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第4話「褪せた桜色」

午後2時、早退かサボりでもしない限り通らない、こんな時間に歩く家路はどことなく、奇妙な違和感で舗装されているようだった。

 妙に静かで、妙に温かい。生温いと言う方が近いのかもしれない。ある意味では平穏そのもののソレはなかなかに良いものである。ただこういったこのは、タマに享受するからこそそう思えるんだろう。

 そんなことを考えながら家の扉を開けると、聞こえてくるのは落ち着きのあるニュースキャスターの声、カチャカチャと擦れる食器を洗う音、日常の音。


「ただいま」

「あぁ」


 リビングで出迎えてくれたのは新聞を広げ、一瞥だけをくれる父親のどこまでも低い小さな一言。今日は休みだったのだろうか。


「あら、今日早かったじゃない。いつものあれ……えっと、展示会?もう終わったの?」

「3年は自由参加だって」


 少し驚きながらも手を止めない母は、ふぅんと一言。至極どうでもよさそうな反応だけを返してくれた。


「それだったら入学式終わってすぐ帰ってくればよかったのに。お昼食べた?」

「いや、ちょっと見てから帰ってきたから、まだ」

「また『絵』か?」


 広げた新聞を置き、その鋭い視線は俺に向けられる。俺を見ても何か書いてあるわけではないのに。浮き出る文字を待っているようで、見透かそうとしているよう。


「そんなんじゃねぇよ」


 そんなん。嘘を纏ったその場しのぎの言葉に、父は笑う。それは諦観のような、呆れのような。そんなもの。


「もう3年だろう。大学は決めたのか?」


 黙る俺の代わりに答えてくれたのは、沈黙だった。こいつの出したソレと答え合わせをしようとは思えずにとりあえず、雑に脱いだ靴下を洗濯機に放り込む。少なくともそれは、間違っていないということだけはわかっていて、心の奥にしまっておくことにした。


「だろうな、だからろくに進路希望ひとつも書きやしない」


 取り出したのは1枚の藁半紙、『進路希望調査』。俺の名前だけが書かれたそれの記入欄、志望大学欄を指で2度、3度つつきながらも、俺から視線は外さない。

 進路だ大学だは正直、どうでも良い。それはもう耳にタコができるくらいに聞かされた言葉だったから、それ以上にどうして、俺の部屋に置いていたはずのソレをあの人が今こうして、提示してきたかということだ。


「……勝手に入んなって」

「悠!」

「もうお父さん!悠だって悩んでるんだから、ね?」


 母親が吐いた小さなため息は俺に向けられたものなのか、父親に向けられたものなのか。真意はわからずともとりあえず、早く終わってほしい。ということだけは感じることができた。

 発端の藁半紙を雑に鞄へ放り込み、向けられた視線から逃げるように部屋を出る。


「悠、」


 呼び止める声に脚を止めることは無い。けれど――


「普通の大学に行ってくれれば、それで良い」


 けれどどうして、憂いを帯びた父の声に、まだ引き返せると心が叫んでいるのだろうか。




 誰かの入った自分の部屋はどことなく、気持ちの悪さが漂っているような気がしていてならない。

 電気もつけずにとりあえず、ベッドに鞄と身体を投げ出してみる。


「閉めとけよ……」


 開いていた窓からは桜が迷い込む。纏わりつく春は外に還し、迷い込まぬよう窓を閉める。

 父がどうしてこの部屋に入ってきたのかはよくわからないし、わかりたくない。ベッドと机と本棚と、好き『だった』絵が飾られているだけのこんなところに。

 キャンバススタンドに置かれたその1枚にでも聞いてみようか。色はあせ、滲み、ところどころ劣化したソレはもう、あの日見た『特別な絵』とは完全に非なるものではあるけれど、思い起こしたあの記憶は今でも鮮やかに鮮明で、あの日父が描いてくれた1枚そのものを映し出してくれていた。


「なあ、親父。あんたも見たんだろ?」


 行先を決めずに零れた言葉は心に堆積するばかりで、消えることは無い。

 この絵を。あんたには何が映ったんだ? いや、何を思い出したんだ? 俺と同じものか? 違うものか?

 そして、何を思ったんだ?


