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第14話「緑のきみはほろ苦く、赤黄のわたしは甘酸っぱい」

威圧感も妙な気品もない家の扉、それを音を殺すようにして開く。いつも乱暴に脱ぐ靴も今日は時間をかけてゆっくりと脱ぎ、すり足でリビングの扉の前まで行くと、覚悟を決めてその扉を開いた。


「……ただいま」


 返答はなく、静寂が聞こえるくらいに静かなリビングは居心地が悪い。いつもおかえりをくれる母親の声がないのはおそらく、風呂にでも入っているのだろう。

 いつもと変わらないのは、ソファーに座り老眼鏡をかけながら本を読む父親の姿だろうか。俺を一瞥するとまた、視線を本に戻す。それはチラリと言った優しいものでは無く、どちらかというと、ギラリ。これは……マズイやつか。

 居づらさの横たわるリビングはどことなく窮屈で、誰に何も言われたわけでもないが、静かに隅を沿うように歩く。いや、むしろこれは何も言われなかいからこそ。ではあるのかもしれない。


「こんな時間まで出歩いて、連絡も無しか」


 やはり父が逃がしてくれるわけがなかった。指一本触れられているわけではないけれど、身体が重い。威厳とか畏れとか、そういう類のものでは無いナニかに足をからめとられているようだ。


「進路相談とかそういうのしてたら、遅くなった」

「そうか。……決まったのか?」

「決まらなかったからこんな遅い時間までかかったんだよ」


 返す言葉はもっと気の利いたものだってあっただろう。投げやりで悪意のある言い方しかできない自分に、嫌気が差す。

 そんな言葉を吐きつけられた父親は表情ひとつ変えずに、本に散らばる活字を追っているだけだった。ここ数年こんなことばかりだ。言いたいことは引き出しの奥にしまって、代わる言葉を吐いて、それで終わり。


「あぁ、そうだ。悠」

「ん」


 これ以上ここに居て良いことなんてひとつもないだろう。部屋のノブを回したところで父親は本を閉じ、わざとらしい言い方で俺を呼び止める。あぁそうだ。父親が急に思い出す素振りをするのは大体、入念に準備された『お小言』が飛んでくる予兆なのだ。心の中で舌打ちをしながら、静かに身構える。


「これ、落としてたぞ」


 今度は俺の方をしっかりと向いて、父親の言う『これ』が差し出される。ところどころコーティングの禿げた細い、俺の絵筆。いわゆる『これ』を見て少し肩を震わせたところを父親に見られただろうか。

 どうしてそんなものを持っている? どこでそれを? よりによってあんたが? 疑問は浮かべどとりあえず俺にできることはそれを受け取ることで、手を伸ばすが筆は父の手から離れない。

 ギッと握る手は今にもそのか細い筆を折ってしまいそうなくらいに強い。俺の絵筆は今、父親と俺を繋ぐものと化しているようだった。


「どうしてこんなものが玄関に、落ちていたんだろうな」

「さぁな。片付けでもしてる時に落としたんだろ」

「だとしても玄関でそんなことしないだろう。それに、こんな平日の朝なんてそれこそだ。学校なんかに持って行って……」


 詰めが甘かった今朝の自分を殴ってやりたい気持ちになる。学校でなら親の目を盗んで描けると思って少しずつ持って行った画材たちだったが、まさかこんなあぶれ者を残してしまっていたなんて思いもしなかったのだから。


「もう描かないんだから家に置いといても意味ないだろ。それだったら学校の美術室にでも寄贈して使ってもらった方が、こいつらだって本望だと思うけど」

「あんな使い古したもの、誰が使うんだ」

「受け取った学校側にでも聞いてみたらいい。使う使わないにしろ、もう俺は描かないんだから。生前贈与みたいなもんだって」

「悠!」


 流石に今の言葉はまずかったか。すべる唇を押さえても時すでに遅し。老眼鏡を乱暴に外し、レンズというフィルターを介さず俺を直接睨みつける父親は多分、本気で怒っている気がした。

