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第13話「グリーン・フローライト」

 知らない時代の、知らない河川敷を1人、水を半分程溜めたバケツを持ちながら歩いていた。真夏の茹だるような暑さは流石に夜になると落ち着きを見せるようで、生温い風がまばらに咲くヒメジョオンを乱暴に撫でる。その風に南風まぜという名前があることはなぜか、知っていた。

 雨上がり、道とも言えず舗装もされていない土の上を行く。その度、泥となった土が妙に履きなれた下駄に張り付くのがわかる。ちゃっ、ぴちゃり。粘り気のある音に子供の頃、膝下まですっぽり入る長靴で水たまりを踏みながら帰った日のことを思い出す。

 何が楽しかったのか踏み抜いては笑い、長靴に守られた靴下を飛び跳ねた水が上から濡らしては怒られたあの日が懐かしい。今では皺を蓄えたこの顔で悪態をつくだけだと言うのに。

 あぁいう風に笑えた日がなぜだか、遠い昔のように思えてしまう。

 人気のない道で適当にしゃがみ、そこらじゅうで元気に泣く虫を驚かせないようゆっくりと、バケツを置く。妙に萎びた腕で巾着から取り出したのは、くたびれた線香花火とマッチ箱。

 湿気った空気でなかなかに火は付かない。1本、また1本。無駄にする度焦燥が『僕』を焦がす思いをする。

 残った数本でやっと火が付き、震える手で線香花火にその熱を伝えると、煙が登り、燃える先端は何かの尻尾のようにくるまり、やがてひとつの球となる。

 蕾。忙しなく小刻みに震えるソレは、蕾と呼ぶらしい。

 微かな熱を持ち手から感じる。それは今にも咲きそうな花火の熱のはずだが、それだけではないような気がしてならない。

 パチ、パチ。と乾いた音が響く。小さくも力強く火花を散らし始め、その短い一生を存分に散らす。これを松葉と言うらしい。

 その世話しない音はどこか、夏祭りで賑わった今はさびれてしまった神社を思い出す。

 今となってははした金程度のお小遣いをもらって駆けたあの夏、

 知っているはずなのに、違う顔を見せる夜の町。

 金魚すくいの鮮やかな紅。

 氷水で冷やされ、ビー玉で蓋のされたラムネ瓶。

 学校では見ない浴衣姿のあの子。

 その光、その音がしている時だけ、『僕』はあの日の少年に戻ることができるのだ。

 光の先で手を振るあの頃の旧友たちに思わず、手を伸ばす。それがあまりにも眩しすぎたのか、熱すぎたのか、反射的に震わせた手は脆い花火の球を落とし、水溜まりに沈む。


「……バケツはいらなかったな」


 辺りはまた闇に沈み、広がる波紋と微かに登る火薬の匂いと煙だけ。

 もう夏祭りの喧騒が聞こえることも彼らが見えることもない。虫のさざめきが『僕』を引き戻そうとしているみたいに主張する。

 残った線香花火に火を付けようとしたが、やめた。


「あぁ、もう行くんだね。それじゃあ僕もそろそろ」


 バケツを持ち、かがめた腰を上げてまた、泥混じりの道を行く。

 人生は歩めば歩むほど、思い出せないことが増えてくる。記憶は掠れ、その景色も白黒に褪せる。ただその一方で、どうしても忘れられないものもある。

 毎年、この時期になると『僕』はどうしても、それに縋り付いてしまう。

 道の途中、川縁を飛ぶいくつかの蛍を見た。光っては消え、明滅する様にあの日の僕を見たような、気がした。


「次は直接、会いに行くよ」


 8月16日、僕とみんなの夏はこの瞬間に終わりを告げる。

 か弱い送り火で帰るみんなに背を向けて、街灯の照らす帰り道を『僕』はゆっくりと、進むのだった。




 鈍い痛みが走り、思わず目を開ける。

 知らない何かが頭に触れ、こじ開け、強引に這入ろうとする。それを弾くように頭は揺れて視界が広がり、何かが抜けていく。

 冷たい汗は額を下り、肩を揺らしながら必死に息を吸う。まるで、深い水中から顔を出した時みたいに。

 その間に考えられることなんて何もない。

 揺さぶられた頭に揺れる視界。ぼやけた蛍日の世界がその広がりを見せているように――


「ねぇ」


 ……その広がりを彼女が割って入る。のぞき込むようにかがみながら手を振る彼女は、不思議そうに俺を見ていた。


「大丈夫?」

「まぁ多分、大丈夫」


 自分でもよくわからないのだから、曖昧な返事でも返してみる。もう十分見たのだから一旦、この絵からは離れよう。


