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第7話「橙に灯る」

今日という日をこれだけでは終わらせたくない。それだけを胸に脚を進めているといつの間にか、駅とは真反対の商店街に着いていた。

 今日日見ない八百屋の店先では『今朝採れたて!』と、お手製の札が添えられた春キャベツやタケノコ、アスパラガスが疲れた顔でこちらを見つめ、隣の総菜屋では狐色と言うには茶の多い揚げ物たちが俺を手招きしているようだった。微かに鼻孔をくすぐる彼らの匂いに思わず足を止めてしまいそうになるが、申し訳ない。君たちの期待に応えられる日は今日ではなかったようだ。

 覆う雨よけのアーチからぶら下がる橙色の街灯の下、石畳のように見せているだけな幅の広い道を歩く。大人たちが言う『レトロ』を全身に浴びながら、その一角にある薄汚れた赤いのれんの前で足を止めた。

 ――元祖味噌ラーメン。

 室外機から漂う生温い味噌と油の香りは、元祖だの本家だのがどうでも良くなるくらいに俺を誘惑し、俺もまた、誘われるようにすりガラスの戸に手を掛ける。

 同時によぎるのは昼に食べたあのからあげ。教室に戻った頃には冷え固まっていたソレはあまりにも消化不良で、ある意味では胃のもたれるアレを忘れさせてくれるものを欲していたのかもしれない。


「しゃっせー!」


 良く通る声に歓迎を受けながらカウンターに座り、とりあえず名物らしき元祖味噌ラーメンでも頼んでみることにした。ラーメン屋に来たことはこれが初めてとは言わないけれど、チェーン店ではない店の物珍しさに思わず店内を見まわしてしまう。缶に詰められたコショウ、ところどころひび割れた木目のカウンター、お世辞にも綺麗とは言えない店内、その長い髪を結い、汁が飛び跳ねないように静かに麺を啜る天野――

 …………

 ……

 …

 ?

 天野?

 空腹で気でも狂ったのかと思ったが、何度か瞬きを繰り返してもやはり、ソレは満足げにその一杯を楽しんでいた。そこにはあの『お嬢様』然とした彼女は居なく、ひとりの『女の子』としての天野が居た……にしても1人でチェーンでもないラーメン屋に来る高校生はなかなか居ないだろうけど。

 けれど驚いた。至福のひと時を、昼食の時間を奪れ辿り着いた場所に奇しくも、彼女が居るなんて。

 目の前のラーメンに気を取られ、きっと何をしても気づかないであろう彼女を見ながらおもむろに取り出したのは、鞄の奥底に潜んでいた適当な紙と適当なシャーペン。

 適当なアタリを付け、嫌でも焼き付いたその至福のひと時を精巧に描いてみることにした。

 あいつも体裁というものはある程度気にしているからこそこれだけ遅くに、これだけ離れた場所にわざわざ来ているんだろう。

 誰にも見せたくない、いや、見せられないその姿を。

 満面の笑みを浮かべる彼女はそんなことも露知らず、一口、また一口と運ぶ度にただただ、幸せをかみしめているようだった。

 彼女にだからこそ効果のあるその子供じみた『仕返し』。

 それが終わる頃には丁度、ラーメンも来るだろう。




 やけ食い。それをしたのは今日が初めてなのかもしれない。

 ジャンキーの代表格ともいわれるラーメンを啜っていると、そんな余計な思考が私の頭の中で駆けていた。

 うるさい。

 いいじゃない。今日くらいは。

 せめて食べ終わってからにして。

 私の中の私を強引に追い出してまた、啜る。


「さすが、元祖というだけあるわね……」

「ねぇちゃんほんと旨そうに食ってくれるよな! 替え玉、要るかい?」

「すごく、すごく美味しいです。ラーメンは数えるくらいしか食べたことが無いけど……その中でも、これが一番。あとその替え玉……? もお願いします! 」


 勢いで頼んでしまったけれど、替え玉? というのは一体なにかしら……味噌玉、みたいな?

 濃厚な味噌ラーメンをこれ以上濃厚にしたらどうなってしまうのかしら、このラーメンも、私も。どうなってしまっても良いかもしれない。そんなことを考えながらまた、箸を進める。


「よぅ」


 コショウ、酢、ラー油、並べられた卓上調味料に手を出すかどうかを迷っている中に声を掛けてきたのは、あの気さくな店員さんではなく朝かっ……


「んふはぜくん!?」

「……飲み込んでからでもいいんだぞ」


 そうよね、みっともなかったわね。

 ブレザーの裾で口元を押さえながらあさか……ほんとうに朝風くんよね? はほらほらと言わんばかりに片手で促す。隠しても笑っているのは見え見えなんだけど。

 よく噛んで、よく味わって、緩んでしまいそうな口元を必死に抑えながら、『いつもの私』で出迎える。


「何?」

「あぁいや、ここで会うとは思ってもいなかったからつい。な」

「嘘。あなたそういう人じゃないでしょ」

「わかったような口はきくな」


 減らず口だけはぽんぽん出てくる彼はそうそう、なんて言いながら一枚の紙を手渡してきた。え、なにこれ。


「に、兄ちゃん……」


 あの気さくな店員さんは何かを勘違いしているのか、それとも急に話しかけてきた高校生に驚いているだけなのか、目配せでもしてみるとすぐに背を向けて替え玉? というものの準備に取り掛かっていた。


