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第15話「ブルベに添えたオレンジを」

 朝食を終え、洗い物も済んだ午前9時。青白から青に変わろうとする陽光はキッチンの明かり代わりとなり、捻った蛇口から流れる水で反射して、キラキラと輝いていた。白の容器に汲まれた水、そっと指を浸してほのかな清涼を感じてみる。


「未花がキッチンに立つなんて、珍しいこともあるんだね」

「あ、おはよう。お父さん」


 おはよう。そう返してくれたお父さんからは優しい苦みを乗せたお父さんの香りがする。それは多分、愛飲しているコーヒーの匂いでああるけれど、私にとってそれはもう、お父さんの香りだった。


「休みの日にお父さんが家にいることの方が珍しいんじゃない?」

「ははっ、父さんも当たり前に家でゆっくりしたいけどね……それで、何か作るのかい? 手伝おうか?」

「ん、大丈夫。水汲んでるだけだから」


 白く4つに区切られた角型の筆洗に水が溜まると、キュッと音を立てて蛇口を閉めた。今日は絵を描きたい。起きてから漠然と浮かんでいた気持ちに答えようとしていたらいつの間にか、身体は動いていた。

 小学生の頃から使っていた筆洗はところどころ絵具の『染み』ができていて、お世辞にも綺麗とは言えない姿をしている。けれど新しいものに変えようと思うことは無く今日まで使い続けているのは、染みというものに愛着が湧いてしまっているからなのかもしれない。


「大丈夫、勉強だってもちろんするつもりだから」

「心配はしてないよ。むしろ今日はお休みしたっていい。頭だけ良くてもできることなんて、最低限生きていけるくらいだしね。そこに彩りは多分、ないだろうし」


 彩り、お父さんはたまにそういう言葉を使うことがある。それは私にとっても、誰にとっても抽象的でよくわからない。全くわからないということではないけれど、ふわふわと浮いているようで、どこか掴めない。

 会社でのお父さんを見たことはないけれど、あの人の言うことはいつも抽象的。それはお父さんがそういう人間なのか、意図してそう話しているのか。どうしても聞きたいことでもないから、尋ねたこともない。


「ねぇお父さん」

「ん?」

「……ううん。やっぱり何でもない」


 筆洗から水を零さないよう、慎重に持つ。揺れて波打つ水はちゃぷちゃぷと跳ねている。無色透明、彩りの無い水は、楽しそうだった。




 しん、と音が聞こえるくらいに静かな大部屋で私は、用意した絵筆を水に浸し、余分についた水分をはらう。

 のせた絵具を筆の先で溶き、ホットプレス――紙目の細かい水彩画用紙に色を乗せる。凹凸が少ない表面の上で筆はスラスラと流れ、色を伸ばすだけでも気持ちが良い。

 これが描きたい、気合を入れた作品を作りたい。そういった気持ちを今日は持ち合わせていなかったから、適当な画用紙で下書きもせずにただ、描いていく。朝食の果物で出たブルーベリー、久しぶりに食べたそれが美味しかったから、それを描いても良いかもしれない。

 薄く淡い紫を乗せ、広げる。精巧ではない丸をいくつも描きながら、頭の中では別のことを考えていた。

 ――急に絵を描きたいと思ったのは、どうしてなんだろう。

 何となく絵を描きたい。と思うこと自体は何もおかしいことではない。そういったことはこれまでにもあったし、受験期の勉強漬けな日々の中では特に、逃避の選択肢として入ってくることはあったから。

 ただ、実際行動に移すことは少ない。描きたいけれど別に、どうしてもというわけではない。それだけ特別な想いがあったのかもしれない。心あたりは……多分ふたつ。

 1つ目は、海原さん――彼女のことを考えるだけで少し、頭が熱くなったような気がした。『1番』になる。彼女は堂々とそれを言ってのけた。一朝一夕の知識や技術で容易く獲ることは出来ないそれを簡単に掴めてしまうくらいの絵は、一体どういうものなのだろう。競う相手は私ではないけれど、反抗心とか反骨精神のような、衝動的な感情にいつしか私も動かされていたのかもしれない。

 2つ目はやはり、朝風君――彼の絵が単純に待ちきれなくて、うずく右手と心がしびれを切らしてしまったのだと思う。

 彼はこの間、『負けない絵』を描くと言っていた。題材が何で、どのようにそれを描くのかはわからない。わからないからこそ、きっとこうして自分も描くことで気付けるかもしれない『なにか』を探しているのだろう。

