陽の傾いた夕暮れの教室はどこか、現実感が無い。ひとりきりの教室。寂しさや孤独をを当たり前のように感じないのは多分線香花火の終わり際のような、一際強く輝く夕陽で満たされているからだろう。
空いた窓からあれは……野球部だろうか。大きな掛け声に呼応するように響く銀色の音、広がるグラウンドの土を踏みつける力強く、小気味の良いじゃりじゃりとした音。
廊下側はどうだろうか。空いた教室で練習をする吹奏楽部のこれは……楽器に詳しいわけではないから、考えるのは辞めた。
低くも力強いその音は腹の底まで響き、高くどこまでも飛んで行ってしまいそうなその音色は瞬く間に右耳から左耳へ抜けていく。
微かに聞こえるそれらはやはり、俺だけが残された教室の静寂をより強調させているのだろう。
完璧でない静寂の中で俺もまた、微かに、けれど確かに、その一員として音を奏でているのだった。
カッ、カッ、カッ。使い古したシャーペンが罫線だけ引かれたノートに解を走らせる音は、俺だけの教室の中で、俺だけに向けて奏でてくれているような気がしていた。
ため息交じりに小さく吐いた息はブレスで、そのシャーペンは楽器でもあり指揮棒のようにも思えてしまう。
……そんなことを考えているものだから、いつまで経ってもこの課題を終わらせられないのかもしれない。
数学Ⅲ
その学習がどう活きるのかを考えたことはない。とりあえず今を生きるためだけに、目先の受験という壁のためだけにただ、解き続ける。
好きか嫌いかで言えば、嫌いという部類に入るのかもしれない。ただ、それに抱く感情が今日はどうして、美しいとか、羨ましいとか、そう言ったものばかりだった。
走らせた筆の先には必ず、ソレがある。
定められた1つ、初めから解が決まっている、その数式たちに。
散らばった消しカスを軽く手で払う。それすらも美しさを汚さぬように、と無意識に自分でそうしてしまっているように思えてしまう。
「いいよな。決まった答えのあるお前たちは」
なんてことを言って、自分でも笑えてきてしまう。刻々と迫っていている受験の日を前にして、そんなことを考えられるような俺もまた、実は気楽なのかもしれないのだから。
日に日に桜は散り、外から見える景色もやがて、桃から緑にまた変わる。その中で取り残されているような感覚は焦燥にもよく似ているのかもしれない。焦げて燥く。
傾いた陽が俺の肌を赤く照らす。文字通り、このままだと焦げてしまうかもしれない。
焦げた果ての色をしているようなシャーペンの芯は、その身を削って表せる解は無いかのように、お前に告げる解は無いかのように、静かにその終わりを迎えた。
今日はこれくらい位でいいだろう。
両腕を目いっぱいに伸ばし、大きく息をする。春の生温い空気をいっぱいに取り込むと、全身の血は躍り、少しだけ宙に浮けたような気がした。
凝り固まった重い腰を上げて、飛ばされてしまわないようにと教室の窓を閉める。そこから見える小川には桜の小雨が降っていた。
久しぶりに感じる気持ちの良い疲れに少しだけ、口角を上げながらひとり、教室に別れを告げる。
出せない答えを先送りにしたまま手ごろな答えで満足する俺はまさに、流されるその桜のひとひらそのものみたいだった。
「以上で、本日の定例会は終了です。今年から生徒会に入った人はまだ慣れないかもしれませんが、1年間、頑張っていきましょう」
――はい。
あまり揃わないその言葉の後には決まって、詰まった空気を吐き出すかのように揃って息を吐く。緊張の糸が切れる音はあちらからもこちらからも聞こえ、目に見えていたらそれはもう細切れになっているのだろう。
「天野さん天野さん!」
「ん?」
ホワイトボードの文字を消していると、聞きなじみのない声が私を呼んだ。陽の落ちかけたこんな時間でもそれは明るく、高い。それに、『知人』は多いけれど『友人』の少ない私へ一番に声を掛ける人なんてそう多くは無い。全くない、ということはないはず……よね?