「これ、やるよ。欲しがってたやつ」


 私が一体何を欲しがっていたというの? 手渡された一枚の藁半紙、それに引かれた線、塗られた黒、それはどう見ても私……私?なのよね?これ。朝風くん、彼の書いた私がそこにはあった。

 滑らかに引かれた輪郭はシャーペン一本で光の陰影を映し出し、啜られた麺、跳ねる汁は静の絵画に間違いなく、動を与えているよう。結ばれた髪、集団から外れてハネる髪の一本一本まで引かれた線、肌の質感、カウンターの木目、細部まで丁寧に描かれたソレは間違いなく、彼の見た世界の一片なのだろう。


「これが朝風くんの……絵」

「んじゃ、俺帰るから」

「え、いやちょっと待っ」


 あれだけ笑っていた彼はいつの間にか、いつもの澄ました顔に戻り、私の静止なんて聞くこともなくガラス戸を開け、行ってしまった。はみ出たワイシャツでも掴んでいれば、待ってくれていたのだろうか。

 話がしたい。彼と、話がしたい。目の前に置かれているラーメンを食べきろうとまた向き合ってみると、そこにはまるで、時間が巻き戻ってしまったかのように麺が増えていた。


「っはい!替え玉一丁!

 また同じように、麺を啜る。

 浮かぶ油は光に照らされ、無数に私を映し出す。

 その顔はとても至福の時間に溺れているような顔は、していなかった。




 腕時計の針を見ていると時刻はもう、7時40分を回っていた。ところどころ明滅する街灯、回ることを辞めた理髪店のサインポール。活気もなにもないこの通りはどこか和製ホラー映画にも出てきそうな不気味で少し寒気のするような雰囲気に包まれていた。

 あの総菜屋も、あの八百屋もとうにシャッターを下ろしていて、完全に陽の落ちた商店街は明りを点けたまま眠っているのだろう。

 帰り道とは正反対で、来るたびにこの恐怖を味わうのではあれば足取りは重くなるかもしれないが、また来たい。そう思えるくらいくらいに俺は腹も心も満たされていた。


「少し、やりすぎ感はあったけどな」


 あの『仕返し』はどうやら効果テキメンであったみたいで、あの天野は見たこともないくらいに顔を赤く染め、俺ではなくその絵を睨み続けているようだった。けれど罪悪感は無い。食べ物の恨みは意外に根が深いのだ。


「……くん、ちょっと! 朝風くん!」


 丁度商店街を抜けた頃、静寂を切り裂くように息を切らしながら駆ける足音と、こうなるであろうと予測していた彼女の声が追って来る。予想に反して、少し早かったような気はするが。


「おう、よく噛んで食ったか?」

「そうじゃないでしょ! これ、何?」


 今度こそ絵ではなく俺を睨みつけながら広げたのはあの藁半紙、あの『仕返し』だった。何、とか言っておきながらそれが何かは知っているだろうに。


「何って、絵だよ」

「それはそうだけど、聞きたいのはそういうことじゃないの。どうして、どうしてこれを……」

「こんな良い絵を描いてくれたのってことよ!」


 ……良い?

 息を切らし、肩まで揺らしながら叫ぶ彼女に圧倒されたわけではない。けれどどうして、何も言い返すことは出来ずにただただ、じりじりと詰め寄る彼女を見つめることしかできなかった。

 言い返せないというよりかは、言い返す言葉が俺の中に無かったのかもしれない。


「本当に言ってるのか……? だってお前、滅茶苦茶睨んでたろ、あの絵見たとき」

「ん? ただあの絵に惹かれていただけだけど……」


 お互いがお互いを見つめて1秒、2秒、ゆっくりと首をかしげてみる。眉を潜めて俺を見るのはやめてくれ。出てくるものなんて何もないんだから。

 どうやらあの『仕返し』なるものは彼女にとって1ミリも効くような代物ではなかったらしい。あぁいや、訂正しよう。効果は確かにあったのかもしれない。予想もしていなかった方向に向けて、だが。