 ただ、今の言葉を否定しようとは正直思えない。ここでは『絵を描く朝風悠』は既に死んでいるのだから。殺したのはお前だろ。父さん。


「とりあえず、それ月曜に持ってくから渡してほしいんだけど」

「いや、」

「は?」


 差し出したのはあんただろうに、どうしてその手を離さないのか。俺に渡してくれないのかがわからない。


「本当に寄贈しているかどうかなんてわからんからな。気が変わった」

「そうかよ。じゃあずっとそうやって持っていればいい」


 苛立つ感情は抑えきれずまた『悪手』に出、部屋のノブを握り今度こそ部屋を出る。陽の落ちた自室で電気すら点けず、乱暴にベッドへ飛び込んでは悪態をつく。


「なんなんだアイツは。自分が成功した画家になれなかったからって俺にも諦めさせて、『普通』『普通』って何度も言い聞かせて。強制して矯正して、遠ざけて遮って。お前がなれなかったからって俺がなれないとでも思ってるのか? お前がなれなくて息子がなれたら悔しいとでも思ってるのか? 俺はあんたの息子だけどあんたのおもちゃでもなければ作品でもない。俺は俺なんだよ!」


 暗い静寂の中、俺の声と荒い息遣いだけが響く。ベッドに一度振り下ろした拳はその勢いと裏腹に、軽く柔らかい音を立てて沈み込む。吐き出した後の爽快感は一瞬にして抜け、残るのは空っぽで空虚な殻だけだった。

 肩を使う呼吸を止め、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐きながらただただ、天井を見る。浮かぶ染みはまるで星みたいで、不規則に散らばるそれらは星座と化していた。

 どうでもいいものが今はどうしようもなく綺麗に見えて、その星に思わず想いを乗せてしまう。それが凶星であってもどうでもいい。今はただ何かに縋って、信じられるものが欲しかった。

 落ち着いてきたところでスマホの電源でもつけてみる。ボヤっと光る液晶が、今日は金曜日だということを教えてくれた。


「明日、休みか」


 休日に学校に行く用事なんてない、絵筆もなければ、絵の具もない。良くも悪くも最近は絵のことにとらわれ過ぎているような気がするから、明日は久々にゆっくりと休もう。

 といっても、何もすることはない休日はどうやって過ごしていただろうか。つい最近までそんな日々が続いていたような気がしていたけれど、すっかり忘れてしまった。

 かと言って今のあの家に居たいとは微塵も思わない。居るだけで疲れるあそこに居たら多分、腐ってしまうだろう。やること、何かやること……この際だから見つけに行くのもう良いかもしれない。新しい文房具を買いに行くとか、人気らしい名前だけ聞いたことのあるカフェに行ってみるとか。参考書を買ってみるとか。


「あ」


 そういえばひとつだけあったじゃないか。どちらかと言えば、やるべきことというよりも、やりたいことの方が近いだろう。

 ――花火、買っとくか




「ご乗車、ありがとうございました」


 強まったり弱まったりする雨の中走るバスが止まり、まばらに降りる人に合わせてわたしも席を立つ。バス停からショッピングモールまでの間にある短い距離を頭に鞄を乗せながら小走りで駆けると、湿る空気を忘れさせてくれるような冷気と陽気なBGMが出迎えてくれた。

 入口で待っていると携帯の通知がわたしを揺らす。画面には待ち合わせをしているあの子からのメッセージだった。

 ――咲、ホントごめん! 親が勉強勉強言いうから今日行けないかも……


「えぇ……? わたしもう着いてるんだけど……? 」


 ――咲、勉強も飽きてきたしお出かけでもしない? 参考書選びとかそれっぽい理由あれば行けるよね!

 そう誘ってくれたあの子からの一文はもう少し早く送れなかったのだろうか。あの子の家から若干距離のあるここまで来るのが面倒くさくなっちゃった? 雨だと外に出たくなかったから? 余計な邪推がわたしを覆う。

 雨の中、宛ても無く外を出歩くということはしたことが無かったけれど、そこに『おもしろそう』はないから辞めた。それなら傘なんてささなくてもいいここをプラプラと歩いてみようか。

 このあたりでは一番多きいショッピングモールは閑散とまでいかなくとも、すれ違う人なんて学校の廊下よりも少し多いくらいだった。小さい頃、それこそここが建って数年は土日言えばイベントがあって、友達や知らない学校の同じくらいの子たちがいっぱいで、もっと賑わっていたような気がする。今はイベントスペースなんて大きなスピーカーだけが置かれているくらいで、近くに告知のポスターなんてものもない。友達とはぐれないように、うまい具合に人の波を避けて進む必要もない。多分、目を瞑って歩いても人にぶつかることなんてないだろう。……さすがにしないけど。