 けれどきっと、私は絶対に彼が描こうとしているもの表現することは出来ないと思う。それどころか、近づくことすらできないだろう。

 無意識に筆を動かしている中でも私は考えてしまう。わざと大きさの違う果実を添えた対比構図、リーディングライン――視線誘導を使い、主役を引き立てるような配色。定義された理論の上で私はただ、『情報』描いているだけだと。

 一般的に美しいと言われる絵を私は描くことができる。他人はそれを美しいとか、綺麗とか評するのかもしれない。けれどそれはただ美しいだけ。

 画用紙に途中まで描かれたものは新鮮で甘酸っぱいブルーベリーではなく、ただのロジック。そう考えると途端に、今まで描いてきた自分の絵が陳腐なものに見えてきてしまい、そっと筆を置いた。

 ――頭だけ良くてもできることなんて、最低限生きていけるくらいだしね。そこに彩りは多分、ないだろうし。

 父の言葉が頭の中で響く。こう描けば美しい、こう配置すれば惹きつけられる。理論ばかりで頭でっかちな私の絵はまさにそう、『彩り』が無いのかもしれない。


「いっそ全部忘れてしまったら、戻って来るのかしら」


 無邪気に描きたいものを描いて、自由に色を置いて、心の行くまま筆を走らせたら――

 なんて夢を見ていると、携帯の着信が私を現実に引き戻す。指先についた紫をタオルで拭ってから取ると、低く落ち着いた声が耳元で囁く。


「お、出た」

「メッセージじゃなくて電話だなんて、声でも聴きたくなったの? 朝風君」

「あぁ、そうだな」

「……本当に?」

「ちょっとでも信じようとするの辞めてくれ」


 どうやら、適当に打った相槌に踊らされてしまったみたい。呆れながら言う彼の顔が電話越しでもなぜか見えてしまうような気がする。


「あぁそれでさ、今夜暇だったりするか?」

「今夜? また急ね」

「急だから電話したんだ」


 今夜……今夜? 今から暇か、午後から暇か。そう言うことならまだわかる。ただ、夜というのは一体どういうことなんだろう。朝風君は一体何をする気なの? 私は一体、何をされるの? 黙りこくっている私を察したのか、彼はすまん、と一言加えて続ける。


「あの時はごたごたしてたから覚えてないかもしれないけど、あの絵……蛍日の答え合わせをしたくてな」

「あぁ、そういえばそんなこと言っていたわね。花火でもできそうな場所で―、とか」

「それだ、それ。これから雨も降らないらしいからぜひ、と思うんだが」

「まぁ多分、大丈夫だと思う」


 夜に用事なんてもちろんあるはずがないから問題はない。ないけれど……それを親が許してくれるかどうかはわからない。近所で夏祭りとかそういう口実があれば良いかもしれないけれど、生憎七夕のお祭りは来週だし、それ以外のイベントだって大体は来月開催。他に思いつきそうなイベントなんてものもない。

 断る理由としては充分でも、断りたくない理由も同じくらいあった。蛍日――線香花火が映す夏の情景とどことなく感じる切なさの他に秘められたその秘密、彼だけが知っているその『答え』はどうしても、知りたかったから。


「Ok、夜の8時くらいに家前の砂浜あたりに居るから来てくれ。あそこ手持ち花火ならできるらしいぞ。んじゃ」

「あ、ちょっとまっ……」


 通話の切れる無機質な音が響いた。これで親が許してくれなかったらどうするのよ。そうしたら1人で花火でもするの? 家から見えるあの砂浜で? 不審者そのものじゃない。


「やるだけ、やってみるしかないみたいね」


 小さくため息を吐き、筆洗を持って部屋を出る。

 無色透明だった水は緑の混ざった紫となり、深みのある水となっていた。

 今夜の夜空も多分、そんな色で私たちを迎えてくれるのだろう。




 ――なんとか行けそうだから、準備してから行く。5分くらい遅れるかもしれないけど。

 天野からのメッセージに適当なスタンプだけを返し、夜の砂浜を歩く。定義上夏と言われるこの時期でも、さすがに夜はまだうすら寒く、冷えたべたつく風が半袖の隙間から全身を冷やす。

