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第19話「レイニー・ブルー(前)」

――今日の放課後、美術室に来てくれ。

 降りしきる雨、父の車の中で震えた携帯が映し出すたった1行のメッセージ。わかった。とだけ返し、ぼんやりと光る画面消して鞄の奥底にしまい込んだ。

 本格的に作品制作を始めた朝風君が言った言葉、しばらく美術室には来ないでくれ。その言葉を思い出す。

 自分だけの、いえ、海原さんも多分そこには居たのかもしれない美術室に、私は入室を禁じられていた。あの時までは彼の作品は彼の頭の中にしかないのだから、何も持たない私はかえってノイズになる。わかっている、わかってはいるけれど、言い方というものはもう少しなかったのかしら?

 数日間行かなかった、行けなかったあの美術室には今、きっとアレがあるのだろう。


「完成して……しまったのね」


 窓越しでも響く雨の音に紛れて吐いた言葉はガラスを薄く曇らせた。なぞった指先はじんわりと濡れる。


「台風が接近している神奈川県南部では、風速20m以上の暴風が予想されており、特に沿岸部では強風や大雨に警戒が必要です。江の島周辺でも波が高くなり――」


 備え付けのラジオは不安になるような現実を淡々と告げる。作品というものは完成してしまったらそれで終わりではあるけれど、今回の場合はそういうわけにもいかないから。

 画展への提出期限は郵送ということを考えると、もって明日。

 万が一、そんなもしかしたらを押し殺すように組んだ両手は相変わらず、冷たかった。


「ねぇ、お父さん」

「ん?」

「私の――友達がね、絵を描いたの」


 友達、とりあえず今はその呼び方でも良いだろう。


「へぇ、あそこは確か……美術部なんて無いのに、珍しいね」

「うん。もともとね、絵が好きだったみたい。でも……多分、それが人生で描く最後の絵――なんだって」


 言葉を発する度に曇る窓、外なんてとっくに見えなくなっているけれど、拭うこともなく雨の音を聴きながらぼぉっと、見続けていた。

 父の声がいつもより高く大きく聞こえる。楽しい話でもないのに、なぜか。


「描き終えた。ってわけなんだね」

「……多分」


 少し引っ張られた後に車は止まる。信号待ちの中、ウィンカーはこんな時でも規則正しく、気楽に決まった音を出す。

 フロントミラー越しに目を合わせた父は、慣れた手つきで冷房の温度を下げ、横のブランケットを私にかけてくれる。肌よりも奥の、芯から温まる思いがしたような気がする。


「――未花は、未完の名画を見たことがあるかい?」


 言われて首を横に振る。この間家で途中まで描いたあれは、名画でもなければそもそも絵画でもない。乗せる想いも込める感情もなくただ配置した要素の集合体のアレを絵画とは言いたくなかった。


「父さんも実物自体はあまり見たことはないけどね。それでも名画と呼ばれるものはたくさんあったよ。それはややこしい大人の都合だったり、描くことに飽きてしまったり、途中で亡くなってしまったり。未完の状態そのものが完成形と言ってみたり」


 キャンバスの外にある、いろいろな理由がそうしている。ということだろうか。


「未花には"完成してほしくない理由"はあるのかもしれないけど、その友達に"完成させない理由"はあるのかな?」

「ない。それは、ないよ」


 前のめりになって強く否定したところで、掛けていたシートベルトが私を制す。


「あれは、完成しなくてはいけないものなの。私にとってもあの人にとってもそうだし、そもそもね、私がお願いしたの。最後に一枚、描いてほしいって」


 ぼんやりと見える外の景色の流れは少し、遅くなったような気がした。いつもの運転であれば、とっくに着いていてもおかしくないくらいの時間だろう。

 ゆっくりと走る父の車はまるで、この話が終わるまでは到着しないと言っているみたい。


「それなら未花も見届けてあげなくちゃ。……それでも珍しいね。未花が人にそんなお願いをするなんて」

「私だってそうするとは思わなかったもの」


 不可抗力、えぇ。あれは確かに、不可抗力だったと思う。魅力というか好奇心というか、言葉にできない何かに惹きつけられて、そうしたら自然と私の口からそういうお願いが出てきたのだから。

