棺の蓋がゆっくりと開かれていく。
先ほど見た「グチャグチャの何か」の記憶が脳裏をよぎる。再生が終わった今、あの不定形の物体は一体どんな姿になっているのだろう?
もしかして半分だけ人型で、残りは液状のままとか?上半身は人間で下半身はマグマのような何かとか?
私はそんな恐ろしい想像を膨らませながら、半ば諦めた表情で棺を見つめていた。恐怖で足が震えているのを必死に隠しながら。
恐ろしい想像を巡らせながら、私はただ呆然と棺桶を見つめていた。
セルシルの震える手が私の肩を掴み、兄の剣が一瞬輝き、弟の紅い瞳が棺を射抜き、父の酔っ払いいびきが響き──
そして──
「!?」
月の赤い光が棺の中を照らし出した瞬間、全ての想像が崩れ去った。
棺から出てきたのは、白銀の髪を赤い月光に照らす、白い肌をした青年。
肉塊じゃない……?普通に……人?
白い肌は月の光を反射して、まるで大理石の彫像のように美しく輝いている。彼の顔立ちは端正で、鼻筋は通り、口元は引き締まり、まさに芸術品のようだ。
長い睫毛が影を作る彼の目は閉じられていたが、ゆっくりと開かれると──そこには煌めく瞳が現れた。その目は月よりも鮮やかに輝き、私を捉える。
これが、スピラーレ王子。
その姿は、恐ろしい肉塊の面影など微塵もなく、幻想的なまでの美しさで私を見つめていた。
そして、彼の唇がゆっくりと開かれ──
「──え、なんで血塗れなの……?こわっ……」
「え?」
「あ、いや、なんでもございませんよ!?あ、挨拶を忘れておりましたねエルミア姫!ルナフォール公国王子、スピラーレと申します。このような素晴らしき月夜に、貴女様にお目にかかれること、私の不死なる生涯においても最大の栄誉でございます」
なんか今一瞬聞こえたような……?見た目に似つかわしくない、情けない声とセリフが。
い、いや気のせいだろう。だって彼は最強のヴァンパイア一族なんだろう。噂では血の海を飲み干し、夜の闇を食らうなどと誇張表現のオンパレードで語られる恐るべき存在だ。
もちろん、この世界の噂は「太陽は世界樹の光」とか「月は女神の涙」みたいな意味不明な表現で溢れているから、信憑性はエルフのセンスと同じくらい怪しいけど。
私の逡巡を他所に、彼は優雅に棺桶から出ると、片膝をついて深々と頭を下げた。その動きは流れるような美しさで、暗闇そのものが踊りだしたかのようだ。
「この度は、お招きくださり、誠にありがとうございます。我々ルナフォール家は、アズルウッド王国との友好を何よりも願っております。そして、その象徴となるべく、私はここに参りました」
彼の声は深く、しかし柔らかい。闇夜の絹を撫でるような、不思議な心地よさを持っていた。
先ほどの弱々しく情けない声など、どこにも存在しない。
「お目にかかれて、光栄です」
私は精一杯の笑顔を浮かべながら、そう返した。
恐らく私の表情は「今から解剖される小動物」のような恐怖と諦めが入り混じったものだろう。
でも、それでも最低限のエチケットは守らなければ。「肉塊から再生した」という衝撃的な事実を無視し、「ハイエルフの姫」として振る舞わなければ。
第一印象としては……まぁ、悪くない。いや、悪くないどころか素晴らしい。外見も美しく今のところ、王子らしい優雅に、そして礼儀正しい青年だ。
少なくとも父の理解不能な酔っ払い芸や、兄の精神的拷問にも似た妹愛情表現よりは、ずっとまともといえる。
……しかし第ゼロ印象が悪すぎた。だって、肉塊だぞ?あれがこの美しい青年になったって?どういうことだよ。
私の常識は完全に崩壊している。肉塊→美青年の方程式が私の脳内でどうしても成立しない。
「エルミア姫におかれましては、お噂はかねがね聞いておりました……。なんでも世界一美しい姫、慈悲深いエルフの至宝、世界樹の恵み、月よりも輝く氷の乙女と……実物を拝見し、噂以上の御方だと確信いたしました」
え、なにその恥ずかしい二つ名は……。誰が流したのだろうか、そんな噂を……?私は羞恥心で頬がピクピクと動くのを堪えながら、必死に笑みを浮かべる。
噂を流した奴を懲らしめたい気分でいっぱいだ。多分父か兄、それか妖精さんだろうけど。特に「世界樹の恵み」ってなに?私はフルーツか何かか?
「特にその血塗れのドレスが素敵ですね。なんというか、『慈愛』という文言とは正反対というか、噂は間違っている部分があるというか……あ、いえなんでもございません!真紅のドレスはエルミア姫の美しさを一層引き立てています!」
「?」
なにやら聞こえなかったが……どうしたんだろう、緊張しているのだろうか?
