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第11話「アザレアピンクの花が咲く」

――どうせ私が大賞、獲っちゃうから

 ミシリとひとつ、心のきしむような音を聞いた。

 ヒビの入った俺の心の隙間に感情がなだれ込む。それは赤黒くドロドロとしているようで、疑問、怒り、そんな一言で表すにはなにか足りないようで複雑で乱雑で、混沌としているようだった。

 申し訳ない。そんな顔をしている彼女は何を思って口に出したのか。その理由はうっすらとわかっているけれど、それはどこまで行っても推察でしかない。


「それ、どういうことなの」


 天野の静かな声がはっきりと耳に届く。静かすぎるこの部屋では耳が痛くなるほどに。

 海原を向く彼女の表情は俺から見えることはない。けれど、その声からは疑問というよりも怒りが勝っているみたいで、握る手からはミシミシと音が聞こえてくるような気がする。


「そのままの意味だよ。私が出たらどうせ、一番になるのは私。……ずっとそうだったんだもん」

「だとしてもそんなの、やってみないとわからないじゃない」

「だから、今までがずっとそうだったからなんだって!」


 声を荒げ、強引に手を振り払う海原はゆっくりと瞳を細める。

 海原がどうして部活にも入らず、けれど転々としながらスポーツでも芸術でも取り組んでいる理由を一度、聞いたことがある。


「陸上、バレー、テニス、吹奏楽、多分私はこの学校でできることは何でもやってきた。でも、そのどれも少しやったくらいでみんなより上手くなって、追い越せちゃったから。『1番』になっちゃってたから、だからそれが絵だとしても、変わるはずなんてないんだよ」


 彼女はいわゆる天才肌と言われるような人間らしい。厄介なことに旺盛な好奇心を持ち合わせた彼女は文字通り、何にでも手を出して、どの分野でもその才能をいかんなく発揮してきたらしい。

 らしい。というのはその実績はどこにも記されていないから。彼女は決して部活に入らず、決して実績に残るような大会には出ない。それにどんな理由があるのかはわからないけれど、聞くほどのものでは無いんだろう。


「仕方ないじゃん……」


 俯きながら呟く彼女、生まれの不幸のように話すその素振りは天野の感情を余計に逆撫でするだけでしかなく、彼女の声がまた響く。


「でも、それでも、私の朝風君が負けるわけないんだから!」

「ちょっと! 『私の』なって何なの! 天野さんのものでもなんでもないでしょう!」

「そこは今関係ないでしょう!」


 いや、ないだろ。


「あるよ!」


 あるのか。

 そもそも俺は誰のものでもない。天野のために絵を描くという立場を考えれば確かに、天野の言うことも一理くらいはあるかもしれないが、それはその前提を知っている人にしか通用するわけがない。

 息を荒げながらぶつかる彼女らの声は外にも響いていたみたいで、扉の窓には知らない顔がちらほら、外からは見えない聴衆のああでもないこうでもないが微かに聞こえる。耳障りの悪いその声に思わずため息が出る。


「もういいだろ、人が見てる」

「何がもういいっ……もう!」

「って、おい」


 踵を返すように振り返る天野は俺の手を強引に取る。ようやく見えた彼女の表情はやはり怒りに満ちているようで、瞳の赤が今日はより一層、濃くなっている。


「行きましょう」

「行くって、どこに」

「いいから!」


 強く握られた腕に彼女の爪が食い込む。その痛みすらも彼女の感情表現であれば相当、相当頭に来ているんだろう。どうしてアイツがここまで怒るのかはわからないが。

 よろけそうになりながらも鞄を手に取り、片付けもしないままただ、惹かれるままに俺も歩き出す。


「海原」


 彼女の背を追い越しながら、声を掛ける。返答なんて聞かないまま俺はただ、続ける。

 それは捨て台詞と言っても良い位に格好の悪いものなのかもしれない。

 けれど、喉まで出かかったソレを吐き出すことでしか消化することはできなかった。


「凡才は天才に勝てないのか?」


 それは滑稽な強がりなのかもしれない。ある意味で真っ直ぐな彼女に傷つけられた小さな自尊心は叫ぶ。

 天才。彼女が勝つ理由としてはそれだけで十分なのかもしれない。

 けれど、

 それが俺の負ける理由には、なるわけがないだろう。




「んで、どこまでいくんだよ」

「そんなのどこでもいいでしょう!」


 どこまでも連れて行くのはやめてほしい。それ違う同級生からは奇異な視線を浴びせられ、教師陣は驚きから声も出せずに見て見ぬふり、廊下でアップを始める陸上部はどこか、狙って通る道をルートにしながら観察しているようだった。


「もうここらでいいだろ」


 丁度玄関先の靴棚で手を払う。

 放課後の微妙な時間帯のここはあまり人が通らない。少し話していくならここが丁度良いだろう。

 高い靴棚に背を預けて一休み、ひんやりと伝わる靴棚の冷気が少し、気持ち良い。これで少しは温まった彼女の頭も冷やしてくれると良いのだが。


「どうして何も言わなかったの」

「そもそも、俺はまだ画展に出るなんて一言も言ってない」


 そうだ、そもそも俺はまだ出るなんてことは一言も言ったことが無い。考えておく、それだけしか言ってないのだ。どこかでそれも言ってはおきたかったが、あんな状況でそんなことを言える隙なんてなかったのだから。


「でもどうせ、出るでしょう?」

「まぁ、あんなこと言われたらな」


 俺にまでそんな目で見るな。俺はお前の敵じゃない。味方、というわけでもないが。

 出るでしょう? その言葉は多分、信頼から出た言葉ではない。あそこまで言われてしまって、天野としてもあそこまで言ってしまったのだから、出てもらうしか選択肢がないのだろう。


