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第5話「黄色は鳴りやまない」

「でさー、この間咲ちゃんがさぁ」

「ちょっと! それ言わないって約束!」


「5限ってなんだっけ?」

「選択科目だった気するけど、お前何選んでたっけ?」


 午前の授業が終わり喧騒に包まれた教室の中、二段に分かれた弁当箱を広げ、手を合わせることで

 俺にとっての至福のひと時は始まるのだ。


「いただきます」


 鮮やかな黄色で巻かれた卵焼きに箸を伸ばしてひとくち。広がるやさしいうまみとほんの少しのだしの風味は腹だけでなく、心まで満たしてくれているようだ。

 これを毎日出してくれる母には本当に、感謝しかない。ただ……いつも量が多いもだけはなんとかしてほしい。あの人は多分、まだ小さい頃の俺をどこかで見ているのかもしれない。嬉しい、とは違えど似ている何も一緒に嚙みしめる。

 好きなものは最後に食べる主義だから、唐揚げはまだ残しておこう。


「朝風君って、このクラスだったかしら?」


 誰かが俺のことを呼んでいたような気がする。同じ苗字の人間はこのクラスに居ないが、多分聞き間違え何だろう。気にせずに次はミニトマトにでも箸を伸ばしてみよう。

 うん、うまい。


「朝風……くん?えっと……天野さんが朝風君に、だよね?」

「え、朝風くんと天野さんってどういうこと……?」

「海原さんの間違い――なんてことはない、よね?」

「えぇ、朝風くん。朝風悠くんで間違いないわ」


 教室の喧騒はいつもと違った空気を醸し出しているような気がして、どことなく不気味だった。

 顔だけを上げるとその視線は俺だけに向けられていて、口に入れたミニトマトをただ咀嚼することだけしかできなかった。

 噛むと同時に、何かがはじけたような音を聞いたような気も……する。それはじんわりと身体を通して広がる妙な緊張感のようで、その元凶は不満げな顔をしながらも一直線に向かい、近づく度に滲んだ黄色の喧騒が襲い掛かる。


「朝風君、大事な話があるのだけど」

「大事な話!? 天野さんが、朝風君に!?」

「……俺から話すことなんてねぇよ」

「あなたにとってはどうでもいいかもしれないけど、私にとっては大事なの!それに、まだあの時の返事聞いてないし」

「返事!? 天野さんからってこと!?」


 ……天野の言いたいことはわかるが、せめてここでそういう言い方をするのはやめてほしい。前提を知らない無責任なメディアに囲まれたこんなところで蒸し返されると気恥ずかしいというか、面倒くさいというか。

 天野は少なからずこの学年ではなにかと『目立つ』存在ではある。それは単に生徒会副会長であるからということではないらしい。近寄りがたくもすべてを平等に受け入れるあの性格、手が届いてしまうかもしれないと淡い期待を誘う高嶺の花。あるいは一等星。誰も大っぴらに口で話さぬとも、各々が秘めた想いを持っているなんて言うことは、噂で聞いたことがある。無駄に風通しの良いここでは耳を塞いでいてもそんな話は嫌でも入って来るが、噂は今、俺の中で事実へと昇華した。

 あいつ自身はそれに気付いているのだろうか。いや、気づいていてもいなくとも彼女ならこうするんだろう。なんとなく彼女の性格がわかってきたような気がする。


「言いにくいなら場所、変えましょうか」

「え、まだ昼しょ――」


 強引に引かれた手は多分、拒んでもまた伸びてくるだろうから甘んじて受け入れる。

 この返事は少しだけでも聞いてほしかった。

 火のない所に煙は立たぬとは言うけれど、ここまで立ってしまったらもう、ぼや騒ぎでは済まないだろう。

 引かれるままに背中で受ける業火に思わず、火傷してしまいそうだ。


「……そんなことなら唐揚げ、最初に食べとくべきだったな」




「ここならいいでしょ。誰も来ないだろうし」

「いいけど……ここ、ひとりにでも見られたらまた変な噂建つぞ」

「また? 」

「あぁ、ならいいよもう」


 良くはないが。

 連れ出された先は4階の踊り場、施錠された屋上への扉に預けた背が冷たい。


「そんなことより」


 逃げ場を失くし小動物となった俺に尋問じみたことをするであろう彼女は、とても生徒会副会長だの高嶺の花だのと思うことは出来なかった。世渡りがお上手なことで。


「それで、もう一度絵を描く気にはなった?」

「なるわけないだろ。逆に描いてくれるとでも思ってるのか?」

「数日あけたら流石に頭も冷えたでしょう?」

「もともと冷えてたよ」


 あの日の俺は取り乱しているようにでも見えたのだろうか。急に変な捨て台詞でも吐いて逃げたらそうなるのか。冷えても何もそれは変わることが無いというのに。


「せめて理由だけでも教えてくれないかしら。絵を描いていたんでしょう? どうしてもう、描かなくなってしまったの?」

「聞いたら諦めてくれるのか?」

「まぁ、基本的には」


 諦めないかもしれないと言っているようなものだが、一度こうなった天野はもう止められないんだろう。それは知らないことばかりの彼女に対して俺が唯一、知っていること。

 それで納得してくれるのかどうかはわからない。彼女からしたら些事な理由なのかもしれない。


「反対されてんだよ、親父に。絵の道なんて行くな。って」


 それでも口を開いたのは、吐き出したかったのかもしれない。全てがどうでもよくなって、ため込んだ汚泥を少しでも外に、抱えて埋もれた大事なものすらも一緒に。自暴自棄とよく似ているその感情を

