通いなれた学校の中でも職員室という場所だけはなかなかに慣れない。そこは静寂に包まれているわけでもなければ、厳格な空気間で満たされているわけでもない。
縦に長い一室、教室の机よりも広いデスク、どこからともなく漂うコーヒーの薄い、苦みを帯びた香り、キャビネットに忍ばせた一口大のチョコレート。校則に縛られないこの場所はいつもどこか異質なのだ。
「へぇ、朝風君ここ行くんだ。ふぅん」
パキッ。わざわざ一口大に包装されたチョコレートを割りながら、担任はまたどうでも良さそうな声色で興味なんて1ミリもないようにその紙を見つめる。
どこの大学を書いても同じだろうに、OK。その言葉がなかなか出ないのはどうしてだろう。もう帰っても良いのだろうか。
「この進路希望調査票は受け取れません」
「は?」
いくらだらしなくとも教師にこんな態度を見せたのは初めてかもしれない。早く出せと言ったのはあんただろうに、何を理由に突き返してきたのかは見当もつかない。暗に学力が足りないとでも言っているのだろうか。空気を読むのは得意ではないから流石に、口で言ってほしいものだ。
「もう少しちゃんと、よく考えてからまた出しに来な。期限は決め……ないとださないよねぇ、朝風君だもん」
俺だもんとはなんだ俺だもんとは。その言葉で思い出すのは商店街で聞いた天野のあの言葉。
――あなた、先生に信用されてないでしょう?
あぁ、お前は正しかったよ。こんな形で思い知ることになるとは思ってなかったけど。
「とりあえず、夏休みまでにはちゃんと出しなさいよ。いい? 良く考えて出すのよ」
「あぁ、はい。わかりました」
背を向けた後に後に聞こえた音は2つ。そのうちのひとつはあの人が突き返した理由そのもので、それはある意味あの人から俺に向けての信頼の音のようだった。
1つはまた、チョコレートを割る小気味の良い乾いた音。
そしてもうひとつはあえて、聞こえないふりでもして俺は職員室を後にした。
――だってあなた、絵、上手じゃない。
「なぁ、俺が電車乗り過ごした時のこと、覚えてるか?」
「忘れると思う?」
「俺だったら忘れるけど」
「3年も通ってきてあんなの、初めてだったもの」
明りの落ちた美術室、その一角から見えた窓の外、あれだけ桜色に染まっていた木々が緑に染まるのを見てふと、あんな日のことを思い出してしまった。
使い古し手に馴染んだ筆を横に、目の前に置かれた真っ白なキャンバスを前にして語ってみる。心の準備をするまでの与太話と思って聞いてくれたらそれで良い。
「あの時さ、ずっと考え事してたんだよ。春の色って、何色なんだろうな。って」
「ふぅん」
何も色の置かれていないキャンバスを前にしたから余計に気になったのかもしれない。あたりを見回せば青、黄、緑、赤、沢山の色がそこにはあるけれど、未だにしっくりの来る色というものは見つけられずにいた。
「多分、白」
「白?」
まさに今その春が広がっているとでも言うのだろうか。青でもなければ薄桃でもなく、彼女が提示した色は、白。
続けて彼女は思考を回しながら、語る。
「春は多分、何かが始まる季節だと思う。新しいことを初めて見たり、知らない世界に足を踏み入れてみたり。そこには多分、無限の可能性が秘められていると思うの」
無限の可能性。曖昧ではあるが言いたいことは少し、わかるような気がする。何色にも染まっていない新しい世界、踏み入れた先でどんな色を置いて、どんな絵を心に描くかはやはり人次第なのだから。
「それと、同時に良く春は別れの季節ともいうわよね。卒業したり、就職したり、そこでの経験を全部持って、どこかに行ってしまう。私たちだって来年にはここに居ないんだし」
立つ鳥跡を濁さす。その言葉が天野の言うことに一番合っているのだろう。俺も天野も来年の春にはここを去るだろう。残すものなんて何もない、まっさらで、空っぽで、真っ白で。
「朝風くんは?」
「正直に言うと、わからない」
率直に伝えてみるが彼女は呆れることも驚くこともなく、ただ小さく息を吐くだけだった。
「ただ」
ただ、わからないこともあれば、同時にわかったことも1つある。
こうあるべきだ、そうでなくてはいけない。そんな風に色を決めつけられるように俺はなれない。けれどひとつ色を置くのであればとりあえず、今はそれでも良いのかもしれない。
そんな色を見つけることが俺は、できたのだ。
「春が白いって言うのはなんだか、悪くないかもしれないな」
少なくとも今は、その色を置くことにしておこう。
春篇~まっさらで、空っぽで、真っ白で、~
-了-