頭の中で候補をひとり……ふた、ふたりくらい、挙げて振り返る。立っていたのは候補どころか『知人』ですらない、知らない子。
陽に照らされ赤茶の強調されたショートヘアを楽しそうに遊ばせながら、白い歯を輝かせ無償の笑顔を振りまく彼女。とりあえずそれは受け取ってみても良いだろう。無償なのだから。
けれど、無償のものこそ怖いものは無い。その笑顔の裏で彼女はいったい、何を考えているのだろう。何を求めているのだろう。もしかしたらその笑顔には奥底に沈む理由なんてないのかもしれない。ただ、年でも良いから納得できるような理由は、欲しかった。
「ええと……?」
「あ、えっとね。私は咲、
海原咲、名前だけは聞いたことがあった。部活には入っていないと聞いているけれど、放課後はどこかしらの部に混ざって運動でもしていたり、実験していたり、芸術に触れていたり。文字通りこの学校を渡り歩く自由人、なんて誰かが言っていたような気がする。
どこにも属していないからどこへでも行ける。どこにでも居て、どこにも居ない。まさに神出鬼没ね。
名前を聞いてからだと改めて、その容姿すらも、その仕草すらも自由人らしく見えてきてしまうのは、気のせいなのだろうか。
風が吹けば飛んで行ってしまいそうなくらいに細く小さい海原さん。無垢という言葉を体現したような笑顔、話しながらも物珍しそうに、あちらにもこちらにもキョロキョロと視線を遊ばせる好奇心。子供というより、小さい天使なのかもしれない。その翼でたまたま降り立った生徒会室は、どう映っているのだろう。
「ウチのクラス……?あぁ、朝風君と同じクラスなの?」
「うん!って、それだよ!それ!」
言うと、大きく頷きながら同時に私へ指を差す。コロコロコロコロ様相を変える彼女はやはり、子供なのかもしれない。差された指は気づかれないように避けてみることにした。
「朝風くんと天野さんでしょ……な、何があったの? 」
どうして必死そうなのかはよくわからないけれど……何が、と言われても私も困る。
私だって意図して彼と出会ったわけではないし、彼もまた、意図して私と出会ったというわけではない。
それに、彼の見ている世界を見たいだなんて言ったところでわからないだろうし、その経緯を話すにはもう陽は落ちすぎている。物珍しい訳ではないけれど私もまた、あちらにもこちらにも視線を投げてみる。彼女に非があるわけではないけれど少し、苦手なのかもしれない。
それにしても、これだけ黙っていること自体、状況は悪くなる一方。子供は好奇心の塊なのだから、その小さな身体を使って無用な詮索でもしてくるに違いない。
とりあえず適当なことでも言っておこう。
「別に、朝風君の目が気になっただけよ。綺麗じゃない。シュッとしていて」
丁度良い答えをとりあえずひとつ、渡してみる。実際、キレがありながらも丸みを帯びたその目は綺麗だと思う。美しい目と、俗にアーモンドアイと言われるソレに惹かれたなんて言えば、あの子も納得してくれるでしょう。
「えっ」
「えっ」
……えっ?
熱のこもった生徒会室は一瞬にして冬の様相を見せ、あれだけ細切れにされた緊張の糸はその姿を取り戻し、凍ってしまったように固まる海原さんはそのまま、動くことはなかった。
きっと疲れているのね、彼女も私も。相槌も打てないくらいに疲弊しているとは思ってもなかったけど……仕方ないわね。受験でヒリいている中、初めての生徒会活動にも参加してくれているんだもの。
知らない仕事、知らない教室で、知らない人との会議なんてたいへんよね。とりあえず何にでも顔を出してみる、そんな適当な人かと思っていたけれど……さすがにそれで生徒会に入るような人は居るわけがない。考えは改め直す必要があるかもしれない。
「……ごめんなさい」
こういった形で頭を下げたのはいつ振りだろうか。こんなことにも気づけないだなんて、子供子供言っていた私だって、子供じゃない。
丁度視界に入ったのは小刻みに揺れ、スカート裾を強く握る海原さんの小さな拳。知らずの内に態度に出ていた私に怒ってるんだ。けれど今は、これが私にできる精一杯。
もう一度深く頭を下げ、私は逃げるように生徒会室を出た。こんな情けない姿、見せられている方も嫌だろう。
次ね、次の定例会、そこで彼女にしっかりと謝るの。
去り際に聞こえたか弱い小さな声。ソレは間違いなく彼女のものだったけれど、この耳で聞くにはあまりにも小さくて、けれどそれからも逃げるように私は、陽の落ちた廊下を後にした。
「――天野さんもしかして、朝風君のこと……」