「あんたの跡を追って、何が悪いんだよ」


 暗い部屋の中、俺の声だけが響き、満たされているようだった。




「お父さん。春って、なんか怖い」


 小学2年生。無邪気という言葉ですべてが許されるくらいに幼い頃から、俺は春という季節が好きではなかった。

 それを表す言葉も、そうさせる理由すらも、何もかも知らなかった。毎日背筋を伝うぬるい違和感はどこまでも付きまとう。


「それはまたどうして? 春には綺麗な桜も咲くし、暖かいし、去年の入学式は春だったろ? その時の悠はとっても、とっても楽しそうに笑っていたよ」


 父親の言うことは至極真っ当だ。冬の突き刺すような寒さもなく、夏の灼けるような暑さもない春。俺たちを迎えてくれる桜の美しさには子供ながらに感動を覚えたことももちろんある。端的に言うと、心に陽が差す季節であった。だから、だからこそ、それに恐怖も寂しさも覚える理由なんてなんてないからこそ、余計に春という季節に恐ろしさというものを覚えるのだ。

 理由の知らない恐怖に打ち勝つことは難しい。


「それはそうなんだけど……それでもね、わかんないけど、怖いの」


 けれど、理由を知っている恐怖は少なくとも、受け入れることは出来る。

 数日後、父はとある1枚の絵を俺にプレゼントしてくれた。青、桃、白、沢山の色が踊るように散りばめられていた父のエプロンがその努力を物語っているように見える。


「悠の気持ちを考えて描いてみたんだ。ただ感じてくれたら、それでいい。考えるのはもっともっと、大きくなってからでいい」


 当時の俺より少し小さいキャンバスが俺を出迎える。

 描かれていたのは、美しい桜が花びらで雨を降らし、流れる川に身を任せるようなそんな、春の一枚。

 春を象徴するその美しい桜はどこまでもたくましくその地に根を張り、冬を越えた命の花を目一杯に咲かせている。ただ、やがてそんな命も、春の一息吹によっていともたやすく摘み取られてしまう。

 流れる川に落ちたそれらはただただ、何をすることも許されず流されていく。どれだけ綺麗に咲いたとしても、数年ぶりに咲いた軌跡のひとひらだとしてもそれは同じことで、やがて皆、同じ最後に流れ着く。


「そっか、そうだったんだ」


 その時ようやく、春から感じる恐怖や寂しさの一片を掴めたような気がした。それが正解かどうかはわからない。それは自分の中にしかないけれど、その自分でさえも良く分かっていないから。

 父は何も言わずに俺を見る。『男は背中で語る』なんて言葉があるけれど、間違いなくあの時父は、絵画で俺に語り掛けていた。


「あんなに綺麗に咲いた桜もみんなみんな散っちゃって、1ヶ月もしちゃえばみんな居なくなっちゃうんだ。ずっと咲いていたくてもそんなことはできなくて、みんな最後には……」


 ――終わっちゃうんだ。

 最後まで言葉は言えず、湧き上がる感情の激流に思わず、声を出して泣いた。あの違和感への理由は知れたけれど、知ったことで余計に、その季節の寂しさというものは輪郭を明瞭になって襲い掛かって来るような気がした。


「外の桜も、この絵の桜も散ってしまったね。だけどね、悠。散ることは何も、終わっちゃうってことだけじゃないんだよ」


 泣きじゃくる俺を抱きかかえながら父は流れる桜に指を差し、続ける。


「散っていった桜はたしかに川に流されてしまうけど、旅をしているようにも見えないかい?」

「た……び?」

「うん。ずっと木の上で咲いていた桜が、勇気を出して旅に出たんだ。終わりじゃなくて始まり、そう思うこともできないかな?」


 終わりじゃなくて始まり。そう考えたことは確かになかった。潤む瞳でぼんやりとそれに目を向けてみても、散る桜はやはり散る桜にしかその時の俺には見えなかった。


「なにも桜に限った事じゃないんだ。悠は去年、卒業式っていうのやったろ? 6年生のお兄さんお姉さんたちの、あれはたしかに、小学校での生活が終わった日かもしれない。だけどそれと同時に、あの人達の中学校生活が足音を立てて、近づいてくる日なんだ」


 なにかを始めるために何かを終える。その経験が少ない俺が理解することはなかったが、少なくともそういうものなのかもしれないと納得することはなんとなく、できていた気がする。


「でもさ、それだったら、取り残された桜の木がかわいそうだよ」

「あぁ、確かにかわいそうかもしれない。お別れすることはたしかに辛いことだけど、絶対にその時っていうのは来てしまうものなんだ。お父さんも、そう。悠だってこれから、絶対にそういう日が来るものなんだよ」


 去るものが居れば残されるものも居る、もし自分が残される側に立つとしたら一体、どんな顔をしたらいいんだろう。


「なにかの終わりに立ち会った僕たちがやるべきことは、悲しむことなんかじゃない。悠、いいかい? そういう時は笑顔で笑って手を振って、送り出してあげることが、残されたもののやるべきことなんだ」


 それはまるで、出会いと別れの予行練習のよう。

 続けて父が耳元で優しく贈ってくれた言葉は今でも覚えている。

 添えられたその言葉で完成したあの絵は今でも心の中に根を張る『特別な絵』として、今も色褪せることなく飾られていた。

 あれから10年。今年もまた、芽吹きで始まり散ることで終わる季節がやって来た。

 俺もまたその言葉を、散り行くソレに笑みを添えて小さく贈る。ソレは桜でもあって、遠い昔の、消えぬ望郷でもある。

 ――散る桜 残る桜も 散る桜

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