甘いものは好きか?と言われたら俺は、『どちらかと言えば好き』と答えるだろう。
0か100か?と言われたら俺は多分、100と答えるだろう。
無性に食べたい時は急にやって来る。海原の誘いに乗った一昨日はまさに、そんな日だった。我慢を重ねた今日だってその欲は未だに熱を持ち続けている。
持ち続けているが……
「朝風くんもしかして……甘いものあんまり好きじゃなかった?」
「どちらかと言えば好き、だけどな」
「マンゴームースケーキ……夏季限定……」
それだけに囲まれ続ける空間というのは正直、なかなかにキツいものがあった。
黄、緑、白、健康的で鮮やかなスイーツに囲まれたここは間違いなく、誰かにとっては楽園――パラダイスそのものなんだろう。
別々のケーキで1ホールが完成してしまいそうなくらいに盛り付けている天野なんて、特に。
見るからに重そうなケーキから目を逸らすと、別のケーキが俺の目に映る。逃げ場のない甘さの暴力に屈しながらも、残された良心ともいえるフルーツゼリーをいくつか盛り、早々に席へ着くことした。
ふたりを待ちながら、レモンが染み出た薄黄のフレーバードリンクで喉を潤す。透き通る清涼感と果肉から弾ける酸味は一瞬でもこの暑さを忘れさせてくれるような気がした。
「お疲れ様会、ねぇ」
お疲れ様会、しよう! 画展への提出も終わったある日の昼下がり、いつもの美術室で海原は俺と天野の前でそんなことを言い出した。もう、あそこに行く必要なんてなかったのにな。
俺も天野も顔を見合わせてお互いを探ってみたが答えは出ず、無理に拒む理由もなくついて行くことにはなったけれど、これはそもそも何に対してのお疲れ様なのだろうか。
画展に無事提出できたから? それが一番の理由としてはあるだろうけれど、正直食べて笑って終わらせようなんて気にも今回ばかりはあまりならない。
それに――
「あと5分もしたら、発表だろ」
チラリと携帯を覗き、ブラウザで画展のHPを開く。サイトの更新がされていないことに一抹の不安と安心が俺を覆う。
画展の結果発表当日にお疲れ様会なんて、気が気じゃないだろう。特に、目の前には『ライバル』が居るというのに。
「おまたせ」
ふたりが山のように盛り付けたスイーツの塔をテーブルに置き、席に着く。バベルの塔というかピサの斜塔というか、不安になる傾きからはとりあえず目を逸らすことにした。
「みんな、グラスは持った?」
「えぇ」
「おう」
「って朝風くん、まだ飲んじゃダメだよ」
「悪い、流石に暑くて」
「まぁ……いいや、それじゃあ改めて――画展とかテストとかいろいろ、お疲れ様!」
「お疲れ様」
「ん、お疲れ」
高く掲げた海原のグラスに2度、茹だるような暑さの中で清涼をもたらしてくれるような軽い音が響く。
「あれ、もしかしてみんな……あんまりお疲れじゃない?」
海原の想像していたものとは少し違ったんだろう。困惑の混じった顔には冷たい汗が一滴、流れていた。
天野はともかく俺は、どちらかというと疲れ切ってしまっているのかもしれない。家に帰るまでが遠足のように結果が発表されるまでが画展なのだから、緩めろと言われてもこればっかりは時間が解決してくれるまではどうにもできない。
「画展の発表、今日でしょう? それに後10分も無いのだから、仕方ないわよ」
「たしかにそうだけど、休めるときに休まないと……続かないよ? 3年は夏休みでも夏期講習とか模試で結局休めないし、今年のわたし達にとって本当の夏休みっていうのは、テスト終わりから夏休みまでの今しかないと思って」
言いながら塔と化したケーキの一端を海原は口に運ぶ。羽根が生えたように舞い上がる彼女は短い髪を揺らしながら口元を緩める。楽観的というか即物的というか、幸せそうでなによりだ。
「夏期講習と言えばコース別に分かれると思うけど、2人は文系? 理系?」
「わたしは文系。国語好きだしね」
「俺も文系だな。理系に進む俺が想像出来ん」
消去法で選んだ文系ではあるけれど、文系に進む俺も想像はあまり出来なかった。そもそも、将来の自分というものが想像できない。来年の俺はそもそも大学に行っているのか、専門学校に行っているのか、就職でもするのか、それだってわからない。
「天野さんは?」
「私も文系。志望校的にはどっちでも良さそうだけどね」
「それならみんな一緒だね! ちょっと嬉しいかも」
天野も満更ではない表情でスイーツを口に運ぶ。口ぶりからして志望校はもう決めているのだろうが、どちらでも良いという言葉は少し引っかかる。文系であって理系でもあるということだろうか、それとも、文系でも理系でもない、と言うことだろうか。
「ふたりには絵で沢山お世話になってるし、今度はわたしがみんなの先生になろうかな」
「「……海原先生」」
「どうしてこう……歯切れが悪いの?」