 単に梅雨の時期だからというのはあるかもしれない。駅からは少し遠いし、バスの本数だってそこまで多い訳ではない。用はなくともフラッと立ち寄れる立地ではないからなんだろう。うん、そうだよね。

 端から端までとりあえず歩いてみよう。ヒールサンダルがカツ、カツと音を鳴らす。これだけ広い道をヒールで歩いているとなんだか女王様になってしまった気分。王女様、というより女王様だよね。うん。


「あ、そうだ」


 女王様と言えば、小さい頃によくやっていたアレでもやってみよう。イベント広場横のエスカレーターがわたしを運ぶ。

 登り切ったところで手ごろな手すりに掴まり見上げてみる。採光用に張られた天井のガラスから日光は入らずとも、どことなく高級感を感じさせられるシャンデリアの紛い物が吹き抜けの1階とわたしを照らす。

 うん。やっぱりそうだ。吹き抜けから見下ろすこの景色こそ小さい頃に憧れた、映画や絵本に出てきた女王様の見ている景色そのもの、みたい。

 『民衆』はそう多くなくとも、わたしは今女王様なのだ。みんなから注目されて、みんなから愛される。わたしも愛した、女王様なのだ。なんて。

 久しぶりにこういうことをするとなんだか、背中から首筋にかけて嫌なむず痒さが走る。他の人から見れば、ただ見晴らしの良い吹き抜けの景観を見ているだけだというのに。どこか恥ずかしい。そもそも見てる人も居ないのに。

 子どもっぽい自分に自嘲じみた笑いを返しながら振り向くと……あれ、見てる……人? 学校でも外でも雰囲気は変わらない。着崩したワイシャツの色が白か灰の違いだけの、なし崩し的になってしまったわたしの『好敵手』が、そこにいた。


「おう」

「お、おうおう」


 朝風くんという『民』の前に、王女様はただ下手な笑いを返すことしかできなかった。




「参考書なぁ……大学もう決めたのか」

「決めろ決めろー。ってうるさかったじゃん。あの進路指導の……誰だっけ」

「海原が知らないことを俺が知ってるわけがない」

「あれだけ仲いいのに」

「あっちが俺を呼ぶだけだよ」


 参考書選びというものは名目的な目的から実質的な目的に変わっていた。書店の奥の奥、普段は絶対に行かないようなコーナーは、一面赤で埋め尽くされて目が痛くなる。同時にこの状況のせいで頭も痛い。

 居づらい、というか気まずい。正直朝風くんはわたしを見つけても声なんて掛けてくれないと思っていた。ただの1クラスメイトなだけだし、美術室の『1件』があったから尚更。『どうでもいいクラスメイト』から『嫌いなあの人』へすっかり成り代わっていたものだと思っていたから。

 それに、朝風くんに送ったメッセージだって既読すらつかない。もうこの名前すら見たくなくなったのかな? なんて心配していたけど、今日の彼はこの間までの彼とまるで変わらない。それは表層だけしかわたしが視ていないだけかもしれないけども。

 志望校として選ばされたところの赤本をいくつか手に取ってみると、その厚さ以上にのしかかる重みをたしかに感じる。買ってしまったら最後、そこを目指すことを強いられてような気がしたから。そのプレッシャーというものかもしれない。


「そこ、行くのか?」

「行くんじゃない?」

「他人事だな。確かに海原なら、目を瞑って適当に取った参考書の大学を受けても受かりそうだし」

「なにそれ、おもしろそう。神頼みってやつだね」

「やってみるか?」

「朝風くんもやるんだよ?」


 俺もやるのか。苦い顔をしながらも渋々と目を瞑る彼に大きく頷く。多分、見えてないだろうけど。

 こんなの1人でやったって恥ずかしくなるだけだよ。2人でも3人でもそれは変わらないだろうけど、少なくとも恥の分散は出来るはず。

 瞳を閉じ、口を閉じる朝風くんの髪をこの時期にしては寒いくらいの空調が揺らす。ガサツでも隙だけは見せない彼の無防備な姿に思わず瞳を閉じることすら忘れ、見つめてしまう。わたしが合図するまで彼はこのままなんだろうか。もしもわたしが何も言わずに去ってしまったら、彼はどうするのだろうか。わたしが――


