デッカイ「蚊」。
いや、「蚊」と言うには余りにもおこがましい。小型犬ほどの大きさを持つ、進化した虫と言うべきだろうか。
鳥かご(虫かご)の中で、ジッと私を見つめているそれは、羽をバタバタと震わせながら、まるで「血よこせ血」と言わんばかりに触角を動かしている。
「……」
その巨大な口吻は、まるで針のようにとがり、人間(あるいはエルフ)の腕ほどもある。吸血したら確実に死ぬレベルの「蚊」である。
そして、この状況に一番相応しい反応ができなくて申し訳ないのだけれど、私の脳はもはや驚きも恐怖も拒絶し、ただ「はい、そうですか」という諦めの境地に達していた。
「彼はルナフォール一族が代々飼育している由緒正しい血統のロイヤルモスキートなんです。ヴァンパイアの中でも、特に高貴な血筋の者だけが所有を許される、希少な種なんですよ。貴女様のような素晴らしいエルフのお姫様にこそ、相応しい贈り物だと」
彼は照れくさそうに、そして喜んでくれるだろ?と言いたげにもじもじとしている。その姿は、美貌と相まって幼い感じを醸し出していて非常に健気で、可愛らしさに溢れていたが……。
──いやいや、可愛らしさを感じる場面か?私に巨大な蚊を贈り物として渡す男を「可愛い」と思えるほど、私の精神は既に崩壊しているのか?
狂った家族と暮らしているせいで、「蚊をプレゼントする」という行為も、「まぁ許容範囲内かな」と思えるようになってしまったのか?
(いやなにこれ!?蚊じゃん!?蚊をペットにしているの!?蚊に血統なんてあるの!?ロイヤルモスキートってなに!?てかこの蚊、一回刺されたら致命傷レベルだよね?これって実質暗殺計画じゃないの?遠回しに「あなたの血が欲しい」って言ってるってこと?それとも単純に「私たちは蚊が好き」ってだけ?一族全員趣味が悪いの?)
私の心の中では尽きないツッコミが溢れていた。もはや滝のように流れる疑問符の洪水だ。
ヴァンパイアの美意識とは、こういうものなのだろうか?「吸血」という共通点だけで、蚊をペットにする?それならヒルとかも飼ってるの?
「ブラッドリーチというヒルと、ヴェインドレイナーというコウモリ、そしてこのロイヤルモスキート……どれにするか迷ったのですが、この子にしました。貴女様の美しさに相応しい上品な口吻を持っていますので」
いやそんな可愛らしいぬいぐるみを悩んだ挙句にプレゼントしようと思っている青年のような表情を浮かべて言われても困る。
贈り物に「悩む」という概念は素晴らしいが、選択肢が全て「吸血生物」というのがそもそもの間違いだ。「どの毒蛇にするか悩みました」と言われているようなもので、どれを選んでも私の首は締まるだけである。
しかも大層な名前だな!?「ブラッドリーチ」とか「ヴェインドレイナー」とか、気合入れすぎだろ……。
つーか、私に相応しい口吻ってこれ皮肉か?皮肉だろ?
ドン引きしている私の表情は、おそらく絵画に残して後世に伝えるべきものだろう。「蚊の贈り物に直面したハイエルフの姫」という題名で、王宮の壁に飾られるに違いない。
そんな私を見上げる、つぶらな複眼のモスキート……。その巨大な複眼は、確かにある種の愛らしさを放っているかもしれない。
あ、駄目だ、目が大きいからチワワみたいに可愛がれると思い込もうとしたけど、やっぱ駄目だ。どう見ても蚊は蚊だ。
百歩譲って犬サイズの蝶々なら許せた。千歩譲ってカブトムシでも我慢できた。でもなぜ蚊なんだ。
「ほぅ……ロイヤルモスキートか。もう絶滅していたと思っていたが、まさか実際に見ることはできるとはな。なんとも立派な口吻じゃないか。これで刺されたら、下位種なら死ぬまで三秒といったところか」
「姉さま、この蚊、かなりの価値ですよ。ほら、ロイヤルモスキートの中でも気品溢れる顔をしています。これを姉さまに上納するだなんて……ヴァンパイアも今回のお見合い、本気のようですねぇ」
そして我が兄弟も、急に蚊を見て目を輝かせた。「お見合い相手の王子」はスルーするくせに、「巨大な蚊」には興味津々の彼ら。
どうやら彼らの認識基準は相当に歪んでいるようだ。知ってたけど。
「ほら、ヴァスカリス・ルナブラッド・クリムゾンティアーズ三世。エルミア姫にご挨拶して」
スピラーレ王子がそう促すと、化け物……ではなく、ロイヤルモスキートとやらはペコリとお辞儀(的な動作)をした。その動きはまるで宮廷で躾けられた貴族のようで、触角を左右に広げ、巨大な口吻を下げるという「蚊版のカーテシー」だった。
なんとこの蚊はその名に恥じず、高等教育を受けているらしい。言語を理解し、挨拶も出来るとはペットという枠組みを外れているような気がする。
まるで「王女が隠れて飼っている竜」「魔法使いに仕える黒猫」クラスの知性を持つファンタジー生物だ。
──でもそれって蚊じゃなくてもよくない?竜とか黒猫あたりでいいじゃん。
(え?今挨拶した?蚊だよな?虫だよな?言葉分かるの?ていうか名前長すぎない?"三世"って何?蚊の家系図とか王統とかあるの?親蚊に言葉を教えてもらったの?そもそも蚊って数日しか生きないんじゃなかったっけ?いや、この世界の蚊は違うのか?)
