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第12話「煌々と、蛍色」

住宅街であるはずなのに人気ひとけの少ない通りは、閑散とは言えどもシャッターの降りた無人の商店街などとはどこか違い、寂しさや憂いといった感情はどこにもなかった。むしろ、どこか気品に満ちているみたいにも思わせられる。

 これが高級住宅街の魔力なのだろうか。同じ住宅街と言っても、その家ひとつひとつは想像の2倍も大きく、土地当たりの住人の密度というものが違うのだろう。もしかしたら見えている家のどこかはいわゆる別荘のようなもので、人が住んでいるかどうかすらわからない。

 どこまでも続くような国道沿いの開けた歩道は、どこか解放感があり歩いているだけで気持ち良いと思えてしまう。時折すれ違う数台の車の起こした風が、夏になり切れないこの季節特有のじめじめとした空気を忘れさせてくれるようだった。閑静な住宅街を歩く俺も天野にも会話はなく、静寂がより肌に触れる涼風を強調しているみたい。


「ん、ここ」


 ここ。彼女がそう言い指を指す前からなぜか、それが彼女の家だということはわかっているような気がした。

 いや、これは俺だけじゃなくて多分、誰が見てもこの家だとわかるだろう。

 異国を思わせる石畳の壁はどこまでも続いているようで、その奥から覗く庭木は遠慮がちにふたりを迎えているよう。清潔感のある白がふんだんに使われたいわゆる、フランスモダンなその家は隠しきれない気品や権威をたしかに、誇示していた。

 学校でしか見ないような大きな引き戸の門は、彼女の薄白い手にゆっくりと引かれる。


「……? 入らないの?」

「その、心の準備というかだな」

「要らないわよそんなの。お母さんにはちゃんと『友達』って言ってるし」


 そうじゃない。いや、それも少しはあるかもしれないが、そっちじゃない。陽に照らされ、ミルク色の壁が醸し出す品のある甘さ、柔らかさを織り込んだその『邸宅』を前にしたら、誰でもそうなるだろう。


「この前も、似たようなことしてなかったかしら?」


 目は笑わなくとも、口元だけを緩める程度に思い出し笑いをする彼女。門の先に居る彼女、外にいる俺、たしかにこの構図は一度見たことがある。


「あれは勝手にしまったホームドアが悪い」

「どう考えても降りなかったあなたが悪いでしょ」


 そうは、そう。ただ、同じこともあれば違うこともある。その門はいつまで経っても俺たちを隔てるように閉まらず、彼女の薄い手が支え続けてくれているのだから。

 気も解れ軽やかにその門のレールを越え、身長の二倍はありそうな大きな扉をくぐる。無駄に広い玄関を前に、自分が小人になってしまったのではないかと錯覚しそうになってしまう。その無駄こそがゆとりなんだろうか。


「ただいま」

「おかえり。あら?」

「お、お邪魔します」


 奥の扉から出てきたのは後ろで髪を結んだ長身の女性。天野の母親なのだろう。俺を見て口にそっと手を当てる彼女のゆったりとした所作、吐息の混じった声、そのどれもが大人の落ち着きというものを見せていた。丸く柔らかな瞳は穏やかにもしっかりと俺と捉えニコリと微笑むと、カラスの濡れ羽色をした絹糸のように細い髪がヴェールのように揺れる。

 そのきめ細かな髪と笑い方は天野……どっちも天野か。天野未花そっくりだ。あれは母親譲りだったのか。


「お友達って言うからてっきり女の子だと思ってたけど、未花もそう、そうねぇ~」」

「さっき話したけどあの部屋、使うから」


 今話逸らしたよな、こいつ。微笑みいじる母親を気にもせず、彼女は表情ひとつ変えずに廊下を1人進む。

 内心はどうであれ、その堂々とした姿はやはり天野の血というかなんというか……だな。


「部屋、こっちだから」

「あ、あぁ……あ、はじめまして。朝風悠です」


 微笑む天野母と我が道を行く天野に挟まれてどうも肩身が狭い。軽く会釈をすると彼女の母はこんな俺に対しても深くお辞儀をしてくれる。


「あら、初めまして。未花の母です。未花が男の子のお友達ねぇ……ごゆっくり」

「ありがとうございます」

「朝風君?」

「今、今行くから」


 強くなった語気に不思議と裾を引っ張られる思いをした。丁寧にワックスがけされたフローリングに脚を滑らせないようゆっくりと、けれど急いで部屋へ向かう。

 掴みどころのない2人の前で、思わず転んでしまいそうだった。




 リビング、とも客間とも言えない広いその部屋は異質で、これが人の家の一室だと言うのだから余計に現実感のない空間に地に足つかない感覚を覚えてしまう。

 広々とした縦に長いその部屋の壁一面には大小様々な絵画が飾られており、天野の言っていた「美術館」という言葉は確かに、的を射ているようだった。

 どこを見ても飛び込んでくる複雑な色彩に眩暈でも起こしてしまいそうと思っていたが、優しく灯る照明、クリーム色の壁紙、色調の似ている絵画でまとめるように意識された配置、配慮されたレイアウトがそれを感じさせまいとしていた。

 まさに絵画のために用意された部屋は、そのものが芸術作品であるみたい。細部に神は宿るという言葉は、こういう時に使うべきなんだろう。


「おぉ……」


 圧倒、この部屋に踏み入れた感想は綺麗でも素晴らしいでもなく、感嘆。


「うちのギャラリーなら好きなだけ自分のペースで見ていけるでしょう? ほかに邪魔する人も居ないし」


 ゆっくりと緩めた紐タイを外し、ソファーに深く腰を掛ける彼女。学校でもなんでもないのだから楽にするのはわかるが……無防備とも変わらない彼女の危うさに思わず目を逸らす