「ぷっ……ははっ」

「何が可笑しいのよ」


 そうしようもないと人は笑うことしかできないらしい。それは何もかもが上手くいかない自分に対してと、無敵な彼女に対して。

 多分こいつにはもう、何をしても勝てないだろう。そもそも勝ち負けを考えている時点でもう、負けているかもしれないが。


「……描くか」

「えっ?」

「だから、描くって言ってやってんだよ」

「本当に!?」


 じりじりと近づく彼女は大きく踏み込んで身を乗り出し、動いてしまえば触れてしまいそうな距離で俺を待つ。どうしてこいつはこうも土足で踏み込んでくるのだろうか。どちらに対しても。

 ただ、踏み込んだのは彼女だけではなく、俺もまたそうなのかもしれない。もう一度描く。取り消せないその言葉を告げられたのは多分、相手が天野だからだったのだろう。

 俺のくだらない『仕返し』に、いや、俺の絵にこれだけ真剣に向き合ってくれる人が居る。

 感情を向けてくれる人が居る。

 心を動かしてくれる人が居る。


「また絵を描く理由なんて実は、そんな理由で十分だったのかもしれないな」

「まだ私よくわかってないんだけど」

「わからんでいいよ」

「……なにそれ」


 不満げな言葉を投げながらも彼女もまた、似つかわしくない笑みを浮かべながら笑う。

 気にはなるが理由なんて実際、どうでも良いのだろう。天野は手段なんて選ばないのだから。


「ただ、次に描く一枚が俺の最後の絵だ。受験だってあるからな」

「最後の一枚、いいじゃない。楽しみにしてるからね。それと……朝風くん」


 ――また絵を描いてくれて、ありがとう。

 受け止めきれなかったその言葉を受け流すように鼻で笑いながら、背を向けて俺は歩き出す。頼りなく明滅する住宅街はなぜか、今の俺にはどうしても明るく見えてしまう。


「あ、ちょっと待って」


 呼び止める彼女の声を聴かずに足を進めていると、横に並んだ彼女はその両手に広げた『仕返し』を俺に向ける。


「これ、返すわ」

「自分で描いた絵を飾るような趣味は無い」


 俺もいらないんだけど、それ。自分の絵以前に、同級生がラーメンを食べる絵なんて誰も欲しがらないだろう。モデルが天野だから需要はあるのかもしれないが、少なくとも俺には無い。


「さすがに飾られるのは嫌よ。でもこれ必要でしょ? 進路希望調査票なんだから。その前になんでこれまだ出してないのよ……」


 渡された藁半紙の裏面を見ると確かに、そこには進路希望調査票というタイトルのもと、俺の名前が添えられていた。俺はまたすごい紙に書いてしまったのかもしれない。

 一日着てくたびれた制服のように脱力して呆れる天野には、そろそろ俺がそういう人間だということに気付いてほしい。


「ちゃんとした紙に描いとけばよかったかもな」

「それも一応、ちゃんとした紙なんだけどね」


 それは確かに、そうかもしれない。伸ばしてくれた期限も過ぎているし、そろそろ出しに行くか。

 調査票をしまう最中、ある疑問がひとつだけ浮かんでは消え浮かんでは消え、浮上する。


「多分これ、提出したら担任に見られるけどいいのか?」

「あなたが出すんでしょ?それなら別にいいわ」

「えっ」


 投げた疑問はその身体を2倍に3倍にも膨らませて返って来る。俺が出すなら良いということは言葉通り受け取って良いのだろうか。俺以外の人は嫌だけど俺なら良い……

 揺れる心に呼応して足取りも揺れ、挙動は不審になる。千鳥足というのはこのことを言うのかもしれないけれど、そうだとしたら俺は今、何に酔っているのだろう。


「だってあなた、先生に信用されてないでしょう? 期限も守らないし、遅刻もするし、だらしないし。どうせそれも落書き程度にしか思われないでしょ。私がそんな風にしているなんて誰が信じるの?」


 彼女の直球な性格は幾度となく俺の心を動かしてはきたが、それが牙を剥く日がこんなに早く来るとは思っても居なかった。たしかに期限は守ってない、遅刻もした、だらしもないかもしれない。詰め込んでそのまま伝えられるとなかなかに辛いものがある。

 調査票は明日にでも提出しよう、裏の絵を見たらあの人がどんな顔をするかはわからないが、今の俺はそれを出す必要があるからだ。

 それは期限が決められているからではない。『普通』の大学を書いたその紙は今、次の一枚で最後にするという契約書にもなっているから、だ。


「ま、お前がいいならそれでいいや。んじゃ、今度こそまたな」

「あ、最後にちょっと言いたいことがあるんだけど」


 まだ何かあるのか。もう天野から渡されるものなんて無いだろう。もちろん、俺から渡すものも何もない。

 振り返り、今日一番の笑顔を見せた天野が、油で輝く彼女の唇が、ゆっくりと動き出す。

 一応で心は身構えて、今度こそ受け止めるんだ。彼女が告げる今日、最後の言葉を


「お前呼び、やめなさい」

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