降りしきる雨はひっきりなしに車の窓を叩くというのに、平穏な晴れ模様の下よりも、いや、どこよりも今ここは、静寂に包まれているようだった。
俺を乗せた父の車はまだ、走り出さない。
「よく俺に連絡してきたな」
「うちの学校が休校ってことは、そっちも休校になるだろうって」
「そういうことじゃないだろ、悠。よく"ソレ"のために連絡してきたな。ってことだ。一体"ソレ"は何だ?」
フロントミラーから父は俺ではなくその横にある『一枚』を見て、そう言った。同じようにこれも、その正体がわからないから聞いたわけではないんだろう。
どうにでもなれとは踏み出した足は震えるが、その視線を前に退くことすらも許されない。
「けじめだよ」
「けじめ?」
「なぁ、考えてもみてくれよ。いきなり絵なんて辞めろなんて言われてさ、辞められるか?」
「辞められないのか」
父は言う。着いた埃を払うように、簡単に。
……どうせ、わかってるくせに。
怒りは降りしきる雨の冷たさで冷えた頭には登らず、心だけを濡らしていく。
「他のことだったらあっさり辞められたかもな。けど、絵に関しては曲がりなりにも本気でやってきた。本気で、なによりも……好きだったんだよ。だから、俺には最後の一枚が必要だったんだ」
「最後、か」
どうしようもない歯切れの悪さが全身をくすぐっているようで、迫る後ろめたさに、うまく父の顔を見ることができない。
「それで、騙し続けて絵を描いてきたわけだ」
「それは……悪いと思ってるよ。すま――ごめんなさい」
小さなため息がひとつ転がり、それを合図にゆっくりと車は動き出す。小刻みに揺れる絵は膝の上に置いて、もう離さないようにとしっかり抱えることにした。
「場所は」
「え?」
「場所は。どこに持ってくんだ、ソレは」
「県民ホール。そこに事務局があるらしくて、そこに持っていく」
「それなら、こっちの方が早そうだ」
言いながらハンドルを切り大きなターンをすると、踏んだ水溜まりが大きく跳ねる。目を凝らしてみれば小さな虹でもかかっていそうなくらいに、大きく、激しかった。
額の外からそっと覗いてみると、父は前だけを向く。
「……ごめんなさい」
男は背中で語るというけれど、生憎父の背中はシートのせいでよく見えない。
だが、今の父は何かを語り掛けてくれている。目を凝らしてみているとなんとなく、そんな気がした。
「いや……ありがとう、父さん」
閉館準備が着々と進められている県民ホールの明かりがひとつ、またひとつと消えていく。それは私達にとって、不規則に進むカウントダウンのようにも思えてしまう。
解放感を演出する高い天井は空っぽな今日のここでは疎外感を生んでいるようで、ぼぉっと光る間接照明は頼りなく灯るロウソクの火にもよく似ていた。
天井まで続く採光ガラスに雨が打つ。それは滝のように流れ、雨のカーテンは曖昧に外を映すだけだった。
降りしきる雨音を遮る館内に、靴底のゴムと床の擦れる鋭い音が響く。彼が無事、到着したみたい。
「天野、海原」
「間に合ったみたいね。と言っても、本当に時間ギリギリだけど。……海原さんの受け付けはもう済ませてあるから、あとはあなただけよ。行きましょう」
「わたしは、ここまで待ってるね。どうせなら時間のある時にゆっくり、朝風くんの絵見てみたいし」
「絵は私が持っていくから、あなたは先に受付まで用紙を出しに行ってきて」
「結構重いぞ、それ」
「きゅっきゅ音鳴らしながら歩いているもの、あなた。滑って額でも壊したら終わりじゃない」
行って。目で訴えかけ、作品を受け取りながら彼の背中を追う。神経をすり減らしながら一歩一歩、歩みを進める。確かに、あなたの作品は重い。それは肩に伝わるものでは無く、どちらかというと心に圧し掛かるもののようで、責任という重さがそこには込められていた。
「朝風 悠さんでお間違えないですね?」
「はい、合ってます」
「かしこまりました。他の情報についても確認致します」
横に作品を立てかけ、彼の受付を一緒に見守る。住所Ok,電話番号Ok……指先と言葉を使い丁寧に確認をする受付係のOkという言葉が出るたび、肩の荷が少しずつ降りていく。ゆっくりと進む確認に心は焦るけれど、ここで漏れが出たため審査されませんでした。なんてことになってしまったら、それこそ本末転倒。間違いなく、ここで滑って転ぶよりも大きい怪我で、その傷が癒えることは一生無いのだから。
「作品名……」
滑らかに滑る受付係の指が止まる。当たり前に出てきていたOkという言葉をどうしても期待してしまうが、受付の口元はキツく絞められていた。
「あの、作品名の記載がされていないようですが……」