天才に教えられてもな。少なくとも凡才の俺には理解できないような論理の飛躍で詰め込まれても、かえって混乱するだけ。それに、張り出される成績上位者にいつも名前のある天野に今更先生は必要ないだろう。
天野が運ぶ銀のフォークが動きを止める。グラスを口に運び、残った甘味を洗い流してからゆっくりと俺と海原を見る。それはお疲れ様会の一時中断を示していて、同時に結果が発表された合図でもあった。
「時間ね」
「どっちが獲っても、恨みっこなしだからね」
「そうだな、『先生』」
仕舞った携帯を取り出してページを更新すると、結果発表のリンクが青々と表示されていた。そこに指を置くまでに何秒かかっただろう。心臓の鼓動は一拍ごとに早く大きくなり、火傷してしまいそうなくらいの血の熱さが俺の中で巡っているのがわかる。
うまく動かない指の代わりに腕全体を使ってスクロールをすると、現れたのは大賞という文字。
これ以上下に動かせば結果は見れる、見れてしまう。
笑うのは俺か海原か、泣くのは海原か俺か。強く押し付けた指を左手で支え、ゆっくりと降ろす。
大賞
内なる庭園
海原 咲
「海原、咲」
そこに俺の名前はなかった。代わりにあったのは目の前で目を見開いて、口を開けている彼女の名前。
何度も、何度も画面を更新してみてもそこにある名前は相変わらず海原咲で、朝風悠という文字がそこに現れることは一度としてない。
笑うのは彼女で、泣くのは、俺。これはドラマでも小説でもなんでもなくて、これが現実。
大賞には自分の名前が載るんだろう。自分の中にはいつもどこか、ぼんやりとした希望のような楽観が確かにあった。
けれど現実、そんな結果はここにない。楽観はこんなにも簡単に瓦解して、心の中には瓦礫だけが残されているよう。
「海原」
震える口で海原の名を告げると、固まった彼女はゆっくりと3秒かけて俺を見る。前髪で隠れた瞳は天野を映すことなく、ただ薄暗い闇のカーテンを広げているだけだった。
「おめでとう。お前の言った通りだったな」
今の俺は、ちゃんと笑えているだろうか。俺にとってこの『負け』はなんなんだろうか。価値のあるものなのだろうか。今は何を考えても全て逃避に帰結するだけで、称賛のない心から出たおめでとうからは彼女に刃を向ける俺が見える。
「海原さん。画展に出したのはこれが初めてなんでしょう? 初めてでこれは……素晴らしいわ」
「うん……うん! ありがとう!」
固まった海原の表情は天野の言葉を聞いてゆっくりと融け、やがて笑顔の花が咲く。
素晴らしい。その言葉の意味は海原の名前の横にある『作品はこちら』というリンクの先にあるのだろう。それを開けば彼女の作品が、俺を打ち負かした彼女の絵を見ることができるのだろう。けれど今は、開く勇気も、気力もそこには無かった。
グラスに口をつけ消化試合のように再び画面をスクロールすると、今度は優秀賞の欄が顔を出す。
優秀賞
無題
柏木 達哉
今日の断頭台
柚木原 彩乃
打ち落として、流星
月代 小白
「……っハハッ」
グラスに口をつけたばかりだというのに、ひび割れした乾いた笑いが出る。
優秀賞として選ばれる作品は3作品。3作品だ。思い違いでもなければ見間違いでもなく、たったの3作品。
大賞でなければ優秀賞。それくらいの力は俺にあると信じていた。信じ切っていた。
けれど、いまさら手を広げたところで根拠なんてどこにも転がっていない。無意識の内に縋っていた藁は流されて行ってしまったのだろうか。
優秀でもない、か。
「朝風君……それでも、あなたは良くやったわ。特別賞だって素晴らしいものよ」
「……ん、何? 特別賞?」
「朝風くん。ちゃんと最後まで見た?ほらここ、もうちょっと下」
前髪をかき分け彼女を見ようとすると、海原から向けられた携帯がその間を遮った。彼女は指を滑らかに滑らせ、徐々に下るページはゆっくりと俺を蝕むみたい。どうせなら一思いに殺してほしい。
「ほら、ここ」
そう言って彼女は指を止め、何回か画面をタップする。大賞、優秀賞、そんな明快な文字ではなくただ一文、『
柏木 昭三賞
衝撃に、備えよ
朝風 悠
「……誰?」
「わたしもよくわかんない」
嬉しいとか悔しいとかそんな感情よりも前に出てきたのは、困惑。それがどれくらいの賞かもわからないのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが……本当に誰だ。
「主催者よ、この画展のね」
答えなんて出ないのに海原と顔を合わせていると、割って入る天野がため息交じりにそう告げる。しっかりと画展のページを見ていればどこかに乗っていたんだろうが、そこまでこの賞に思い入れがあるわけではないから見落としていたんだろう。