「畏れ多いけどな。んで、天野の言ってた『やること』って言うのは、絵を見ることなのか?」

「えぇ」


 靴下を脱ぎながら、さも当たり前のように答える。


「私はあなたが『何』を描くのかは知らない。けど、描きたいものというのは決まったんでしょう? それならその次は、それを『どう』描くかだと思って。描きたいものは景色とかそういうものじゃなくて、あなたの中にある感情とかそういうものでしょう?多分」

「心でも読めるのか?」

「そんなわけないじゃない。あなた前に自分で言ってたでしょ。そこにあるなら写真でいいって」


 記憶力が良いのか、それだけ彼女にとって衝撃的だったかのかはわからないが、よくそんなことを覚えているものだ。

 歩き疲れた足をいたわりがてら、俺も隣のソファーに腰かける。包み込むように柔らかく深い座り心地は、映画館のソファーとよく似ているような気がした。それと同列にしてしまって良いかどうかはわからないが。


「名画から学ぶことはたくさんあるわ。技法もあればそれこそ、そんなものまで表現するのか、とか。私とお父さんと祖父と、真剣に選んで並べた逸品たちだからきっと、朝風君にも良い刺激になるはずよ」

「俺にそれを描けるか技量があるかなんてことは心配してないんだな。信頼してくれているのか?」


 彼女から絵の技量に関する話はそういえば、一度も聞いたことが無かった。とりあえず頭に浮かんだ疑問を投げかけてみるけれど、どうやら些事や愚問の類だったらしい。


「上手い下手なんて関係ないもの。あなたが何を見て、どう思って、どう描くかが気になるだけ」

「そこは嘘でも、信頼しているとか言ってくれても良かったんじゃないか……」

「嘘は付きたくないもの」

「そうですか」


 適当に話でもしながら名前の知らない名画たちに目を通す。これだけ数があると、どれから見ていこうか迷ってしまう。

 人の営みを描いたもの、雄大な自然を描いたもの、決して美しいとは言えないが、どこか惹きつけられるもの。その様々な作品の中で1つ、目に留まったものがあった。


「もっと近くで見てみたら?」


 思わず席を立ち、それを目で心で触れてみる。それに引っかかる違和感があったわけでも、惹きつける魅力があったわけでもない。ぼんやりとして輪郭が曖昧で、『よくわからない』で溢れていたから。

 水彩絵の具の薄く、透明な色遣いで描かれていたのは1本の線香花火。それは水たまりの上で頼りなく火花を散らし、水面に落ち燃えカスとなった火花たちはゆっくりと波紋を広げ、映る線香花火の輪郭を曖昧にさせる。

 火花を散らし始めたソレはどうして、水彩画というもので表現したのだろうか。それに、雨上がりに花火なんてするのか? この絵には一切の現実感というものがないような気がしてならない。そしてそれは、意図的に現実感を排除しているみたいで、どうも作品に触れているようで、その手がすり抜けてしまうような感覚に陥る。


「それは祖父が選んだものね。それを初めて見たのは小学生の頃。あの時はただ綺麗としか思っていなかったけど、今見てもそうね……綺麗、だとは思うけど、それだけではない気もするわ」


 下に貼り付けられた札を彼女が指を指す。『蛍日』。それがこの絵のタイトルなんだろう。微かな火花は確かに蛍の光にもよく似ているのかもしれない。

 白いプレートに掘られたその文字の輪郭に指を置き、ゆっくりとなぞる。


「これ、誤字か?」

「うぅん。これが正しいタイトルよ」

「線香花火だからてっきり、燃える方の『火』だと思ってたんだがな」


 『蛍火』という言葉は聞いたことがある。夏の季語でもあるソレなら知っているが、蛍『日』という言葉を聞いたことは、一度もなかった。


「日にちの方の『蛍日』って言葉、聞いたことあるか?」

「私もそっちの『ほたるび』は知らないわ。造語かなにかでしょうね」


 彼女もその言葉に聞き覚えはないらしい。彼女の言う通り造語なんだろう。タイトルまでも徹底的に現実感を排除しているということは、この作品の核心にあるのは……夢?


「これを選んだ理由も楽しみ方も教える前に祖父は亡くなってしまったけれど、私はこの絵が好き。消えかけた線香花火、それが映し出す何かはどこか寂しくて――」

「待ってくれ」


 天野の思い、天野の言葉を唐突に遮った。言葉を詰まらせた彼女は俺を見る。そして俺もまた、彼女を見つめる。


「この絵がどういうものか、もう一回言ってみてくれないか」

「それは祖父が……」

「その後だ」

「『消えかけた』線香花火……?」

「それだ。この線香花火は消えかけ、なのか?」

「私にはそう見えたけど」


 今、俺の中でひとつの点が生まれた。俺が『見た』火花を散らし始める線香花火。天野が『見た』消えかけの線香花火。それがまだ繋がり線となることはない。

 その言葉を聞いてまた、俺はソレに目を向ける。

 蛍日。そう名付けられた一枚の絵を瞳の奥に焼き付けて、

 ゆっくりと、ゆっくりと瞳を閉じる。

 散らす火花の正体。その始まりと終わりを往く蛍はずっとそこで、光り続けているはずなんだ。

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