「一旦、外の空気でも吸いましょうか」

「あぁ、助かる」


 両開きの大きな窓を彼女が開けると、少し塩気の入った涼しい風が入って来る。きっと海が近いからだろう。作品のことを考えると潮風なんてあってはならないものだとは俺も彼女も知っているはずで、それでも窓を開けてくれた天野に心の中で感謝の意を示そう。

 深くソファーに腰かけて一呼吸、落ち着いたところでそのまま、溜まった『悪い』空気と一緒に言葉を吐く。


「天野って線香花火、やったことあるか?」

「小さい頃にやったことはあるはずだけど……覚えていることは少ないかも。近くの海沿いが丁度花火OKな場所でね。 朝風君は?」

「同じく、だな。やった記憶はあるけど、ぼんやりとしか覚えてない。あぁでもあれか。妹がこの間花火やったとか言っていたな」

「妹さん、いたの?」

「来年から小学生くらいのな。行かせたい学校があったらしくて、今は母さんの実家にいるけど」


 知らなかった。ではなく意外というのはどういう意味なのだろう。深く考えることでもないか。

 ただ、今の会話で分かったことがある。それはあの絵を深く知るためには俺も彼女も、前提としての知識……いや、経験か? そういったものが抜け落ちているということ。あの線香花火は終わりかけなのか、咲き始めなのか。その答えを今日出すことは多分、できないだろう。


「なぁあま――」

「あ、朝風君!」


 両開きの窓はそのままにカーテンだけを急に閉める天野は、珍しく焦っているようだった。彼女が実は感情の起伏が大きい人だということはここ数週間だけでも痛い程感じているけれど、焦る彼女。というものは見たことが無かったような気がする。

 何もないはずなのにあたりを見回しながら小走りで駆け、耳元に触れてしまいそうな距離まで顔を近づける。


「今すぐ帰った方が良い」

「それまたどうして」


 居座る気もないし、帰れと言われたら俺には帰るしか選択肢はない。けれど流石に唐突過ぎないか? 何も知らず、対照的にくつろいでいた俺により一層、彼女は苛立ちを募らせるように小さくため息を吐く。その距離でそれはやめてくれ。


「出張って言ってたのに帰って来たのよ」

「誰が」

「お父さん」


 それは帰ろう。彼女のためというよりも、俺のために。

 彼女の父親は知らないし、俺も父親になんてなったことはないから気持ちもわからない。

 けれど、本能的に会ってはいけないということだけはなんとなく、わかる。いや、会うこと自体は別に良いだろう。問題なのはその場所が一人娘の彼女の家、ということ。

 家を空けているうちに知らない男が娘と同じ部屋にいるなんて知ったら、何をされるかわからない。


「んじゃ、あの絵についてはまた今度ってことで」


 立ち上がり、部屋の扉に手を掛けようとしたところでそれは空を切る。そっちはだめ。彼女は言いながら俺の手首をつかむ。


「窓から見えたから多分もう。玄関まで来てる」


 天野は扉に耳を当てる。壁一枚隔てた廊下からは母親の穏やかな声といかにも威厳のありそうな、太く低い1人の声。


「詰んでないか?」

「詰ませないから、一旦ソファーの裏にでも隠れてて。ちょっと行って来るから」


 彼女が振り払った手は子供がやりそうな『あっち行け』をし、それに従うことしかできずソファーの裏でとりあえず丸まってみる。こんなことをするのは小学生以来かもしれない。ただ、あの時はこんなスリルなんてまるでなかった。

 遠ざかる足音でこの部屋にはもう、自分しかいないということが分かった。どれだけ待っていれば良いのかはわからない。そもそも、ここに居るだけで安全かどうかもわからない。

 連絡でもとれるようにと携帯の画面だけは点けておこう。

 画面を付けると、いくつか通知が溜まっていたので目でも通してみる。海原……は後でいい。母親からのも後で返せば良い、うわ、親父からも来てる。

 デジタル時計に目を向けると、時刻は19時24分を指していた。家に門限なんてルールはないけれど、受験生にもなった息子がこんな時間まで遊び歩いていたら連絡くらい寄越すか。どこかで勉強なんて言っても信じるはずがないだろう。親に信用されていないのは少々傷つくかもしれない。いや、たしかに外で勉強なんてしたことはないが。