 穢れも知らぬ彼女にぶつけられたのは、少しでもその眩しさを曇らせたかったのかもしれない。


「どうして?」

「それはわからん。ただ、親父も親父でその道を『目指していた』から、いろいろ思うことはあるんじゃないか」


 投げやりに、まるで他人事のように、吐き出した汚泥に唾を吐くように、言葉を棄てる。

 小学校の美術……図工と言った方が良いのだろうか、教師の父はなにも、昔から教師になりたかったわけではない。そう母から聞いたことがある。記憶の中では教師だった父に何があったのか、いや、むしろ何もなかったからなのか、どこを目指し、何を諦めたのかは知らない。


「今は小学校で先生やってんだ、どうしてかは知らない。挫折でもあったのかもしれない。同じ轍を踏んでほしくはなかったんだろうな」

「わからないじゃない。あなたがお父さんと同じように挫折するなんて」


 一向に引き下がらない天野の言うことは確かに、正しいのかもしれない。親父が挫折したところで、俺も同じく挫折するとは限らない。ただ、それはただ正しい。それだけ。正しさだけの一方的な言葉に心なんて、動かないだろう。


「これ以上は家庭の事情ってことで、許してくれないか」


 便利で狡い言葉をこうも使えるようになっている自分は少し、嫌なやつかもしれない。固く口を結ぶ彼女はやはり納得がいかないのだろう。けれど、人生というのはこういうものなんだと思う。だから人は、夢を見るんだろう。救いなんてものは現実にはなくて、目を閉じることで始まる逃避行、それはいつまでも、終わることはない。


「じゃあどうしてあの日、あのOB展示会の時、あなたはずっと絵を見ていたの?」

「それは……」

「諦めきれてないんじゃないの? その道を」


 夢うつつな日々に亀裂の入る音を聞いた。その間に居た俺に再び彼女は手を差し出して、夢の世界に引き釣り込もうとしているみたい。俺はまた、夢を見れるのだろうか。瞳を閉じても聞こえてくる現実の喧騒は邪魔をするばかり。眠りについて夢を見るなんていうことがこんな状態で、できるのだろうか。


「わかったわ。それじゃあ私は、あなたに諦めきれる最後をあげる」

「最後?」

「えぇ、最後よ。一度だけ、もう一度だけでいいから私は、あなたに絵を描いてほしいの。最後の1枚を見せてくれれば私はもう、何も言わない。これ以上付きまとわない。あなたもあなたで満足のいく最高の1枚を描くの。それがあなたにとっても、諦めきれる理由にもなる。そうでしょう?」


 諦めきれる最後。それが彼女の提示した最後の譲歩。夢から覚めるための、最後の夢。

 それはとても甘く魅力的で、同時にとても辛く強烈で、俺にとって直ぐに手を伸ばせるような代物ではない。とってしまうことで必ず、俺は『終わり』に直面することになる。ただ、手をとならなかったらどうなるか? このままの日常が過ぎて行き、終わらないだけの終わりに似た何かが死ぬまで付きまとうだけのそんな人生。

 その分岐点に立たされていると考えると、途端に脚のすくむ思いがした。この選択こそ、頭を冷やして考える必要がありそうだ。


「今度こそ、頭を冷やす時間が欲しい」

「えぇ、今回はその言葉が聞けただけよしとするわ。フフッ」


 どこか嬉しそうな彼女が零した笑みに思わず首をかしげてしまう。何が可笑しいのかわからずに言うと、その笑みを浮かべたまま、続けて彼女は言う。


「今日はちゃんと、目を逸らさずに聞いてくれたのね」


 その答えを聞いて思わず、俺まで吹き出してしまう。そんなことで笑っていたのか、アイツは。言われてみれば確かに、その赤い瞳、どこまでも黒い長髪、すべてを透かす純白の肌、これだけ近くに居ても直視できたのは、初めてかもしれない。

 天野を置いて一段一段、階段を下りる。その度空を下るような感覚が足を伝い、それが夢の終わりを示唆するように語り掛けてくる。

 どう転ぶか、どう転ばすかはわからない。


「慣れたんだよ。天野の眩しさにはな」


 この頭が冷えるまで、あと何歩かかるだろう。


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