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第2話「燃える赤に誘われて」

「ねぇ、絵ってどうやって楽しむものなの?」

「ウチもぜんっぜんわからない……」


 どこか引き締まるような入学式も終わり、色の散らばるこの多目的ホールでは緩やかな時間が流れていた。すれ違う名前も知らない新一年生たち、心なしかその顔は安堵と安らぎに満ちているようにも見える。

 何をすることもなく無表情で、ただ過ぎて行く時間に流されているだけの俺だからこそ、余計にそう見えるのかもしれない。

 OB展示会は学校行事の中でもかなり大規模な部類に入るイベントだった。学校全体で行われるそれは絵画、写真、歌、演劇、吹奏楽。その5ジャンルの芸術をそれぞれ多目的ホール、空き教室、グラウンド、体育館、音楽室で披露される。

 写真はよくわからない。歌や合奏も聴くような気分ではない。毎年人気な演劇は人の波で疲れる。絵画とは決別したけれどなんとなく、そこに居ることにしてみた。

 もしかしたら俺は未練がましい男なのかもしれない。これもある意味では自分を『見つけ』られたということなのだろうか。


「絵ってさ、見てもきれいーとか思いはするけど、それだけなんだよね」

「あ、それわかるかも。それ以上でもそれ以下でもない。みたいな」

「なんか損してる気分?」

「来年はもうちょっとわかるようになるのかなぁ」


 不安の雲があの子たちを覆っているようだが、安心してほしい。絵の楽しみ方なんてものは3年目でもよくわからない。

 それに、きれい。なんか好き。それだけでも十分だと俺は思う。それもまた、ひとつの楽しみ方であって、絵の楽しみ方に間違いも正解なんてものもない。細部まで観察して考えても良いし、パッと見の印象を心で感じてみても良い。

 正解は確かにないけれど、どんな楽しみ方をしても正解なのかもしれない。

 こじつけるのであれば、それがこの3年間でわかるようになったことかもしれない。


「そういえばそろそろ演劇の時間じゃない?」

「中学からの先輩がいるんだけど、なんか今年はすごい人来るらしいよ」

「行ってみる?」

「そだね」


 良い旅を。足早にホールから抜け出すあの子たちを見て俺も、重い腰を上げてみる。寸分違わず動く時計の針を見ているのも丁度、飽きた頃だったから。

 ホールにはざっと見るだけでも30。いや、40近くの絵画が飾られていた。そのどれもが卒業生のものだというのだから、余計に圧倒されるような気がしてしまう。

 OB展示会というのはその名の通り、本校卒業生の創り上げた作品だけを展示しているイベントだ。はじめは1教室だけで行われた小さなイベントも、年を重ねる毎に大きくなり、やがて一大イベントになったそう。

 本校の『特色』でもある芸術教育は、少なからず生徒に影響しているのかもしれない。画家であったり音楽家であったり劇団員であったり、そういった道に進む卒業生は数こそ多くはないが、毎年必ず数人は居るらしい。

 過大解釈でもしてみればOB展示会というものは成長の軌跡でもあり、学校の歴史そのものを体現しているのかもしれない。

 学校の思い通り、あの人達は自分を見つけられたのかはわからないけど。いや、もしかしたら見つけるために、人それぞれの形で自分を見つけるために表現し続けているのかもしれない。

 本当に見つけられるのだろうか。『そんなこと』で。

 画廊と化したホールを適当に歩いてみると、その中央には誰もが知っているような名画の数々が並べられていた。

 展示会の説明はいつも聞き流していたから思い出せないが、どこかの財閥が毎年協賛しているようで、市の美術館などからも借り入れているとか。

 名画の数々はその煌びやかな装飾が施された額縁に負けることなく自己を主張する。なんとなくそれが、端に小さく飾られた絵画を殺しているようだった。

 芸術という領域の中で生まれた絵画という作品たち。そのどれもが平等に価値のあるものだと思ってはいる。けれどその実、そうだと思わない自分も小さいが確かに、そこに居た。

 ホール中央にでかでかと飾られた『名画』と、隅で小さく飾られた『名画』を見比べてしまうと、どうしてもそう思えてしまう。

 本質的には平等に、価値なんてものは無いのかもしれない。けれど人はそれに価値を見出して、それに共感する人間が多ければ多い程、身勝手にもその絵に『価値』というものは付いてしまうのだろう。そして俺自身も無意識に、値踏みなんてことをしてしまっているんだろう。

