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第10話「くすむ鳩羽色」

明りのついている美術室の扉を開けると、先に居た彼は絵筆の手入れをしている最中だったみたい。

 布にくるまれた穂先をゆっくりと抜き、静観、ゆっくりと抜き、静観。照らされた埃がキラキラと舞う部屋の中、年季が入り傷や消えない絵具の跡がついた机がセットであると、そのなんてことない所作は少し、趣……?があるように見えてしまう。哀愁とはどこか違い、懐かしさとも違うこの感情を表す言葉を私は持ち合わせてはいない。

 まるでその姿そのものが作品であるかのようなその空間は、不用意にも開けてしまった扉がいとも容易く崩してしまう。


「やっ」

「おう」


 小さく手を振って見せると彼はあまりにも軽い挨拶と共に、首はそのままに視線だけを向けてまた、絵筆に向かう。あ、こっち向いた。あれ、また向いた。

 凝り固まった首をぎこちなく動かし、伸びた前髪に隠されながらも大きく目を見開いている彼がそこに居た。いつぞやの誰かが言っていた『シュっとした目』とは程遠く、それは大きくて丸くて、純粋だった。

 思わず崩れた表情に口角を上げながらまた手を振ってみると、平静を取り戻した彼は徐々にその目を細め前髪に隠れると、息の混じった声で問いかける。


「海原? 何で?」

「なんでってまぁ……久しぶりに絵でも描こうかなーって」

「お、おぉ、そうか」


 その言い方に意味がないことを知りながらもこう答えたのは、この部屋に行かなければいけないという予感を隠すためだったのかもしれない。脳裏によぎるあの影は幸い、この部屋の明かりの下にはどこにも現れていないみたいだ。ある意味、私が一番乗り。

 私がいろんなところに現れては消えることをもちろん、彼は知っている。知っているのに……どうしてそこまで驚くんだろう。私が来ない方が良い理由でもあるんだろうか。


「それに、放課後はいっつも誰も居ない美術室に人が居るんだもん。ちょっと気になっちゃって」

「お前が来なきゃひとり占めできたんだけどな」

「現に持て余してるじゃん。あ、ありがと」


 綺麗に手入れされた絵筆を机に置き、隣にしまわれた椅子を引いてくれる。隣……

 空いた両手を頭の後ろに掛けると、彼はようやくこちらを向いて話しをしてくれた。気を削いでしまったら申し訳ないけれど、彼の前に置かれたキャンパスは真っ白そのものだった。気分転換にでもと話を振ってくれたのなら少し、嬉しい。

 必要でもない会話は心を許してくれている表れのひとつだと、私は思う。同じ部屋にいるからと言って別に、必ず会話をしなければいけないなんてことはないのだから、話したいと思っていようがいまいが私はとにかくそういった小さなことに喜びを感じられる、省エネの人間。


「んで、今日はお絵描きの日ってことか」

「今日はというか、しばらくはー、かな?」

「うん……? ひとつのことをやり続ける人でもないだろ」

「芸術は一日にして成らず、だよ」


 授業の中で聞いた言葉を拝借しながら指を立ててみると、ほころぶ彼の笑顔が零れる。自分でも少し恥ずかしくなって笑っていると、不思議とこの部屋の色彩も少し、鮮やかになっていくような気がした。

 それと同時に薄れていく私の宣言した『絵でも描く』という目的の説得力には目を瞑り、目の前の幸せを謳歌しているとまたひとつ、扉の開く音がした。

 さしておかしくもないその音は、この幸せが終わる時を告げているような気がしてひとり、心の中で溜息が漏れる。

 明りの灯る美術室にできたひとつの影は奇しくも、予感していたその影と瓜二つなのだからもう、仕方がない。ずっと続いてほしいと思う時間ほど一瞬で過ぎて行くのはどうしてなのだろう。永遠という言葉があるけれど、そんなものはどこを探しても見つからないのかもしれない。それこそ、永遠に。


「……海原さん?」

「咲でいいよ。あ、朝風君にもそろそろ咲って呼んでほしいんだけど」


 彼が来た時みたいに私はまた、手を振って見せる。心なしか固くなった顔の筋肉を無理やり酷使して作った笑顔は今、どう見えているんだろう。


「「いやいい」」

「そこは嫌なんだ……」


 どうしてそこだけ息ぴったりなんだろう……それに、天野さんは二度見こそはしないけれど私を見つけては少し固まって、顔を強張らせているのはどうして? 私、なにかしたのかな?