天野は知ったような口ぶりで続けるが、どうもこの柏木という人は『意味のないものに意味を与える』ことをモットーに活動している、現代アートの権威らしい。饒舌な天野を見るに、彼女は彼のファンか何かだろうが、言われてもピンと来るはずもない。ざっくりと要約すれば、『とりあえずすごい人』あたりが丁度良いかもしれない。
「それで柏木さんは万物に……朝風君、電話来てるわよ」
「ん、親父か……? ちょっと出てくる」
続けていた彼女の言葉を遮るように震える携帯は、見知らぬ番号だった。親父でもないとなると……誰だろうか。知らない番号からの電話は折り返しもしないが、発表直後のこの時間にかけられたソレにはどうしても出てしまいたい衝動を抑えきれない。ふたりを残して店外で電話に出ると、聞きなれた声が俺の名前を呼んでいた。
「あ、やっと出た。朝風君? 今大丈夫?」
「大丈夫っすけど……先生が生徒に電話なんて普通するもんですか?」
あー、ごめんごめん。電話越しに謝る担任の姿ははっきりと頭の中で思い浮かぶ。どうせまたお菓子でも食べながら椅子をくるくると回してるんだろう。
「それでちょっと聞きたいんだけど朝風君、君一体何したの?」
「何って……何ですか」
学校に迷惑のかかるようなことでもしたのだろうか。そんなことは身に覚えもないからこそ怖いというのは世の常なのかもしれない。なんだか責め立てられているようで、これ以上は胃に穴が空いてしまいそうだ。
「電話、かかって来たんだよ。君宛にね。どこっていったかな……柏木さん。って人からなんだけど」
「柏木……柏木?あの?」
「いやどのよ」
「よう、要件って何でした! 何か聞いてます?」
思わず大きくなってしまった声に、人の波は俺だけを避けるような形を描いて流れる。それでも関係なく続けて、彼女の答えを急く。
柏木という苗字は別に珍しいものでは無い。要件の主は俺の想像しているあの柏木ではないかもしれない。いや、ただこの状況で俺に掛けてくる『柏木』なんてあの人しか居ないだろう。
「私はなんにも聞いてないよ。連絡が着いたら折り返すように言ってほしいって。悪いけどそっちからかけてもらって良いかな? 番号は……」
胸ポケットにあるメモ帳に言われた番号を書きすぐさま電話を切る。次に登校した時に何を言われるかなんてことも今はどうでも良くて、走り書きの電話番号を2度3度確認してから発信ボタンを押すと、呼び出し音が鳴り切る前に知らない声が言う。
「はい、柏木です」
「あ、どうも、先ほど学校の方に連絡していただいたと思いますが、朝風、朝風悠です」
悪いね、急に。壮年の落ち着いた声はゆっくりと言葉を紡ぐ。目の前に居るわけではないけれど、思わず低くなる腰は威厳から来るものなのだろうか。
「応募用紙の学校名からかけてきたものだけど……君は、僕の画展に出品してくれた朝風 悠さんで間違いないかな?」
「はい、その朝風悠で間違い無いです。それで……どうして俺に電話を?」
ということは電話の主である柏木も、俺に賞を与えたあの柏木さん?なんだろう。ただそうなると、気になる点はいくつも頭の中で浮かんでは空いた胃の中にたまり続ける。
大賞を獲ったわけでもない、優秀賞を獲ったわけでもない。よくわからない、電話の主の名前がついた賞を獲っただけ。それだけなのにわざわざどうして俺に掛けてきたのか、それがわからない。
「あぁ、君にちょっと聞いておきたいことがあってね」
「聞いておきたいこと……何でも、何でも聞いてください」
俺は何に期待しているのだ? 賞は既に終わったことのはずなのに、こうして主催者の電話を受けて挙句、なんでも聞いてくださいなんて。一方の手で制服のズボンを力強く握り、あるかもわからない藁に縋りつく。
「大賞を獲った海原さん。のことは知っているかな? 同じ学校と聞いているけれど……」
「はい、海原――さんはクラスメイトで――『勝ちたい』相手でした」
「勝ちたい。あぁやっぱり、そうだよね。そう描いていたものね」
「かいていた……ですか?」
思い返してみても、そう言ったことをどこかに書いた覚えなんてひとつもない。応募用紙に自由記述欄があるわけでもなければ、提出したのだって一枚の……絵か。
「あの絵に描いてあった。そういうこと、ですか?」
「そういうつもりで描いていたんじゃないのかい?」
勝ちたいという気持ちは確かにあったけれど、それを絵に載せることはしていない。はずだ。
「……なるほど、あくまでも絵の中では、そういうつもりじゃなかったんだね。あぁ、話が脱線してしまったね。それでなんだが、朝風君」
「はい」
単刀直入に言うよ。その言葉に唾を呑み、次の言葉を待つ永遠とも言える時間を過ごしながら、いつまでも彼の言葉を待った。
「朝風君。君は」
――次の舞台でまた、勝負をしてみないかい?
胸の鼓動でかき消された喧騒の蔓延る街で、一陣の風が吹く。