 端の絵を一心に眺めるあの人もまた、そのひとりなのかもしれない。

 このホールの番人と化していた俺が来てから人の往来はあれど、その人だけは一度もその絵から離れずに佇んでいたような気がする。それだけ何か惹かれるものがあったのだろうか。それとも、なにか引力じみたものから逃れ慣れない程に圧倒されているのか。

 静寂の中、俺の足音と心音だけが響く。――俺もそのひとりになってみようとしているのかもしれない。


「あぁ」


 そんな時に思い出したことがある。この展示会に協賛している財閥のその名前は奇しくも、その絵の前に立つ彼女と同じ名前だったからだ。


「天野財閥、か」


 偶然の再会に小さく手を振ってみるが、当の彼女は俺を一瞥することなく、やはりその引力から逃れられないでいた。

「特別な絵」。彼女にとってまさにそんな作品の世界に脚を踏み入れる。今朝踏み出せなかったあの一歩、彼女側の世界へと今、ようやく踏み出せたような気がした。

 それはあまりにもシンプルで月並みで平凡な、「夕陽」というテーマを題材に書かれている『油絵』だった。粘り気の強い、油絵具を使った特有の凹凸は粗々しく、禍々しい印象を俺に与えた。

 けれど、テーマこそ平凡なその作品を一言で表すのであれば、『異質』。

 毎日のように見ているであろうソレを描いているはずなのに、既視感は無く、違和感だけが俺を掴んで離さない。

 沈みかけ、今にも消えてしまいそうなソレはどこまでも赤黒く、どこまでも眩しく、どこまでも、暗い。

 描かれた夕陽は大地を照らすために上り、落ちているわけではないのだろう。それは大地を空を自分自身でさえも――


「燃やしているみたいだ」

「ん……?って、あなた――」


 知らずに漏れていた思考は、隣の彼女を動かすには十分な感想だったらしい。まじまじと見つめながらやがて小さくため息を吐くと、冷たく平坦な声色で告げる。


「遅刻した人」

「それで覚えるな」


 どうやら天野の中で俺は『遅刻した人』で通っているらしい。不名誉極まりないが、事実であるから仕方がない。


「ねぇ、そんなことより燃やしているって、何?どういうこと?」

「急にどうした」


 一転してその声色は熱を帯び、身を乗り出して迫る彼女に少したじろいでしまう。彼女の中には無かった印象なのかもしれない。若しくは、その作者が『そんなもの』を書くはずがないとでも思っているのかもしれない。

 誰が書いたのかも、どういう題名なのかも知らない俺が呟いた感想に惹かれたのか、癇に障ったのはわからない。


「単純にそう思っただけだ、こんな夕陽は見たことが無いし、こんな赤い空なんて俺は見たことが無い。1日の終わりというよりかは世界の終わり、燃えて終わり。そんな感じに見えたから、ってだけだ」

「燃えて終わり……」


 小さく息を吐き、顎に当てた指は純白な肌で遊ぶ。理解はしても納得はしていないようで、解せぬ表情は緩まない。


「私、この人の絵が好きだったの。明るくて、優しくて、暖かい彼の作品が。だから、だからこそわからないの。晩年に、終末医療の病床で描いたこの荒々しくて、優しさとはかけ離れた作品が」


 晩年となり、変わってしまった異質なその一枚。

 彼女がそこに居た理由は惹かれたというよりも、引っかかっていたという方が正しいのかもしれない。

 逆に、俺に紐のように絡まり縛り付けていた違和感は少しずつ解けていくような気もしていた。


「いつか、こんな夕陽を見れば私も、わかるのかしら」

「俺は、そうは思わない」

「どうして? 作者が見た夕陽と同じものを見れば、気持ちだってわかるでしょう」


 同じものを見れば同じ感情が生まれるということはあるのかもしれない。だが、その理論はひとつの前提の上に建っているはずだ。それはいたって単純でシンプルなこと。


「作者は本当に、こんな夕陽を見たことがあるのか?」


 作者自身が何も見ていなければ、同じものを見るなんていうことは出来ない。自分で言っているうちに、この『特別な絵』が『本当に描いているもの』は何なのか、その奇妙な違和感の正体に気付けたような気がする。