 扉の開く音が一度聞こえると、呼応するように思わず肩を震わせた。息を殺して近づく足音に耳を澄ませてみる。軽やかで小気味良いこの音は多分、男の足音ではないから大丈夫だろう。


「未花は、どの絵を見ていたんだ?」


 まずい、男の足音だったのか。壁越しに聞こえていた威厳のある声を隔てるものはなく、向けた背の向こう側から直接音が響く。


「おじいちゃんが選んだこれかな。蛍日」

「蛍日、か。もう少しすればまたこの季節、か」

「今は夏だよ?」

「夏といっても初夏だろう? 暑中にはまだ早い」


 話の内容が全く頭に入らん。それよりも声は近づいてくるのか、遠のいていくのか、それに全神経を集中させることの方が今は大事だから。


「真夏に雨なんて降るの? わざわざ水溜まりなんて描かれてるんだよ?」

「絶対に降らないとは言えないな。それに、そもそも実際こんなところで花火をしていたのかどうかすらもわからない。見たものを素直に描くことだけが絵ではない。未花にはまだ早かったかな?」

「またそうやって子供扱いして」

「まだ子供だろう?」


 そう言って笑う天野父、彼の人物像というものが声を聴く度に曖昧になっていくような気がした。


「あ、お父さん、お母さんがなんか呼んでるみたい」

「どうせ風呂か夕飯かあたりだろうな。未花はもう夕飯食べたい?」

「ちょ、ちょっと疲れてるからもう少しゆっくりしてからがいいな。先お風呂入ってきなよ」


 そうだな。そう言うと軽やかなひとつの足音はゆっくりと消えていく。それが完全に聞こえなくなったくらいで呟く渾身の『助かった』。俺の気持ちでも代弁しているのか?


「もういいよ」

「不測の事態に備えてそのままにしておく」

「英断ね」


 持たれていたソファーの沈む音を聞き、また穏やかな空気が流れる。窮地は免れたが、結局状況はあまり変わってない気がするけど。


「部屋に来るなら連絡くらいしておいてくれ」

「無理よ。だってあなたのアカウント知らないし」


 それなら俺はただボケっと携帯をいじっていた人間になるじゃないか。実際そうだが。

 携帯だけが差し出されて画面を見ると、QRコードリーダーの画面が表示されていた。話が早くて助かる。自分のQRコードを表示して読み込ませるとしばらくして、『友達』の欄に天野が追加される。……あいつが親に説明した『友達』もこれである意味間違いではなくなったわけだ。


「それにしても、お母さんが靴隠しておいてくれてよかったわ。はいこれ。」

「よく急に隠せたな……ともあれ助かった。風呂入ってるなら玄関に置いといてくれても良かったんだが」


 手渡された袋には確かに俺の靴が入っていた。どうせ父親が風呂に入っているんだとしたら、わざわざ持ってくる必要なんてないんじゃないか?


「あなたの言う『不測の事態』がいつ起こるかわからないじゃない。窓から出れるでしょ? 男の子なんだし」


 女性でも出れるだろ。なんてことを言う体力は残されてなかった。取り出した靴を外に投げ、窓に手を掛ける。


「諸々助かった」


 ほんと、諸々。窓を越え外に出、密会のシチュエーションのような構図で礼を言う。父親に内緒なのだからそのものなのかもしれない。


「えぇ、それじゃあお気をつけて。あの絵のこと、次会ったら聞かせてね」

「あぁ、そのことだが……」


 俺はまだあいつに話せるような答えを持っていない。いくつかある推測はあるが、今の彼女に話してもうまい具合に自分の中で落とし込むことは出来ないと思う。

 なにが足りない? そう、『前提』が足りないのだ。


「場所を変えて話したい。それこそそうだな。花火でもできそうな場所で」

「やりたくなったの?」

「やればわかる気がするからな。あの絵のことは。じゃあな」


 涼しい潮風に鼻をくすぐられながら門を越え、高級住宅街を抜け、いつもの家路につく。

 狭い道、信号のない横断歩道、切れかけた街灯は不規則に明滅する。

 光っては消え、光っては消え、それはあの川べりで光る、蛍のようだった。

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