「なんだかんだ、お前の望んだ通りになるよな」

「お前呼びを辞めないところ以外はね。そんなことより、何なの? あの人は」

「あいつは、あぁ言うやつなんだよ。ただこれだけは言っておくが、別に悪いやつじゃない」

「あれだけ言われてそんなこと言えるの?」

「不器用で天才なだけなんだよ。あれはあいつなりの気遣いなんだ。凡才に理解できるわけがない」


 納得できないのだろう。爪をいじりながら下を向き、横を向き、そわそわと落ち着きがない。言ったら次に何が飛んでくるかはわからないが、俺も天野も所詮、凡才だから仕方がない。


「どうしてアイツが何にでも手を出すか、知ってるか?」

「やってみたいからとかそんな、単純な理由じゃないかしら」

「まぁ、当たらずも遠からずというか」


 海原が何にでも手を出すのは間違いなく、彼女の好奇心から来ているだろう。ただ3年間も一緒に過ごしていると見えてくるものもある。物事を始める理由が好奇心であっても、辞める理由は多分、別にある。

 美術室での彼女の言葉を聞いてそれがある程度、確信の一歩手前というところまで来た俺の推察は、こいつになら話しても良いだろう。

 海原は今までたくさんのことに挑戦してきた。それでもすべての終着点はいつも同じ場所。いつも1番を取り続け、山頂で見える景色はただひとつ。


「つまらないんだよ。すぐ『1番』になれんだから」


 海原からしてみればゲーム感覚みたいなものだろう。一度クリアしてしまえばもうやることなんてなくて、すぐ次のゲームを始めようとする。ただそれだけ。

 それだけ、か。

 自分が必死に積み上げてきたものを彼女はものの数日で追い越して先を行く。それが『当たり前』である彼女の心を満たせるものなんて、この世にあるのだろうか。


「人の気持ちがわからないのね」

「天才同士なら分かり合えるんじゃないか?」

「あなたまで苛立たせるようなこと言わないで」


 俺はもう口を閉じた方が良いのかもしれない。自然と乾いた笑いが出てしまったのは俺の悪い癖のひとつ。


「それで、朝風君も勝てないなんて思っているの?」

「わからんな、そればっかりは結果が出ないことにはなんとも。ただ……負けるわけにはいかないだろ。勝つぞ」


 またひとつ、笑みを浮かべる。自然と湧き上がってきた覚悟の二文字は身体を震わせ、心を奮わせる。

 内心、自分でもこれだけの闘争心が眠っているとは思わなかった。それもそのはずなのかもしれない。同じ歳の人間にここまで言われたことなんて、なかったのだから。


「じゃあ、やるってことよね?」

「当たり前だ。幸い、題材も今さっき決まったからな」

「え、決まったの?」

「おかげさまでな」


 ふらついていた彼女の紐タイが静止して、その間を一陣の風が通り過ぎていく。落ち着きを取り戻した彼女はゆっくりと時間をかけて、俺の言葉を咀嚼しているみたいだ。

 天野が海原を誘ったのはたしか、『この状況に変化を生み出したいから』という理由だった。海原が入って来るだけで状況なんて変わらないだろう。なんて思っていた中で突き付けられた彼女の言葉、遠慮にもよく似た表情、天才と凡才の『差』。

 ソレは確かに俺の心にヒビを入れ、眠っていた自尊心に傷をつけ、立ち上がらせた。

 ヒビの隙間から入り込む感情の激流に摩耗する俺、抉られた心の中で残り続けた譲れない気持ち。俺は俺自身を描く、そして勝つ。それだけだ。


「あとは、負けない絵を描くだけだ」

「朝風君、そんな顔もできるのね」


 俺が今どんな顔をしているのかはわからない。ただひとつ、信頼にも似た笑みを浮かべる彼女を見るに、良い顔をしているのだろう。


「あなたがそうなってくれて嬉しいわ」

「荒療治にも程があるけどな」

「私だってこうなると思ってなかったもの。それならやることはひとつね。ちょっと待ってて」


 そう言うと、鞄から携帯を取り出してもたれかかっていた靴棚から離れる天野。耳にあてて誰かと話しているようだけれど、ここからは少しだけしか聞こえない。


「うん、今から。……あぁあそこ使うだけだから……え? ただの友達だから……」


 誰と話しているのかはわからないし、その『友達』というものも誰を指しているのかもわからない。俺しかいないような気もするが……友達? うん?

 彼女がこれだけ崩した言葉を使う人なんて、想像もつかない。……そもそも、天野と繋がっている人なんて想像もできない。

 その間に自分も携帯を取り出して、親指で文字を打つ。言葉しか載せられない文字に感情をこめて、あの天才にひとこと。


「うん、うん……わかった。じゃあね……お待たせ。朝風君これから時間、ある?」

「あぁ、あるけど」


 上履きから靴に履き替えた天野は俺を待つ、言葉はないが急かすように手招きをするものだからとりあえず、同じく靴に履き替えてみる。


「ちょっと来てほしい場所があって。朝風君もきっと気に入るはず」

「美術館とか? 」

「……ちょっとはずれ?」


 ちょっとってなんだちょっとって、似たようなものではあるだろうが、美術館以外でそれっぽいものなんて、あまり思いつかない。彼女は首を振り、紐タイも同じく否定するみたいに揺れる。


「私の家」


 ――それはわかるはずないだろう……

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