「……まだ?」

「あ、あぁ! もうやるもうやる」


 ――答えは催促してくる。だった。

 言いながらまた、チラリと彼を見つめてみる。こんな瞬間はなかなか無いし、もしかしたらもう見られないかもしれないのだから、もう少しだけ彼を見ていたかった。

 次に彼が口を開く前に、わたしもゆっくりと瞳を閉じる。本をねだる子供の声、身を震わせるくらいに冷たい空調の音、微かに聞こえる息遣い。

 さて、どこから一冊とってみようか。右?それとも左?覚えようはしていなかったから、どこ場所にどの大学の赤本があるのかはわからない。文字通り神頼みな進路選択に不思議と心が躍る。


「じゃあいくよ? せーのっ」


 選んだのは右側。平積みされている中から適当に一冊とり、表紙をそっと撫でてみる。そこはどんな大学なんだろう。何が学べるかな。そこはどこの大学なんだろう。地元からはあんまり離れてないと良いな。

 厚さはさっきとった本とそう変わりはないけれど、重みは全くと言っていい程無い。それはそうかもしれない。その進路を選んだのはわたしではなく、神様なのだから。

 そっと目を開き、選ばれた未来を直視すると、その未来に思わず笑みが零れる。あぁ、やっぱり『おもしろい』。それはわたしだったら1ミリも想像のつかない、一歩先も見えない未来。


「ねぇ見て、わたしここに行くんだって。朝風くんは――……あさかぜ、くん?」


 瞳を開けた彼はまだ、無防備なまま固まっていた。それは開くというよりかは見開いているようで、嬉しいも悲しいもその表情から読み取ることは出来ない。

 半開きになった口からは停止した思考の残滓が流れ出ているみたいに、小さく声が漏れていた。


「夢、か?」


 様子のおかしい彼の腕を二度三度叩いてみる。ハリのある肌からは跳ねるような音が聞こえ、細い腕からは直接響くような低く鈍い音が鳴る。


「あぁ。どうだった?」


 ハッとしてからはそこに居るのはいつもの朝風くんだった。なんとなく一歩引いた感じで、隙がありそうで無い……というか間合いに居ない彼が。


「多分、わたしだったら選べなかったかな。おもしろそうなとこだよ。そもそもこういう系の大学って赤本自体ないでしょって思ってたし」


 表紙を見せた感想は、本当に行くのか? だった。すぐに首を縦にも横にも振ることはできずに、曖昧な返事を返してみる。行けるのであれば行ってみても良いけど、正直そこに通うわたしも、そもそも受かるわたしの姿もあまり想像はできない。

 親や先生が許してくれるのかどうかというのも問題のひとつとしてあるだろう。理由と熱意があれば許してくれるとは思うけど、そういったものが今日の、今現在のわたしには多分ない。だってわたしが選んだわけじゃないから。


「あー、買うにしろ買わないにしろ、何か食いに行かないか?」

「えっ、あぁうん。いいよ」


 朝風くんは急に彼らしくない提案をしながら左手で取った本を裏返して、棚に戻す。


「先席だけ取っとくわ。後で上来てくれ」


 そう言いながら彼はそそくさとその場を後にし、1人で先に行ってしまった。その本はとりあえず買ってみるとして、カウンターに行くよりも先に裏返しになっていた本を1冊手に取ってみる。彼はわたしに付き合ってくれただけだから、そこに行くかどうかはわからない。けれど、あれだけ目を見開かせるような神様の選んだ朝風くんの未来というものをわたしは、見てみたかったのだ。

 隠した本、避けるように出て行った書店。ただ1冊の本を裏返すだけなのに伸ばす腕は小さく震えているようだった。残した秘密に触れる背徳感と罪悪感と、隠された好奇心がそっと裏返す。


「東京、芸術、大学……」


 奇しくもそれは神様がわたしに選んでくれた未来と、同じものだった。




 エスカレーターを登り、少し進んだ先にあるフードコートに脚を進めると、空いた一席で手を振る朝風くんがいた。

 秘密を知ってしまったわたしと、何もしらない朝風君。参考書を買ったタイミングで帰りたいという気持ちは少しだけあったけれど、そういうわけにもいかずに小走りで席に向かう。


