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第18話「ダークブラウンの薫り」

「終わった~!」


「今回の数Ⅱやばくなかった?」

「毎回それ言ってるじゃん」


「ねぇ、この後カラオケ行かない?」

「いいね! 今日くらいは行ってもいいよね……?」


 日に日に暑さの増す校内の中で、今日だけは暖かくで穏やかな、春の風が吹いているようだった。

 口に出さずとも俺もまた、そんな気分で廊下を進む足取りは軽い。


「えっと、あいつは確か……3Cだった気がするから……」


 階段を上がってすぐの3A――自分のクラスより先の廊下を歩いたのはもしかしたらこれが初めてかもしれない。知らない教室の中を覗いてみても見知った顔はすぐに見つけられず、邪魔にならないようにと扉を盾にして覗くように彼女を探す。


「誰か探してるん? 呼んで来よか?」


 俺を見つけた知らない男子が声を掛けてくれた。ワイシャツの袖をまくり、引き締まった上腕二頭筋を輝かせる彼は友達のように距離を詰めてくる。こういう時は敬語を貫き通そうかいつも迷ってしまうけれど、結局は彼に合わせることにした。


「ん、じゃあ天野って今、居るかな」

「おう、ちょっと呼んでくるわ。あー、えっと――」

「朝風。って言えば多分わかると思う」

「あぁ! あの朝風か! おっけー」


 ニコリと白い歯を見せた彼は、運動部特有の腹から出る通った声で彼女を呼ぶ。んで、"あの"というのは何だろう。皆さんご存じとばかりに言われてもピンとは来ない。


「天野ー、朝風が用あるってよ」


 デカい、とにかく声がデカい。これならクラス中に"朝風が天野に用がある"と謳っているのと一緒だ。あの朝風と言われる所以が少しだけ、わかったような気がする。


「何? あなたからこっちに来るなんて、珍しいこともあるのね。携帯で連絡してくれても良かったのに……急ぎの用?」

「生徒会が教室でスマホなんて開けないだろ。いろいろ聞きたいことがあったからな」

「美術室じゃ、ダメなの?」


 ただの世話話だったらそこでも良かっただろう。あの"質問"をするべき場所は少なくとも、あそこじゃない。条件が成り立たないのだ。


「良くはないな」

「そ。わかった。少しだけ待ってて」


 すんなりと受け入れた彼女は席に戻って支度を既に始めていた。毎回こうだと苦労はしないんだが……

 小走りで鞄を揺らす彼女は、教室を出るとゆっくりと俺に合わせて歩く。横並びで人の少ない方向を選びながらゆっくりと階段を下る。


「それで、場所は決めてあるの?」

「ちょっと歩いたところに喫茶店があったろ。そこでいいか?」

「行ったことはあるの?」


 正直、2人だけで話せる場所ならどこでも良い。いつか2人で話した屋上前の踊り場でも良かったが、それこそ万が一あれば"あの朝風"に要らぬ尾ひれがついてしまうだろう。

 それに、テスト期間で酷使した頭は無性に糖分を求めていた。こいつにはもう少しだけ頑張ってもらう必要があるからな。


「無いな。ただ評判は良いらしい。ケーキがどうとか」

「ケーキ」

「天野?」

「……そこがいいなら、そこでいいわ」


 心なしか天野の足取りは早まり、俺を追い越して靴棚へ向かう。別にそこでなければいけない理由はないが……言うのは辞めておこう。


「ケーキ……ケーキ……」


 そこでいい。なんて言う彼女が呟くその言葉も、俺は聞かなかったことにした。





 腰でキュッと巻かれたサロンエプロンの店員にされ、席に着く。引くと、ズッと重い音を出す椅子はところどころ塗装が剥げ、深茶の木製テーブルの木目もまた皺のように、年季とも歴史ともいえる何かを感じさせられる。

 邪魔しない程度に聞こえるこれは、ジャズピアノだろうか。緩やかな曲調は安らぎを与え、柔らかく繋がった音は繊細な指を想起させられる。思えば、いわゆる喫茶店という場所に来たのはこれが初めてなのかもしれない。


「まぁなんだ、好きなものでも頼んでくれ。俺が誘ったんだし」


 先にメニューを渡し、そんなことでも言ってみる。金のかかる趣味をやっているわけでもないから、少なくとも今日くらい、そんなことを言っても破産することはないだろう。


「……目的がわからないと、そういうのってなかなかに怖いものよ?」

「簡単に言えば、絵のことで話しがしたいってだけだ」

「値段分の力になれればいいけどね」


 言いながら開いたメニューを横に置いて、天野は指折り数えながら吟味する。折り返したところで俺もこっそりと財布の中を確認しておくことにした。いくつ頼むつもりなんだこいつは。