 言葉にできないからこそ、惹きつけられているのかもしれない。

 路肩に車を停める。曇るガラスを拭いてみると、いつもの校門が見えていた。

 人の数はまばらで、この空間では人よりも車の数の方が多いくらいだろう。吹き飛ばされないよう、斜めに傘をさすあの人を見るたび、ここを出るのが億劫になってしまう。


「"行ける"かい?」

「うん。もう大丈夫」


 今の私ならあの美術室にも、きっといけるはず。

 折り畳み傘の留め具を外し、車の扉を開ける。濡れた風は一気に車内へ吹き込み、地を打つ乱暴な雨音は私を急かしているみたい。

 フロントミラー越しではなく身体を捻り、父は私に手を振りながら笑っていた。扉越しに話す父の言葉は聞こえなかったけれど、その言葉はいつものソレとは少し違った意味合いがあるような気がして、それが背中を押してくれたような気がした。

 ――行ってらっしゃい。


「うん、行ってきます」




「あ、朝風くん!」


 4限の授業が終わると同時に駆け寄ってきた海原の表情には、いつもの余裕は欠片も残されていなかった。


「ねぇ、さっきの先生の話って……」

「あぁ、こんなタイミングでな……とりあえず、天野とも話した方が良さそうだ」


 俺も同じような顔を今、しているのだろう。妙に浮ついた教室の中に居る異質な俺と海原は教室を出る。聞こえるクラスメイトの声が、嫌でもその現実を教えてくれる。


「もう帰っていいとかマジで嬉しいわ。んで、明日も休校っしょ? どっか行く?」

「いや流石に行けねぇだろ。だらだらゲームでもやってようぜ」


「今日明日休みとか土日合わせて3.5連休じゃん! テストも終わってるし、もう夏休みってことにしてくれていいのに」

「その分課題増やされたりしてね」

「それは……ちょっとどころじゃないくらいやだな……」


 既に支度を済ませたクラスメイトは、笑顔のまま廊下に出る。天野の教室も同様で、既に教室に残っている人はまばらだった。願わくは、彼女はまだここに居てくれたらということだが……


「天野って、もう帰ってたりするか?」


 誰に呼びかけたわけでもない。とりあえず、教室に居る誰かがそれで引っかかってくれたらと思い、聞いてみる。これで本人が引っかかってくれるのであれば一番良いのだが。


「ん? おぉ、朝風じゃん。 天野ならさっき教室出て行ったけど……鞄はまだあるっぽい」


 返って来た野太い声の主は友達のように俺を呼ぶ。こんな日でも袖をまくったワイシャツの彼が気付いてくれたのは不幸中の幸いかもしれない。


「どこに行ったか知らないか? 大事な話があるんだ」

「だいっ……俺は知らないけど、知ってそうなやつはいるかもだな。ちょっと待ってろ」

「すまん、助かる」


 言うと彼はまた白い歯を輝かせながら通る声でクラスメイトに呼びかける。こういう時にあのよく通る声に救われるとは思っても居なかった。持つべきものは友にも通ずるものがあるのかもしれない。


「ん、未花?」

「あぁそうそう。朝風が大事な話があるらしくて」

「そうなの! え、ちょっとその朝風くんってどんな人? 顔だけ、顔だけでも見せて?」

「教室の前に居るやつだ。急いでるっぽくて」


 あぁ、そこは言わなくて良かったんだが……チラリとクラスメイトが俺を見る。未花、と言うからには仲の良い友達なんだろう。駆け寄る彼女は、ウェーブがかった髪を波のように揺らす。