「じゃあ、作者は見たこともないものを書いたと言うの?」

「芸術なんて大抵そんなもんだろ。特に絵だって、そこにあったのなら写真で十分だろ」


 素人らしく言っては見せたが、少々その言葉には棘があるかもしれない。無礼で不遜な言葉を彼女は受け止めながらもやはり、首を振る。黒に染まっていた彼女の瞳にも火が灯り、まるで燃えているよう。光を集めて何かを照らし、見えない真実を探るかのように。


「この夕陽は多分、晩年の作者そのものなのかもしれない」


 どこまでも燃える夕陽は命の灯火とも良く似ているような気がする。17歳の俺にとって命というものは長く、明日も明後日もその先も、遠い未来まで、いつまでも燃え続けるものだとしか思えない。

 けれど、作者はどうだろうか。

 命はやがて尽きる。

 歳を重ねる毎に近づいてくる死の足音、日に日に身体は朽ち、その灯火は頼りなくなっていくばかり。

 陽はやがて沈んでいく。


「陽は沈んで、やがて一日は終わる。だけど、その一日をこの人は、自分の人生に置き換えているんじゃないか、って。晩年ならなおさらだな」

「天野、こっちから絵を見てみないか?」


 首をかしげる彼女を横目に、その作品の真横で彼女を待つ。絵は普通、正面から見て楽しむものではある。けれどこれは、『油絵』で描かれたその作品だけは、違っていた


「夕陽だけが盛り上がって……」


 油絵の特徴の1つとして挙げられるこの凹凸が、生への執着というこの作品の本当テーマそのものを表しているようで、綺麗に夕陽の部分だけが盛り上がっていた。

 目で見たものを描くことが絵画じゃない。心で感じて、心で視えたものを表し、生きた証を描き、残し、刻むことこそが絵画、芸術だということをそれが教えてくれたような気がする。

 ただし、それがアートというものの全てではないということは薄々、感じていた。陽の差す病室の中、静かに息を引き取らんとしているその人にとっての境地――


「たどり着いた最果てにはそんな、景色があったんだろうな」


 俺たちがどれだけ夕陽を見ても、その夕陽と同じものを見ることは多分、ないのだろう。

 遥か遠く、逃れられない終わりに震えるそんな日々にふと、本当に同じものを俺たちは見ることができる。いや、見ることになるのだろう。

 ふと、拳に熱い何かが滴る音を聞いた。天野の頬を伝うソレはあらゆる光を反射して、輝いているよう。

 明るくて、優しくて、暖かい。天野がそう言っていた彼の作品は間違いなく、誰かにとってこの世界の、生きる希望のようなものを与えてくれていたんだろう。それは少なくとも天野に対しても。

 与えてばかりいた彼も、そんな希望をどこかで求めていたのかもしれない。


「あなたもしかして絵、描いてたの?」

「あぁ、でももう描くことはないだろうな」


 人の涙は得意じゃない。どこか適当なところにでも、と背を向けてみたが、何かが袖をつかんで離さない。


「あの……」

「名前」

「は?」

「名前、まだ聞いてない。遅刻した人だと言いづらいじゃない」


 あぁ、俺をそう呼んでいたのはそういうことか。たしかに、俺は彼女の名前を知っていたけれど、彼女は俺の名前を知らない。知るわけがない。ああいう風に代表して話すようなことなんてしたことが無いのだから。


「悠。朝風 悠あさかぜ ゆう

「朝風君、ね。うん……ねぇ、朝風君」


 袖を引く力は弱まることを知らず、逆に強くなるばかり。仕方なく向き合うともう、彼女の涙は枯れていた。

 深く整える息、見開く目、すべる唇。

 輝く瞳は何よりも赤く、あの夕陽と違えど『燃えている』ようで、俺の中の彼女にまた、色が増える。

 そして告げられたその言葉はあまりにも短く、力強い。それでも確かに、何かの始まるような音だった。


「――また、絵を描いてみない?」


 天野未花。彼女との出会いは、新しい季節の始まりのようだった。

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