誰も居ないことが続いていた放課後の教室、俺だけのテリトリーとも感じていたそこに、今日は知らない顔ぶれが並んでいた。授業を受けている時よりも人は少ないはずなのにどこか息苦しいが、同時にその緊張感が余裕をなくし、視野を狭め、目の前の『工程』に集中することができた。
ここにあるはずの喧騒が今日はない。いや、この学校自体の喧騒が今日は消えてしまったように音が無い。
廊下を駆ける陸上部、空き教室から聞こえていた吹奏楽部。半ば日常と化していたそれらは『テスト期間前』ということで身を潜めたのだろう。
こうして教室の机に向かっていると、中学生であった記憶がかすかに蘇る。早く家に帰せば勉強でもするだろうということで休止した部活動。テスト期間前の、空っぽな教室。
教師一同は気づいたのかもしれない。どうせ家に帰しても勉強なんてしないだろう、と。自主的に勉強をするようには見えない面々が机に向かうこの光景は、きっと的を射ている子供扱いなんだろう。
シャーペンの滑る音が聞こえる。一方で鉛筆を滑らせる俺だが、同じなのは音だけ。ノートに知識を詰め込むのは彼らで、スケッチブックに信念を詰め込むのが俺だった。本当は木炭でも持っていればよかったが、流石に筆箱の中にソレを仕込むことはしていない。
鉄は熱いうちに打てという言葉があるように、俺もまた心に膿んだ傷と湧き上がる創作意欲を白紙に叩きつけながら『下書き』を進める。
いつもの美術室に今日は足を向けようとは思えなかったのだ。いくら自主性を重んじるここだとしても、3年のこの時期に絵でも描いていたら流石に何かお小言のひとつでも零れるだろう。それに、海原も天野も今日は画材の買い出しに出てくれている。孤立無援なのだから余計に仕方がない。
木を隠すなら森の中とはこういうことを言うのだろう。
描きかけのページ捲り、また白紙に向けて筆を滑らせる。
想像しろ。自分に問いかける。それはあの日向けられた言葉と抉られた心。
岩肌を削る荒波に流されたのはわずかに残されていた俺のプライドと自尊心。悪意のないあの言葉はまさに波、仕方ないと割り切れる自然現象の類とよく似ているだろう。
負けるのか? いいやまさか。負けるはずがない。荒波で削がれた俺もあれば、磨かれた俺だってそこにある。
どこか早まる胸の鼓動に指先が小さく震える。力の入った口元はきゅっと結ばれたように固く閉ざされる。
そんな嵐の中でも俺は征く。大海原を前に出た後悔のない最後の航海はあの日から始まっていて、それは絵の完成と同時に終わりを迎えるのだろう。削れる黒鉛が右手をどれだけ汚そうが構わずに線を引き続ける。
『落日』で見たあの燃えるような『執着』をひとつ。絵描きとしての生は終わってなんかいないはずだから。
『蛍日』で見たあの忘れられない『日々』をひとつ。天野が最後の絵を勧めたあの日は良くも悪くも、俺を変えた。海原が俺を抉ったあの日は良くも悪くも、俺を強くした。
白と黒が織りなす暗夜行路な心象風景。黒より黒い自分自身の感情に飲まれてしまいそうな時、鉛筆の芯が折れる小気味よい音が俺を現実に引き戻す。
下を向きっぱなしで固くなった首を上げると、ぽきぽきと音が鳴る。若干の痛みに耐えつつあたりを見回してみると、丁度俺以外の最後のクラスメイトが教室を出ていく姿があった。
空はまだ明るいが日の長い初夏だから、夕方という時間はとうに過ぎているくらいの時刻あたりだろう。丁度キリの良いところまで描けたところだ、今日はここらで切り上げるとしておこう。
家族――特に父親に見つけられでもしたら面倒くさいのでスケッチブックは置いていこう。床に下ろしていた鞄を手に取り教室を出ようとしたところで、視線を掴んで離さない一枚が教室のある席に、ぽつんと置かれていた。
誰か忘れものだろうか。机に置かれているのはたった一枚の紙で、十中八九その机の持ち主が描いた何かであるだろうが、遠目から見ても描かれているのは文字ではないことだけがわかるソレにどうしても気が向いてしまう。
覗き見をする趣味を持ち合わせてはいないが、どこか人間的な本能なんだろう。そこに燻る悪性が足を向け手を動かして瞳に焼き付けようとする。
それは絵というよりも、線。塗り重ねられた線の集合のように見える。
描かれているのはおそらく花、鳥、人。おそらく、だ。それらの要素がそれぞれ描かれているだけであったら『普通』の絵で終わっただろう。
俺の目を離さないのは、その絵が『普通』ではなかったから。
紙一枚の上で大きく描かれた花、その上に重ねるようにして描かれた鳥、さらに重ねるように描かれた人、幾重の要素を上書きするように引かれた線はその濃さ、太さでそれぞれの存在を主張しているようだ。
これは下書きとは言えないだろう。かといって落書きとも言えないだろう。意図的にそう描かれた意図がわからない。これを指す言葉を俺はまだ、知らない。