「きみが朝風くん?」

「あぁ、急ぎで天野を探しているんだが……」

「髪がちょっと長くて目が見えているんだか見えてないんだかの人……たしかに未花が言ってた人だ!」


 どういう伝え方をしてるんだあいつは、そもそもどうして俺の話をしているのかもよくわからないが……


「きみっぽい人が来たら『美術室に来て』って伝えてほしいって言われたよ。出来るだけ早くーって」

「美術室な。OK、助かった」

「それで未花とはどういう――ってちょっと待って!」

「今度、今度話すから!」


 どうやら天野は先回りをしていたらしい。目を合わせた海原とは小さく頷いて、小走りで廊下を駆ける。

 数段飛ばしで階段を下っていると、捻った足に思わず身体がよろめく。痛みすら追い越すくらいに駆けて駆けて駆けて、美術室の扉を乱暴に開ける。


「天野」

「天野さん!」


 聞いた通り、天野は中に居た。返事のない彼女は大きな机の上で何か作業をしているようだった。何をしているのかはわからないが、その慎重な手つきに声を出すのも憚られる。

 海原とは何回も目が合った。そうしている時間すらもないという焦りはやはり彼女にもあるのだろう。作品は完成した。たしかに、完成した。締め切りは明後日、本来なら今日明日で発送すれば間に合うはず、はずだったのだが。こんな状況だ。

 1分1秒でも何かしなければいけない。方法を模索しなければいけない。そんな時に天野は返事すらも返さず、目の前の作業に没頭しているのだから、焦って当然だろう。

 2分程待っただろうか。落ち着かず手の甲を擦る俺とスカートの裾をいじる海原をよそに、天野はたっぷりと時間を使い、ゆっくりと俺達へ振り返った。


「美術便も今日明日は動かないみたい。だからこのままだと多分、締め切りに間に合わない」

「それじゃあ……わたし達の作品って、どうなっちゃうの?」

「何としてでも提出してみせるの。だから、あなたたちも手伝って」

「手伝えって言われても何を……」


 そう言い、また彼女は背を向け机に手を掛ける。寄ると、並べられたふたつの額縁はいくつかのパーツに分解され、置かれている。おそらくこの部屋にあった余りもので、俺達の絵を飾るためのものなんだろうが……発送ができないのであれば意味がない。


「油絵は額縁にそのまま入れるだけで良いのが救いね。ただ……海原さんのは丁度良い大きさのものがないから……朝風君、やる方わかるわよね?」

「送れないんだったらこれをしても意味ないだろ」


 金具をドライバーで締め、吊紐を結ぶ彼女は手を止めることはない。目の前の作業を素早く、だが精密に繊細に、細心の注意を払って作業を続ける。


「間に合わせるの」

「無理なんだろ」

「だから、間に合わせるの!」

「どうやって!」


 気休めにもならない言葉に募る苛立ちは態度になって表れる。荒げた声を出したところで何も変わることはないというのに。


「と、とりあえず天野さんの言ってる通り、やろ? わたしはその……やり方、わからないけどさ、手伝うよ」

「……とりあえず、終わったら声かけるから、その時教えてくれ。海原、マット――あー、窓枠みたいな厚紙あるだろ。自分の絵に合いそうなやつ、持ってきてくれ」

「うん、わかった」


 困り顔の海原に返事もしてくれない天野の前で、俺は結局 言われた通りにすることしかできなかった。油絵はそのサイズに規格というものがあり、それに合う額縁に入れるだけで良いのだから簡単だ。ただ一方で……水彩画などは厳密に統一された規格はない。メーカー独自の規格が利用されることも多い。自由に選べるという利点こそあれど、こういう時に限って言えば欠点であるだろう。