私の心は突っ込みで溢れていたが、表情にはそれを出さないよう必死に努めた。姫として、どんな状況でも優雅さを保つのが私の務め。
例えそれが「巨大蚊への対応」であったとしても……。
「おぉ……?こりゃまた珍しいなぁ……?こんな貴重な生き物、貰っちゃって悪いねぇ~……ぎゃはは!!」
そして、我が人生の汚点である酔っぱらった父が乱入してきた。どうやらこの蚊に惹かれてきたらしい。
そんなに貴重か……?この虫……。
まあ、確かに犬サイズの蚊というのは珍しいだろうが、それは「絶滅危惧種だから保護すべき」ではなく「そもそも存在すべきではない」タイプの珍しさではないのか。
「エルミア~……贈り物なんてされちゃってさぁ~これじゃキミの氷の心も溶けちゃうねぇ。運命の相手が見つかっちゃったねぇ~♡」
父セーロスは酔っぱらって言った。
……蚊に向かって。
どうやら酔っぱらいすぎて蚊と自分の娘の区別もついていないようだ。
「良かった、喜んでもらえたようで。貴女の血塗れのドレスによくお似合いです。最高級のブラッドレッドとモスキートの複眼、実に調和が取れています」
「血塗れのドレスって……あぁ、そ、そうでしたね」
そういえば私は全身血塗れだったな。ヴァンパイアの従者の返り血で……。
殺人現場の犯人のような、そして同時に被害者のような姿。なんとも形容しがたい恐ろしさだ。
もしかして、彼はこれが私のフォーマルな姿だと勘違いしているんじゃないだろうか?それはまずい、このままでは猟奇的なハイエルフの姫になってしまう。
「え……えぇ……これは、その……ヴァンパイアの御方は血が好きだとのことで、特別にこしらえましたの……。エルフの宮廷衣装なんですのよ、ええ、最新流行のスタイルでして」
「成程、私はてっきり貴女様が我が従者たちの首を捩じ切った返り血かと……あ、いやなんでもございません。エルフの宮廷衣装とは、実に粋な計らいですね。我々も是非見習いたいものです」
「?」
ま、まぁしかし……このとんでもない蚊はともかく、スピラーレ王子が話の通じる青年でよかった。
いや、まだ警戒は解いていないけど。カフォンみたいにいつ邪悪な本性を露にするかわからないけど。
少なくとも「会話が成立する」という最低限の条件はクリアしている。これだけでも、私の周囲の人物基準では上位1%に入る成果だ。
とりあえずいきなり血をすすられるとか、食料にされるとかはなさそうだ。そう簡単に私を襲わないのなら、時間の猶予はある。殺される前に逃げる策を練る余裕ができた。あるいはカフォンに「助けて」と耳打ちする時間も稼げるだろう。
なので私は気になっていることを聞いてみた。
「ところで王子……棺桶の中での光景は、一体……?」
私の質問に、彼はピクリと身体と翼を硬直させた。
そして瞳をきょろきょろさせる。、言い訳を必死に考えている表情があまりにも人間臭くて、むしろ可愛らしささえ感じる。高貴で残忍なヴァンパイアのイメージからは程遠い。
「えっと……それは、そのぉ……」
狼狽えるスピラーレ王子の姿を見て私は不審に思う。
……なんだ、この反応?さっきまで上品に振る舞っていた王子が、急に子供のように狼狽えている。
まさか、この質問がそんなにタブーだったのだろうか?それとも、肉塊の正体が恥ずかしい何かなのか?
「その……母に……」
彼がそう言った、その時である。
「折檻……あヴぁ!」
パンッと。
奇妙な呟きと共に、スピラーレ王子の全身が粉々になった。揶揄ではない。本当に粉々になった。一瞬前まで美しい青年だったものが、突如として爆発したかのように砕け散る。
割れたガラス人形のように、彼の身体は無数の破片となって四散した。
「──はい?」
血しぶきが宙を舞い、私の既に血まみれのドレスに新たな層の赤を加える。白銀の髪の断片、紅い瞳の欠片、黒装束の切れ端──それらが宴会場の床に無残にぶちまけられていく。
それは私の想像を絶する光景だった。美しい青年が突如として爆発する──そんな非現実的な出来事が、現実に起こってしまったのだ。しかも目の前で、しかも会話の最中に。
「えっ……あの……え?」
私は戦慄している。砕け散った美しい青年と、血溜まりの中にうっすらと見えるパーツたち──そこに「再生」の兆候はあるのだろうか。
いや、それ以前に「砕け散る」なんて状況自体、私の常識では理解不能だ。
そして、兄と弟がにやりと笑う。漆黒の闇が彼らの背後に広がるかのような不気味さで、酷薄な笑みを浮かべる。
「ようやく来やがったか」
「えぇ。飛んで火にいる夏の蚊……というところでしょうか」
不穏な兄弟たちの呟きが、私の耳に聞こえてくる。
それを聞き、私は思った。
──これ、お見合いだよな……?いや、少なくとも「お見合い」という名目で始まったはずだ。今や血まみれの庭園で、お相手は粉々になり、家族は意味深な笑みを浮かべている。
これがこの世界のお見合いの常識なのか?それとも私の人生だけが特別おかしいのか?
夜空には赤い月が相変わらず輝き、鳥かごの中の巨大蚊は、壊れた飼い主を眺めながら、触角を寂しげに揺らしている。
これから、なにが始まるんですかね。