないのであれば、乗ってやろう。


「見たいなら、見せますよ。海原に負けない……あんたにも負けないアートをね」


 奥歯を噛みしめると少し、血の味がする。黒くドロっとした苦汁の味を俺は、一生涯忘れないだろう。




「あ、朝風くん。ずいぶん長かったみたいだけど……あれ、大丈夫?」

「ん、おう」


 再び階段を下りて店内に戻ると、席には海原だけが残されていた。あの話をした後にふたりきりというのはなかなか……運命じみたものがある。


「元気ないみたいだけど……わたしのケーキ、食べる?」

「いや、いいや。バイキングで人からもらうってのがそもそもよくわからんが……」

「それもそうかも」


 言いながら何も知らない彼女は楽しそうにケーキを頬張りながら、淹れた紅茶でのどを潤す。勝利の美酒と言うのはああいうものを言うんだろう。ただ、幸せそうな彼女はいつものことだ。彼女を見ていると会長の言っていることはあながち、間違いでは無いのかもしれない。

 多分彼女は、俺が大賞を獲っても同じ表情でケーキを頬張り紅茶を啜る。


「さっきの電話、柏木会長からだった」

「か、柏木……さん?ってさっき話してたあの……なんかすごい人?」

「あぁ、すごいヤなやつだった」


 要らぬ吹聴だったかもしれないが、これくらいは許してほしい。本当にヤなやつなのだから仕方ないだろう。


「そういうすごい人だったんだ……でも、どうして朝風くんに?」

「俺、お前と同じ出品枠、もらえるらしい」

「えっ、あれって大賞の特典じゃなかったの?」


 若干目を見開きながらも、いつもの調子で彼女は言う。それこそ校内の噂話を初めて聞いた時のように、些事のように。


「欠員が出てその補充で欲しくて急遽。なんて言ってたな」


 本当のことはどうしても、言いたくなかった。いくら粉々にされてもひとかけらだけ、プライドは微かでも確かに残されているのだ。

 いい加減なウソではあるが、とりあえず海原は納得してくれたみたいで再びケーキに手を付ける。一口、二口いただいたところでまた、フォークの手を止めた。


「出るの? 君は」

「あぁ、出るよ」


 短い言葉に彼女は笑う。海原は?なんて言葉は必要なくて、その笑顔がすべてを語っているようだった。


「描き続ける。ってことなんだよね?」

「あぁ、そうなるな」


 彼女の小さい、悪意も企みもない手が伸びる。

 彼女は俺だけを見る。何かを待っている彼女にできることはただ、差し出された手を握ることくらいだった。


「よろしくね、今後とも」

「あぁ、こちらこそ」


 柔らかく繊細で、エアコンの効いたここでは心地良い熱が指先に伝播する。

 なぜかその途端、急に冷え固まった全身がゆっくりと解れていくような感覚が走る。終わった。これで終わったのだ。それは同時に何か始まりの合図でもあるようだけれど、まずは途端に甘味を求めるように鳴き続ける胃袋を何とかするところからだろう。


「バイキングでお腹空かす人、はじめて見たかも」

「同感だな」


 繋いだまま、もう片方の手で口元を押さえる俺と彼女は笑う。笑い疲れることも知らず、困惑する天野が帰って来るまでそれは続くことになった。


「なに? これは……」






 天野と交わした契約。

 海原に挑んだ画展。

 今まで過ごしたどの夏よりも暑い一学期の幕が、ゆっくりと下りる。

 ただ、その幕が完全に下りてしまう前にと俺は、職員室の扉をゆっくりと開ける。


「失礼します」

「ん、ちゃんと来たんだ。来ないかと思ってたけど」


 いつも私服な担任はスーツ姿でいつもの席で、今日はポケットに忍ばせたお菓子をつまんでいた。叩いたらビスケットのひとつやふたつ、まだまだ出てきそうだな。


「来なかったらどうせ、夏休み中でも電話してきますよね」

「最終的に怒られるのは先生だからね」


 なんて軽口を叩き合いながら、鞄から一枚の藁半紙を取り出す。折り目の端は軽く千切れていて、ボロボロのソレを差し出しながら口を開く。


「書いてきましたよ。進路希望調査」

「どれどれ……あ、先生がOKって言うまで帰らないでね」

「今言いましたよね」

「先生に屁理屈言わないの」


 言いながらも担任は真剣に俺の『決意』に目を通す。沈黙ののち、彼女は俺の腰を二回、三回叩きながら笑う。


「いいじゃん」

「いいでしょ?」

「君が本当に行きたいとこ、ここだって先生ずっと解ってたんだから。でも一応聞いておくね」


 ――本当にここ、行くんだね?

 これは提出してきた誰にでも言っている常套句なんだろう。覚悟を問う言葉なんだろう。けれどその声色からは試すというよりも、信頼という方が近いような気がして、俺もそれに応える。


「はい、俺はここに――」

「東京藝術大学に、行きます」


 昼過ぎの職員室に新しい風が吹く。

 終業式のあった7月20日。

 今日は丁度、神奈川県の梅雨明けだった。


 初夏篇~画布に落とすは、色とりどりの季節~

 -了-


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