「あなたも絵、描くのね」

「うーん、描く。と言えるくらいのものかどうかはわからないけど」

「こいつの場合は描く時もある。だな」

「良く知ってるのね」

「そりゃあまあ、3年間同じクラスだからな。なぜか」


 何か知ってるだろう。と言わんばかりにチラッとこちらを見てはくるけど、私に出せるものなんて何もない。もしかしたらクラス替えを決めた人ですらわからないのかもしれないのに……あえて同じクラスにしてみました。なんてことはないだろうし多分、偶然。天野さんまで私を見てくるのは少しやめてほしいけど。

 どこか納得のいかないような表情を浮かべながら天野さんは私を追い越し、あの白いキャンパスに目を通す。白いだけで何もないアレの何がふたりを引き寄せているんだろう。


「画展の絵は決まりそう?」

「そろそろ決めなきゃとは思うけどな」


 言葉こそ軽い朝風君の言葉には溜息が混じる。

 画展。また聞いたその言葉にはどこか重みがあるようで、心なしかこの部屋がすこし薄暗くなってきたように思える。それはそこまで大事なことなの? 1度キリしかない大学受験を前にして、毎年数回やっているようなソレにどんな重みがあるの?


「ねぇその画展、私も出――」

「最後の絵、だものね」


 被ってしまった言葉は私と混じり鮮明には聞こえなかったけれど、断片的に拾ったソレに思わず、唇が固まる。

 最後、最後?


「ねぇ、天野さん」

「ん? 」

「最後って、なに?」


 その疑問に天野さんは息を漏らすだけで答えることはなかった。答えられないんじゃない、答えなかったんだ。多分。

 見つめてみるが目を逸らす彼女は両手を後ろに回す。それもまるで何かを隠しているんじゃないか、こんなタイミングであるとそんな『邪推』さえできてしまう。


「この絵が完成したら俺はもう、絵を描かない。それだけだ」

「それ、だけ?」


 言葉通りに受け取っても私は反復する。その意味をわかろうともせずに、吐き出したかった。

 それだけ。あれだけ絵を描いていた彼から出てくる言葉とは到底思えないけど、それを否定できるくらいこの部屋に人が居るわけもない。

 どうして、とは聞けない。それは彼が、朝風君が強く握りしめる右手が見えてしまったから。吹っ切れたようにいつもの調子で話してはいるけれど、それは強がりのようなものなのかもしれない。

 代わりに天野さんを見つめてみるけれどやはり、こちらを向いてくれることはない。


「海原、描いていかないのか?」

「あー、やっぱ絵描くの、ちょっと今日じゃなかったかも」


 反射的に背を向け、鞄に手を掛け立ち上がる私に声を発するのは朝風君。どうか止めないで。これは朝風くんのためでもあって、私のためでもあるのだから。

 今日じゃない。とは言ったけれど多分、いつか来るであろうその日はどれだけ先のことかはわからない。

 じゃあね。来た時と同じように手を振って見せる。表情は柔らかく、なぜか自然に笑えることができた。


「待って」


 その手を掴まれても私は笑顔を崩さない。両目を細めながらも私を止めた彼女、目を逸らさずに見つめる彼女のことはしっかりと捉える。

 いつも冷静で時に明るくて、様々な表情を持つ天野さん。だけど、その表情は入学式でも生徒会でも見たことのないもので、熱の籠った瞳が掴む腕を伝い、汗が滲む。


「私が最後なんて言ってしまって気を害してしまったのなら、謝りたいの。ごめんなさい」

「あ、あぁそういうんじゃないからほんと。ね? 」


 そんなことを言うために止めたの? この人は。調子が狂うというか驚かされるというか、私はこの人が良く分からない。掴む腕の力が弱まらないことにも、理解ができない。


「その……このタイミングで言うことではないかもしれないけど、あなたも画展、出てみない? 」

「どう、して?」


 話のつながりが見えず、これだけ近くに居るのに思わず二度見してしまう。どういう思考をしたらそこにたどり着くのだろうか。その『画展に出る』ということを辞めようと思ったのに。ほんとどうしてこのタイミングでそんなことを言うのだろうか。


「今の朝風君のままだと多分、絵を描けないままに夏が終わってしまう……気がするから。あなたも出ることで少しでもこの状況に、変化を生み出してみたいの」


 明確な競争相手が生まれることで何かが変わる、ということ? ほかに描く人が居る近くにいることで刺激される、ということ? それとも言葉通りに、とりあえず小さくても良いからここから抜け出せる変化が欲しいということなのだろうか。

 見たことのない表情から感情は読み取れない。けれどその瞳から本気ということだけはなんとなく感じ取ることができる。


「でも、朝風君、それに出す絵が最後なんでしょ? だったら尚更、私は出せないよ」

「朝風君の最後だからといって、どうしてあなたが画展に参加しない理由になるの?」


 純粋な質問は無邪気な子供のように、無垢だからこそ鋭い切っ先を喉元に突き付ける天野さん。彼がただ単に絵を出すだけなら私だって参加しようとは思う。

 けど、これで最後なんでしょう?


「どうせ私が大賞、獲っちゃうから」


 それだったら、描き終えた彼の最後はやっぱり、笑顔で締めくくってほしいから。

 私がそれを、邪魔してしまうのだから。

 ――どうせ私が、勝っちゃうんだから。

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