「あっ」
「……ね、え、そのあって何」
代わりに飛んできた一番聞きたくない言葉は彼から飛んできた。降りた荷がまた肩に圧し掛かり、どれだけ背を伸ばしても丸みがかってしまうくらいに、うなだれてしまう。
作品名、作品名よ? 決めていたけど書くのを忘れていました。であれば全く問題はない、ここで記載すれば良いのだから。けれどその様子は……
「すまん、描くことばっかりで考えてなかった」
「あなた本当に言っているの!?」
「で、であればそうですね……最終受付まで7分程ありますので、その間に決めていただければこちらで処理致しますので、はい……どうか、お願いします」
頭を下げる受付係に私も頭を下げる。お願いします。ソレは私達を案じて出してくれた最大限の譲歩でもあって、今まで生きてきた中で一番短くも重要な7分間が今、始まった。
「あ、天野」
「私も一緒に考えてあげるから、まずは落ち着いて、大丈夫だから。うん、大丈夫」
自分にもそう言い聞かせ彼の作品に目を向ける。美術室に居た頃は急いでいたこともあり、しっかりとその作品を見る機会はこれが初めてだった。
一呼吸。落ち着かせた心でソレに目を向ける。
ソレを一言で表すのであれば、荒々しい。いいえ、身近にある言葉で表せられるのがそれくらいなだけで、それ以上の鮮烈な感情が押し寄せる。
すべてを飲み込まんとする海は非情にも荒れに荒れ、激しく渦巻き打ち付ける波は大地を抉る。凄惨。無慈悲で、凄まじい程に、惨い。
そんな荒れた海の上でぽつりと浮かぶ船1隻、この海の上ではあまりに矮小で頼りない1隻は航海を続けている。そんな一枚。
大波は私の心もその表面だけでなく、深奥までも抉っていくよう。全てを攫われてしまいそうになるも、私が視るべきものは決してその大波だけではない。どれだけ弱くても、小さくてもそこに在り続ける1隻の船こそが見るべきものなのだろうと。デザインナイフで削られず、自己を主張するように盛り上がったソレを見て、私は思った。
どこかの本で読んだような気がする。生きるということは、航海ともよく似ている、と。己の中にある羅針盤を頼りに進み続けていくしかない世の中で、間違いなく嵐はやって来る。綺麗事で満たされているわけではない世界、大波が穿ち攫わんとするそれは表すのは現実と理想のぶつかり合う葛藤のよう。
もちろん、ここで航海を終えることだってできる。誰も責めることはないし、その方が傷も小さいかもしれない。ただその船は、彼が諦めることはない。
――特に絵だって、そこにあったのなら写真で十分だろ。
初めて彼と出会った時のことを思い出す。芸術というものは、そこには無いものを描くからこそ芸術なのだと。
これはどうだろうか。確かに、私はこんな大岩も、荒れた海も、そんな中で航海を続ける船を見たことはない。けれどこれは確実に、存在する。
彼の中にその景色はきっと、存在しているのだ。
現実と理想、不安と希望、葛藤と決意。相反する感情が混ざり混沌としたものが何重にも重なり、それが形を成したものがきっとこの、一枚なのだろう。
私はその絵にそっと触れる。粗い筆遣いからこそ感じられる感情の奔流が、言葉にもならない感漢を呼び起こしていた。
「これが……あなたの心」
「それで、これが俺の『絵』だ」
約束は果たした。続けて言う彼も同じく、優しく絵に指を置く。その凹凸と自分を重ねるように何度も、何度も。
時折触れる彼の指から伝わる熱は、すべてを燃やそうとしているみたいに熱い。
エゴ。圧倒的なエゴを追求したこの1枚は、間違いなく見る人の心を抉って行くだろう。心を痛める人も居るかもしれない。逆に、どうしようもなく惹かれてしまう人だって居るかもしれない。今の私のように。
画展内外関わらず、これは間違いなくこと芸術という分野の中で、激震の走る一枚だろう。私はそう信じて疑うことをしない。
私はそっと彼に触れる。驚いた彼は小さく体を震わせながらも、遮ることはない。伸びた前髪を払い、隠された彼の瞳を私はじっと見つめる。
「ねぇ朝風君」
「お、おう」
「題名、私がつけてもいいかしら」
「思いついたのか?」
「えぇ、これしか無いと思って」
彼は頷くと払った前髪は指を抜け、また瞳を隠す。私は立ち上がり、借りたペンでその作品に名前を付ける。
「作品名以外のチェックは終わっていますので、これで受付完了となります。お疲れ様でした」
強く、決して消えないくらいに書いた文字は私の心にも刻むことにした。
それは作品名でもあり、その絵を見るあらゆる人に対しての警告でもあり、宣誓のようなものでもあった。
氏名:朝風悠
年齢:17
作品名:衝撃に、備えよ