「……天才の考えることはよくわからんな」
背筋から肩まで伝う薄ら寒さが身を震わせたところでソレを置き、教室を跡にする。
今夜は少し、冷えるかもしれない。
時は少し遡って。
「咲ー、今日どうしたの?」
「ん? どうしたのって言うのは……どうしたの?」
終業のHR終わりにかけられた疑問に思わず、疑問で返してしまう。いつも笑顔なあの子が今日は少し真面目というか、心配しているような顔で見るから、こちらもこちらで困ってしまう。
「今日ずっと変だよ? 上の空―っていうか、ぼやーっとしてるっていうか。悩み事?」
「あはは、そんなに変だったかな? 悩み事とかじゃないから大丈夫だよ。ちょっと考えてただけ」
今日のわたし、そんなにおかしかったのかな……? 画展の絵、どうしようかなぁとかそんなことを考えていただけなんだけど。
正直それはまだ決まっていなくて、アイデアは今も尚絶賛募集中ではあるが、そろそろ決めた方が良いかもしれない。あれも描きたいこれも描きたい、考えれば考えるほど浮かぶアイデアの折衷案はいつ浮かんできてくれるんだろう。
わたしを覗き込むように顔を寄せるあの子は前から後ろから、最後は横から見てそっと、手を当てる。
「……朝風君のこと?」
「ち、違いますぅ! それだったら悩み事になるでしょ!」
「え、悩むくらいのことになるの?」
「えっ」
あの子に戻った笑顔はいつも見ているソレとは違って、楽しそうというよりかは愉しそう。思わぬ収穫だねぇ……そう続ける彼女に首を横に振る。
「頭で考えていても何も変わらないよ? まずは紙にでも書いてみてさ、頭の中を整理したらあとはGO! だよ!」
「GO! じゃないよ! そもそもそんなこと考えてたんじゃないから!」
聞いているのか聞いていないのか、あとは任せろ。と言わんばかりの表情で小さく親指を立てた彼女は風のように行ってしまった。何がサムズアップなんだ、なにが。
ただ、的外れな彼女の言葉の中でも、頷けるものは少なからずあった。確かに、ここまで絵のアイデアを考えても何も変わらないのであれば、これ以上考えたって同じだろう。紙にでも書いてみるというのは良いアイデアかもしれない。書くというか、描くというか。
愛用のルーズリーフと一本のシャーペンを取り出して、目を瞑る。
一面の闇に覆われる中でわたしは頭の中に映る景色と、ひとりでに動く指先に全神経を注ぐ。大きく大胆に滑らせて、筆を踊らせるの。
この世のどこを探しても咲いていない。わたしの中でだけ咲いているあの美しい花を描くの。つつましく咲いた一本に滴る朝露は、世界中のあらゆる光を凝縮させて反射して、輝くの。それは絶対に枯れることのない、美しい花。
幸せを運んでくれるあの青い鳥を描くの。小さい頃に読んでもらった絵本に居たその鳥は、どこにでもいて、どこにでもいない。小さな身体に秘めた大きな使命を乗せて、羽ばたくの。それは世界中の人々から愛される、世界で一番幸せな鳥。
「――さん、居るかしら?」
「あぁ、――さんならここに居るよ」
微かに聞こえる声を気にもしないで筆を進める。
そんな世界に生まれた女の子を描くの。穢れなんてひとつもなくて、美しいものに囲まれて、幸せだけが詰め込まれた心を持っていて、まるでこの世界の主人公みたいな女の子。
右手は休むことを知らずただただシャーペンを動かし続ける。コピー機のようにただ目の前に映る光景を描いているだけなのにどうしてだろう。あれだけ渋滞していた思考も少しは解消されたような気がして、胸につかえていた何かがどこかに飛んで行ってしまったような気がする。
同時に2度、肩を叩かれてわたし自身もどこか飛んで行ってしまいそうなくらいに跳ねる。瞳を開け、首を右……こっちは壁だから左に向けると、同じ制服を着た子がまたわたしの横に立っていた。また何か変なことでも言いに来たのかな?
「海原さん?」
「あ、あぁ天野さんね! うんうん、どしたー?」
「買い出し、そろそろ行こうと思って来てみたところだけど……眠い?」
「ううん、そういうわけじゃないんだ。じゃ、か、買い出し行こっか」
とりあえず裏返した紙をそのままに鞄を取る。教室で目を瞑っていたわたしも絵を描いていたわたしも悪いけれど、これを人に見せるのは少し恥ずかしい。なんだか頭の中を覗き見されているみたいな気分になりそうだ。
「勉強でもしてた?それならキリの良いタイミングでもいいけど」
「キリいい! いいタイミングだから大丈夫!」
わたしの横を占拠する天野さんを両手で指さし促して、教室を出る。
「さっきの、見た?」
「さっきの?」
「あー、ううん、なんでもないや」
とりあえず一安心、かな?
「独特な絵の描き方するなぁ。とは少し思ったかも」
「……やっぱり見てたじゃん」
首筋から頭のてっぺんまで、妙な熱がわたしを襲っているみたいでひらひらと扇ぐ。
あー、暑い暑い。特に今日は。なんて。