 シャリ、シャリという音を立てながらサンダルは埋もれ、無防備な指の隙間に砂が這入りこむ。

 雲隠れした月の頼りない明かりは砂浜を照らしてくれることはなく、一歩一歩進む度にまるで見えない何かに飲み込まれてしまうようで、少し怖い。

 空のバケツを置き、座り心地はあまり良くないが腰かけて彼女を待ってみる。携帯の示す時刻は20時2分。波の音でも聴きながら待っていよう。

 寄せては返す波の音は記憶のソレよりも大きく激しく、少し寂しい音だった。暗い夜が視覚を鈍らせ、鋭敏にさせた聴覚がそうしているのかもしれないが、その答えはよくわからない。

 そういえば、小さい頃はクラゲが好きだった。なんてことを思い出した。いや、『だった』ではなく今も好きかと問われたら好きではあるが、その理由は違っているような気がする。

 綺麗とかふわふわしていて可愛いとか、少年朝風は純真な心で好きを見つけられていたけれど、今はそういった感情とは少し違う。あの姿とは裏腹に持つ毒の存在を知ってからは『かわいい』なんてとても思えなくなったから。

 意思を持たずに揺れる波に攫われて、自由にぷかぷかと浮かんでいる彼らがなんだか――


「待った?」

「いや、さっき着たとこ。急に誘って悪かったな」

「ううん、何とかなったから大丈夫。……それにしてもここ、花火できたのね」

「らしい……な。公園とか庭とかでしかやったことなかったから、俺も知らなかったけど」


 休日の天野を見たのは初めてかもしれない。風通しの良さそうなワンピースは黒で包まれ、スカートの部分に織り込まれた白は微かな月明かりで青白く映る。制服と違い私服はパッと見でその身分、年齢を明かさない。そのせいか今日の彼女はいつもより大人びて見え、敬語でも使ってしまいそうになる。


「それで、やるんでしょ?」

「あぁ、意外に冷えるからさっさとやろう。袋の中にロウソクあるはずだから出しといてくれ」


 空のバケツに海水を入れ戻ると、彼女は袋を凝視しながら俺に疑いの目をかけていた。なんだその目は。


「これ、全部やるの?」


 ボリューム満点!130本!大きく書かれた文字を指さしながら俺に問いかける。それくらいは許してくれ、それしかなかったのだから。


「……やっても10本くらいだな。後は妹にでもあげようかと」


 砂の上で斜めに立つロウソクに向けてキャンプ用ライターで火を着ける。よくよく考えるとライターなんて高校生が買えるわけがないのだから、物置に置いてあって本当に良かった。さすがの親父もそんなところまで物色したりはしないだろう。……しないよな?

 風の吹く砂浜で火を点けてみても所詮はライター。点いてもすぐに消えてしまう火を守るよう、風よけ代わりに手を置くと、優しい熱が光と共に迎えてくれるようだった。


「点きそう? 私も風よけしようか?」

「そんなことさせられないって、大丈夫だからあれだ、線香花火だけ用意しといてくれ」


 二度三度試したところでようやく、ロウソクに火が灯る。風よけの手はそのままに受け取った線香花火に火を点けたところで、ようやく『答え合わせ』を始めることができた。

 伸びる紙は火が点くと煙を上げながら尻尾のように丸まり、やがてひとつの丸を作る。黄色がかった白がふたつできると、天野は小さく息を漏らしながら笑っているようだった。

 チッ、パチッと弾けるような音と一緒に、その玉からは火花が散った。それは蛍日で描かれたあの花火と同じく弱弱しくて儚気で、瞬きの間にも落ちてしまいそうな赤子だった。そう思っていると火花は次々と散り始め、やがて連続的に大きく咲き出す。波の音にも負けないその音は耳だけでなく、心にも響くような、カラッとした気持ちの良い音。