 紙と額、サイズの違うソレらに生まれた隙間は埋める必要がある。海原から選び終えたマットを受け取りサイズを確かめる。あぁ、これならなんとかなりそうだ。


「天野、額縁用のテープってあるか」

「そこ、置いてある」


 横に置かれた額縁用テープでしっかりと作品を留め、マットに合わせて額縁で蓋をする。金具を留め、こちらも吊紐で結べばこれで完成だ。


「わぁ……」


 額縁と併せることで完成した作品に海原は声を漏らす。時間だけを考えていたから、彼女の作品がどういったものかはよく見ていないが、反応からするに、間違いなく彼女にとってそれは『特別な絵』なんだろう。


「終わったぞ」

「こっちも終わったわ。ありがとう」

「それで……送れないんだったら、どうするの?」

「直接提出しに行くわ。今から」

「今からって……」

「郵送での提出とは書かれているけれど、今回は事情が事情じゃない。直接持ってきてくれても良いって、さっき教えてくれたわ。とは言っても……あちらでも帰宅の連絡が来ているらしいから、2時半までだけど」


 掛けられた時計の針は13時30分を刺していた。残された1時間は間に合うかと言われたら間に合うだろうが、作品の無事はとても保証できない。

 今回に限り認められた直接の提出。そうすれば良いと天野は簡単に言う。言っていることは簡単だが、いくら額縁に入れているからと言って、この雨の中では無傷では居られないだろう。


「って言っても、この雨の中でどうやって。部活でもないから学校には頼めないだろ」

「えぇ、だから連絡したわ」

「誰に」

「お父さん。今から来てくれるって」

「お父さん……お父さん? 天野さんの?」

「えぇ、ただ……」

「ただ、なんだ」


 言い淀む彼女に問いかける。まさか親まで出てくるものだとは思わなかったが、それだけ天野にとっても『何とかしたい』ことと思ってくれていたんだろう。車があれば怖いのは乗せるまでの間だけ、それくらいであれば傷がつくこともないだろう。


「作品の提出は本人の動向が必要なの。家の車も大きい訳ではないから、3人と作品2つは多分、載せられない」

「それなら、提出してまた取りに来れば間に合わないかな?」

「なんとも言えないな……今日はどこも家に帰れって言われてるだろうから、渋滞もしてそうだ」

「えぇ、安全に持って行けたとしても、1作品なの」


 載せられるのは1作品。どちらを選ぶのか、誰を切り捨てるのか。そんなこと、俺も海原も天野も選ぶことは出来ない。

 窓を叩く雨が黙りこくる美術室に響く。かと言って、迷っている時間もない。刻々と迫る期限が足音を立て、近づいているのがわかる。

 どうしてこんな時に限って休校なんだ……どうして……


「それならわたしは、いいや。天野さん、朝風くんのを持って行って」

「海原さん。本当にそれで、いいの?」

「うん……いいよ」

「えぇ、えぇ。わかった。時間もないし、そう言ってくれるならそうしましょう。それなら朝風君のを――」

「いや、海原のでいい」

「っ朝風くん!」


 俺の言葉に海原も荒げた声が出る。今は俺のために怒ってくれていると考えると、本当に申し訳が無い。ただ、あったんだ。どちらも提出できる方法が。その方法が見つかった。いや、見つかってしまった。

 それが俺にとって最悪な選択かもしれないが、もう縋る藁なんてこれくらいしかないのだから。


「どっちも提出できる方法があったんだよ。だから、海原の絵を先に持って行ってくれて構わない」

「他に、頼れる人でも居るの?」

「あぁ、一番頼りたくない人がな」


 そう言いながら背を向け、携帯の連絡先から電話をかける。4回ほど鳴った後に、それは繋がった。繋がってしまった。

 休校になるのは別にこの学校だけではないだろう。であれば、やることはあれど教員だって帰れと言われているはずだ。それなら丁度、頼めるだろう。


「頼みたいことがあるんだ。親父」


 踏み出した一歩はもう引き下がれない。後はもう、どうにでもなれだ。


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