「おまたせ」

「おう、昼ご飯……って言っても微妙な時間だけど、何にする?」


 携帯で確認してみると、時刻は既に14時を回っていた。

 このモールについたタイミングで何か食べようかと思っていたけど、あの子は来ないし朝風くんは居るしですっかり忘れていた。お腹は空いているけれど、空いた胃の中には後ろめたい気持ちを詰め込んでいるから食欲はあまりない。あぁ、緊張して変な汗出てきた。


「わたしアイスでも食べようかな」

「こういう時くらいしか食べないし、俺もそうしようかな」


 相変わらず冷たく吹き付ける空調の中でもわたしは冷たいものを選んでしまう。顔まで熱くなってきた今には最適かもしれないし、おそらく赤みがかってしまっているであろう頬も少しは引いてくれるだろう。

 一応のため参考書以外の荷物を持って行ってみると、青、白、ピンクの文字で書かれたロゴとミント色のアイスがプリントされたのぼりが目に入る。それを見た途端に湧いてくる食欲をいわゆる、別腹と呼ぶのだろう。


「いらっしゃいませ! ただいま新作フレーバー販売中です! ご試食いかがですか?」


 ニコリと微笑みながら渡されたスプーンをとりあえず、受け取ってみる。一口大に載せられたソレは黄色と赤が交互に渦巻き、もう少し後で来る真夏を先取りしたような色合いだった。


「朝風くんももらっとけば?」

「あ、俺はもうチョコミントって決めてるから」

「チョコミン党なんだ」

「将来は党首になれたらと思ってる」


 それでいいのか。いや、そこまで言えるならいいのだろう。とりあえず受け取ったサンプルのアイスを一口いただいてみる。

 冷えたアイスを舌に乗せると口の中では清涼が広がり、パイナップルとイチゴのしつこくない甘さが優しく融ける。ひとかけらだけ入っていたマンゴーの柔らかい果肉を噛むと流れ込む果汁に、わたしは夏をおぼえた。


「わたし、これにする」

「他にも見ていかなくていいのか?」

「だって見たら選べなくなっちゃうんだもん。さっきの試食のフレーバーください!」

「あ、俺はチョコミントで」


 そう言うと、並べられたアイスの中から専用のアイスクリームディッシャーで綺麗な丸を作る店員さん。チラリと見えてしまったアイスのショーケースは青も黄色も緑も白も黒もあって、それはまるでたくさんの絵具が乗っているパレットみたい。


「お待たせいたしました! チョコミントとトロピカルシャイン・ミックスのダブルです!」

「どうも。いくか」

「あ、わたしの分まだもらってなくて」

「? いや、あるじゃん」


 朝風くんが見せるカップには彼の頼んだチョコミントの淡い緑と……対照的に鮮やかな赤と黄色が並べられていた。そして刺さっているスプーンはなぜか2つ。


「あれ、もしかして1つのカップに2つ入るやつで頼んじゃったってこと……?」

「そんなこと言ってないと思うけどな。俺はチョコミント、海原はあの……新しいやつって。別々で頼んだ気がするが」

「それなら普通、別々のカップで来るはずじゃない?」

「それはたしかに」


 これはもしかして、いや、もしかしなくとも店員さんは『粋な計らい』をしてくれたのだろうか。そっちの方がちょっと安いし。同じカップで食べられるような関係だって思ったってこと? いやいや、それは……あるのかもしれない。


「ま、いっか」


 いいの!? 嫌ではないけど、いいの!?

 そういうところなんだよ? なんて思いはするけれど言っても何も変わらないだろうし、今更別々でなんて頼むことは出来もしないから、観念して席に戻ることにした。


「いただきます」

「い、いただきます」


 手を合わせてから慎重にスプーンで自分の分だけをすくう。触れるか触れないかの距離で距離を詰めるスプーン達を見ているのは少し、心臓に悪い。

 綺麗に黄色と赤だけすくったスプーンをそっと口に寄せ、ゆっくりと味わう。緊張していても味のわかるくらいに爽やかで甘いアイスはわずかながら、わたしを癒してくれるようだった。