「――お伺いいたします」

「ウィンナーコーヒーのホットをひとつ。天野は?」


 唇に手を当てながら数秒の後、メニューを閉じた彼女はゆっくりと口を開く。


「紅茶のレモン付きをひとつ。あと……ニューヨークチーズケーキもひとつ。お願いします」

「かしこまりました」

「それだけで良かったのか?」

「これで十分。そんなに食べる人だと思う?」

「指折りでもしてたから6つくらいは頼みそうな気がしてたんだが」


 細めた瞳で睨まれても困る。あれだけケーキケーキ呟いていた人なら可能性のひとかけらくらいはあるだろう。ただ、財布の心配はしなくても良いみたいだ。


「それは別にあれもこれもなんて考えていたわけじゃないから。あなたが絵についてどんな話をしたいのか、考えていただけ」


 俺の言い方が悪かったのかもしれない。確かに、ひとくちに絵の話と言っても範囲としては広すぎる。技法の話とか、好きな絵の話とか、考え方についてとか。ただ、そんな話だったらどこでもできるだろう。それこそあの美術室だって。海原が居るところだった。

 店員の足音が聞こえなくなった後で彼女は俺を真っ直ぐに見る。それで?ということなんだろう。どこからどう話したものか。


「天野が誘ってくれた画展のことで少し、聞かせてほしい話がある」

「主催者でも関係者でもないから、話せることは少ないと思うけど?」

「もう一歩踏み込むならば俺と天野の関係を、天野自身はどう考えているのか。って話だ」


 緩く腕を組みなおし、俺も俺で彼女を見つめ返す。彼女が視線を逸らしたって構わずに、取り出した1枚のA4用紙を机に広げて指を指す。首を傾ける彼女にはまだピンと来ていないのだろう。ぼんやりとその紙を、画展の申込用紙に視線を落とすばかりだった。


「私の中で話が繋がらないんだけど?」

「ゆっくりこれから説明させてくれ。まずは聞きたいことの1つ。どうして天野はこの画展に俺を誘ったんだ?」

「あなたが探していたからじゃない。何のために最後の絵を描くか。って」


 何をいまさら、当たり前じゃない。そう言わんばかりに彼女は申込用紙を突き返す。大本の理由としてはたしかにそうだろう。最後の絵、終わらせるために描く。そんな悲しい理由を変えるために提示してくれたそれには俺も感謝はしている。

 ただ、それならこの画展でなければいけない理由のないだろう。思いつく直近の画展がこれだった、なんて言われてしまえばそれで最後だが、そんな適当なことをあの天野がするだろうか。

 だから俺は、指を指す。


「大賞受賞者には、都の高校生画展への出品権が与えられます。なんて書いてあるが、最後の絵を描くやつに、その先を提示する理由がわからない」


 天野は何も言わない。ゆったりとした音楽が流れる中、彼女の深い息遣いが耳に入る。それは見当外れの呆れなのかもしれない。それであってくれたら嬉しい。もしかしたら、諦めの合図なのかもしれない。そうはあってほしくない。


「狙うのは勿論大賞だし、最初から取れないだなんて思ってはいない。ただ、俺はもうこれが最後なんだ。ずるずるとその先まで描かせようとするなら、正直俺は今、絵を描きたいとは思えない」


 言い切った後に見ようとした彼女の顔は、店員の手で隠れてしまって良く見えない。丁度頼んでいたものが運ばれて、テーブルの上だけが場違いにも甘い香りに包まれていた。この場合、場違いなのは俺なのだろうか。