 しかしそれは10秒も持たずに波の音に負け、また萎れた花のように散り始める。


「あっ……」


 先に点く火の玉はぷくぷくとゆっくり膨れては縮みを繰り返した後、呆気なく唐突に落ちて、硝煙の鼻につく独特な香りと散らした火花の残響だけを残して消え去った。

 俺も天野も言葉を発さない。バケツに落ちた灰が作る波紋が消えるまで、最後の最後まで見守った。


「蛍日の話をしよう」


 そう切り出して、俺はあの日見た『蛍日』を天野に語る。うん、うん。頷きながら聴く彼女はまだ、沈んだ灰に目を向けたままだった。




「これが俺の見た『蛍日』。作者が本当にこんな想いで描いたかどうかはわからないがな」


 朝風君は言い切ると、砂が着くことも恐れずに横になって大きく息を吐いた。

 あれは点けた線香花火が咲いている間だけ思い出せる『あの日々』を描いている。そう彼は言っていた。これを描いた人はもう居ないけれど、不正解ではないということはなんとなく胸の内にあり、それは私もそういった経験がいくつかあるからなのかもしれない。

 経験したことのある匂いや音、景色で何かを思い出すことはよくあることだ。塩素の入ったプールの匂いは幼い私と友達を思い出すことがあるし、古い日記帳を開けば漠然とした記憶が蘇る。十数年経った後でも、コーヒーの匂いでもすれば父の顔だって思い出せるだろう。

 ただ、この絵に描かれている思い出とは少し違って、私のソレとは重みが全く違うような気がしてならない。20年も生きていない私だから、蘇る記憶はどれも普通。あぁ、そんなことがあったな。それくらいにしか思えないものばかり。

 けれど私が60,70……80歳になって思い出す記憶というものはどうだろう。人生のターニングポイントともいえる日々が浮かんだり、今はとるに足らない記憶でも、それが『大切な日々』になっているのかもしれない。


「だから、蛍日だったのね」

「多分な。この人は蛍みたいな小さい『火』を描いたわけじゃない。そこに映る小さな、大切な『日』を表したかったんだと思う」


 あぁそれと、と彼は付け足す。


「あの絵の花火が消えかけって天野は言っていたよな」

「えぇ、確かにそう言ったわね」

「俺はあの時、それにずっと引っかかってたんだ。俺はずっとこれが火を点けてすぐの花火だと思っていたから」

「私の言ったことは今でも間違っていないと思う。けれど、朝風君が今言ったことも、間違っていないとは……思う。どっちも正解ではあるけどそのものではなくて、どちらかというと『足りない』が近い気がするの」


 私も彼みたいに横になって、同じ景色を見ながら頭の中を整理してみることにした。帰ったらまたお風呂に入る必要がありそうだがそんなことは今、どうでも良かった。

 火を点けてすぐの花火か、終わりかけの花火か。似たようなことを物理か何かの授業で先生が教えてくれたような気がした。

 宙に浮いているボールの写真を見せられ、そのボールは『上から落ちている』のか、『下から投げて上がっている』ものなのか、という問題を先生が出していた。私も含めて誰も答えられなかったけれど、それ自体がイジワルみたいなもので、結局先生の出した答えは『わからない』だった。

 その瞬間だけを捉えた1枚なんて見てもわからない。ただ、これは物理学でもなく芸術。それなら私なりの解釈だってしても良いだろう。


「どっちも、なんじゃない?」

「どっちも?」

「えぇ、これは始まりの火花でもあって、終わりの火花でもある。始まりと終わりを描くことでその間にある火……あの日々を表していた。なんて考え方はどう?」


 彼はもう空を見ていない。私に目を向けながら、私を見ているようで、その先にある何かを見ているように止まった後に、笑った。


「ははっ、どっちも、どっちもね。最初からその途中を描けばいいのに、まどろっこしいことするもんだ」

「描きたくなかったんでしょ。それを描いてしまったら最後、それ以上の思い出なんて湧き上がってこないでしょ」


 本当に大切なものは目に見えないし、無理に表現する必要はないと思う。それを描いてしまったら多分、それは途端に陳腐なものになってしまいそうだから。


「面白い考え方だな。俺もそんな答えだったらいいなとは、思う。なんかこう――」

「それ以上は言わなくていいから。なんだか恥ずかしくなってきたもの」


 それに、その良さをひとことでは表してほしくなかったから。

 立ち上がって一本、適当な花火を手に取る。これで少しは湧き上がって来る恥ずかしさもかき消してくれるだろうか。


「なんだ、他のもやりたかったのか」

「後127本も残ってるのよ」

「流石にもうちょっとやったら俺は帰るぞ」


 私が落ち着くまで、あと何本かかるだろう。

 いつか今日という日も忘れたくない『日々』のひとつの為るのだろうかと、そっと花火に火を点けた。



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