「うん、うまい」

「うん、美味しいね」


 彼もわたしは良さのわからない緑――もといチョコミントを頬張ると、小さく口元を緩めて笑む。本当に大好きなんだ。チョコミント。


「海原」

「ん? どうしたの?」


 彼の大好きなチョコミントをもう一口、とはいかず。スプーンを刺してからわたしを見つめる。食べながらで聞くようなことでもないのかもしれないから同じく私も、適当なところに刺して耳を傾ける。


「この間はその、悪かったな」

「えっ?」

「あれだ、ほら……この間美術室で居た時のこと。天野は急に怒るし、俺もあいつも急に出て行ったし」

「そ、それはこっちの方だよ! わたしだってあの時は酷……いろいろ言っちゃったし」


 謝る朝風くんの頭が下がらないように思わずわたしは手で制す。まさか彼自身から『あのこと』を切り出してくるとは思っていなかったから、あわててわたしも頭を下げる。

 あの時わたしが吐いた言葉を『酷い言葉』と言うことは辞めた。あの『事実』を『酷い』なんて言ってしまったらそれこそ、わたしは朝風くんを傷つけてしまうような気がしたから。

 それに、天野さんのことでも頭を下げては欲しくなかったから。朝風くんは朝風くんで、天野さんは天野さんでしょ?


「わたしはね、本当に気にして――嫌だなあなんて思ってないよ! むしろ謝るのはわたしの方なの。うん。むしろ、謝らせて」

「海原は多分、事実そのままのことを言っただけだろう。それだったら――」

「それ以上は言わないで」


 わたしのためにも、きみのためにも。

 そう言うと彼もそれ以上は踏み込まんとするようにまた一歩引いて、再びスプーンに手を付ける。うん、朝風くんはそれでいい。それでいいの。


「ただ、これだけは言わせてくれ」


 わたしはまだスプーンを持てずにいる。彼の言う『それだけ』がどれだけ大きいものかわからなかったから、小さく頷いて心も身体も身構える。


「俺は勝つぞ」


 その短いひとことはあまりにも大きくて、重くて、簡単に溶けてしまうものではないみたい。二度三度頷くと、下ろす彼はそれだけだと言い、またチョコミントを口に運ぶ。

 もうこの話をすることはないのだろう。打って変わってまた口元を緩める彼は爽やかに笑む。ただ、どこか一筋の影を下ろす彼は少しほろ苦くて、まるでチョコミントのようだった。


「今日はいつもより旨い気がするな」


 だからわたしももうこの話はせずに、彼に合わせてアイスを口に運ぶ。空いた片手で携帯をいじり、彼へのメッセージを消しながら。


「作り方でも変えたのかな?」

「昔から完成されているこれの作り方なんて変えるのか……? いや、わかった気がする」

「わかった?」

「海原と食べてるからかもしれん」

「わたし!?」


 思わず吹き出してしまいそうだったけれど、何とか口に運んだアイスを死守することは出来た。その代わり全く味はしないけど。

 どうしてそういう飛躍をしたんだろう。てっきりチョコとミントの配分を……とかそういうことでも言うと思っていたから、本当に予想外で視覚外からの一撃だった。


「それ、本気で言ってるの?」

「あぁ、ひとりで食べるより誰かと食べた方がおいしい。ってよく言うだろ」

「それ、わたしじゃなくても同じじゃない?」

「あー、確かにそうだな」


 うん、ここで納得されてしまうのも少し悲しい。そんなことなら聞かない方が良かったのかもしれない。


「海原はそういうことないのか?」


 わたしに振るの……? それならわたしだって思うことは言えるけど本当に? 本当に言ってしまっていいの? 確かに今日のアイスはいつもより美味しく感じるよ。それは――


「同じかな。朝風くんと、きみと食べるから、美味しい」

「同じなら俺というか、誰かと食べるから。だな」

「うーん……まぁそれでいいや」

「違うのか?」

「うーん、ちょっと違う、気がするかな? あはは。なんか今変なこと言っちゃってるかも」


 渇きに渇いた喉を潤すように、スプーンに収まりきらないくらいに大きくすくって一口、頬張ってみる。

 パイナップルとマンゴーとストロベリーと、その他諸々が私の口の中に広がっては忘れられない後味を残しているみたい。

 その味はなんだかとっても、甘くて、酸っぱくて。

 わたしもまたこのアイスみたいに、溶けてしまいそうだった。


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