 漬け込まれたレモンティーをひとくち、彼女は啜る。一方で、たっぷりと生クリームが乗せられたウィンナーコーヒーに俺はまだ手を付けない。


「ひとつ。あなたに知っておいてほしいことがあるの」

「あぁ」


 強い言葉を使う俺とは対照的に、ゆっくりと、やさしい声色で彼女は俺に語りかける。


「大賞を獲ったとして、与えられるのはあくまでも高校生画展の出品権。権利なの。どこまで行ってもそれは権利でしかなくて、義務ではないの」


 それは確かに、書いてある通りだろう。ただ、そんな言葉遊びをしたいわけではない。


「ただ、その権利のために目指した誰かも居るかもしれないだろ。それなのに大賞を獲ったやつが画展には出品しませんなんて、通るわけがない」

「通るのよ。それが権利なんだから。一番になれなかった人にそれをどうこう言う資格なんてないわ」

「シビアだな」

「そういう世界じゃない。芸術なんて」


 彼女はもう目を逸らさない。棘のある言葉は肌を刺すように痛いけれど、彼女は決してそれを訂正しようとも、否定しようともしない。まるで、その痛みを知っているように。

 その制服の裏に隠された肌には、一体どれだけの傷があるのだろうか。少しだけ、そう考えてしまう。


「そしてもうひとつ。あなたに謝らないといけないことがあるの」


 もういい、なんてことは言えずに耳を傾ける。"謝ること"にアタリは付いていたけれど、聞くことにしよう。彼女の口からそれを聞くことが彼女のためでもあって、あれだけ強い言葉をぶつけた俺の義務でもあるのだから。


「私はその出品権があることを知っていた。知っていてあなたにコレを仕向けたの。最後の絵を描くと言っていたあなたにね」

「……おう」

「絵を描く理由をどれだけ変えてみても、それが最後の絵であることは変わらなかったから。それはとても悲しいことで、"あなたにも"筆を折ってほしくはなかったから、私は続ける理由を隠して混ぜた。それが結局あなたのことを傷つけることになってしまったことには変わらないわ」


 ――ごめんなさい。

 深く、深く頭を下げる天野に声を掛けることは出来なかった。大丈夫。気にしていないから。そんな言葉は表面上だけの薄っぺらい言葉だけで、それは同情という心地よい言葉で包まれた嘘なのだから。

 あれだけシビアに芸術の世界を見ているのならば、筆を折る人なんてものもたくさん見てきただろう。画家を目指す人間なんて数えきれないほど居るのだから。ただ、画家として活躍できる人間なんてものはそれこそほんの一握り。筆を折るのが当たり前の世界だから。

 沢山のそういった人を見てきたから、という理由はあるのかもしれない。あるいは、彼女自身がそうだから、という理由もあるのかもしれない。それこそ、天野と俺を繋げたのは絵であるけれど、俺は天野が絵を描いているところは見たことが無い。

 "あなたにも"という言葉は俺に引っかかり、どこまでも着いてくる。

 それを今の彼女に問いかけるほど性根が腐っている俺でもない。彼女だっていたずらに俺を陥れるためだけにそうしたわけではないし、それは優しさに由来する行為そのもの――のはずだから。


「まだ聞きたいことはあるけど、ある程度知れてスッキリしたよ。だからその、そろそろ頭上げてくれないか」


 ゆっくりと頭を上げつつ、上目遣いで俺を伺う今の天野はとてもじゃないが、生徒会でも財閥の娘でもなく、ただのひとりの天野未花だった。


「俺はお前と最後の絵を描くという約束をした。それはまぁ、ここまで話したがとりあえず、やり遂げてみようとは思う」

「本当に?」

「描きたかった気持ちに嘘はないしな。それに、やろうと思えばどんな結果でも、俺はいつでも筆を折ることができるから。大事なのはその後だが……困ったな」

「ごめんなさい」


 また、頭を下げようとする彼女を制止して俺は続ける。

 俺の決めた最後を貫き通すか、天野の示したその先に進んでみるか。


「ここで終わらせたいのか、続けたいのか。お前の話を聞いてさらにわからなくなった。それは正直今日明日で決められるかと言われたら、無理だ」

「えぇ、そうよね」

「だから俺は、大賞を獲った後に決めることにした」

「え?」


 実に優柔不断な俺らしい回答だと思う。わからないのなら仕方がない。その日の俺に任せてみてもいいだろう。


「ただ、今回みたいなことはもうやめてくれ。その……お前にそういうことをされると、辛――嫌だから」


 ようやく俺はウィンナーコーヒーに口を付けることにした。クリームで蓋をされ、熱々のコーヒーに舌を火傷してしまいそうになる。それが今の俺には丁度良かったのかもしれない。


「うん、そうね……それは、約束する」

「今日からまた、よろしくな」

「えぇ、こちらこそ、よろしくお願いします」


 また深々と礼をする彼女に思わず口元を緩ませていると同時に体の緊張も解れたのか、胃がキュルキュルと弱弱しい音を鳴らしながら訴えかけていた。


「俺もケーキ、食おうかな」

「あ、じゃあ私も」

「いや、あるだろ」

「やっぱりもうちょっと、色々試してみたくて。……出してくれるんでしょ?」


 空になった財布と対照的に、彼女は満たされたような表情で店を出る。

 俺は一体どんな顔をしているんだろう。聞こうとしたけれど辞めて、家路につく。

 俺もまた、彼女と同じなのだろうから。


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