(なんか、イメージと違うなぁ)
今まで聞いていた噂では、始祖という存在は血も涙もない、悪魔のような種族と聞いていた。
死生観も何もかも違う化け物だと。
しかし、目の前の青年はそれとは違う。『化け物』という文言とは正反対というか、噂は間違っている部分があるというか……。
「こちらへどうぞ、スピラーレ殿下」
「ありがとうございます、エルフのお爺さん……」
未だって席を用意したセルシルにお礼を言っているし……。私にはどう見ても、彼が化け物とは思えない。
むしろ相手が意外と無害そうだと判断し、即座に精神を安定させているセルシルの方がある意味化け物だ。
「棺桶からグチャグチャの物体が現れる」というトラウマ級の光景を見たはずなのに、たった数分で「おや、お茶をもう少しいかがですか?」と平然とヴァンパイアにお茶を勧めている。
この老執事の精神は鋼鉄でできているのか、それとも何も感じない石ころなのか、それとも風見鶏の極致なのか。
「しかし眠くなってきたな。いつになったらルナフォールは来るんだ」
「あいつらは我々以上に時間にルーズですからねぇ。今頃着替え始めてるかもしれませんよ」
横にいる兄と、私の膝に抱えているカフォンくんのとんでもない発言が聞こえてくる。
実際の映像では美しいヴァンパイアが目の前に座っているのに、彼らの台詞はまだ誰も来ていないという平行世界の内容を語っている。
どうやらこの二人はスピラーレ王子が目の前にいるのに気付いていないらしい。いや、気付いているけどあえてスルーしている……?
「……」
見ると、スピラーレ王子は時折……というか頻繁にチラチラと兄アイガイオンと、弟カフォンを見ている。その瞳に宿るのは、恐怖か、呆れか……。
しかし気にしながらも、彼もスルーすることに決めたようだ。
「目の前に座っている凶悪犯を見なかったことにする」心理カウンセラーのように、彼は兄と弟の存在を完全無視している。この無言のスルー合戦がなんとも不気味だ。
そうして向かい合う私と、スピラーレ王子。
まさに、普通のお見合いだ。兄と弟と、そして酔っぱらいの存在がなければだが。
いや、お見合いの相手が「肉塊から人型に再生した」という事実がなければ、「真っ赤な月の光の下で」という設定がなければ、「私のドレスが血塗れ」という状況がなければ、「棺桶がテーブルにセッティングされている」という光景がなければ──要するに全てがおかしい。
「改めまして、私はエルミア・アズルウッドと申します。遠路はるばるエルフの国までお越しくださり感謝いたしますわ、スピラーレ王子。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
私の挨拶に、彼はにこりと微笑んだ。どことなく震えているような気がするがそれは気のせいだろう。
「エルミア姫、この輝かしい出会いに心から感謝申し上げます。わたくし、ルナフォール公国第三王子スピラーレは、今宵のこの瞬間を永遠に心に刻み込んでおります」
彼も優雅に挨拶を返してくれる。私のドレスを見て、背中の小さなコウモリの羽がぷるぷると震えているのが大きくなっているような気がしたが、気のせいだろう。
「怯えながらも必死に冷静を装う演技の達人」のような、彼の立ち振る舞いには、どこか虚勢を張っている雰囲気がある。
でも、それも含めて彼は「お見合い」という形式を精一杯守ろうとしている……?
「今日は壮麗なるエルミア姫に、贈り物を用意しております。是非受け取っていただければと……」
スピラーレ王子がそんなことを言った。
──贈り物?
私は唖然とした。そんな……贈り物だなんて……。
「普通のお見合い」みたいではないか!?
まりにも正常すぎて逆に怪しい。肉塊に席と名前を与えるような世界で、「贈り物」という常識的な概念があるなんて。
てっきり「私の心臓を捧げます」とか「永遠の血の契約を結びましょう」みたいな不穏なフレーズが飛び出すと思っていたのに。
「まぁ……贈り物だなんて……貴方がまともに見える……あ、いえなんでもございません。お気遣いありがとうございます」
思わず本音が漏れてしまうところだったが阻止した。偉いぞ私。自分の口から「まとも」という単語が出そうになるとは、どれだけ私の精神状態が疲弊しているか。
「普通のお見合い」という幻想に飛びつきそうになるほど、私の精神は安全な現実を求めているらしい。
「持ってきておくれ」
スピラーレ王子は手をひらりと上げ、従者たちに合図を送った。一瞬にしてヴァンパイアの従者たちが動き出す。彼らの動きは流れるような優雅さで、まるで舞踏である。
そして、一人のヴァンパイアの従者は何やら布に隠されたものを両手で捧げ持ち、私の前まで運んでくる。その布は深紅の絹のようで、月の光を受けて独特の輝きを放っている。包まれているのは、長方形の何か——本のようにも、小さな棺桶のようにも見える。
「お気に召すといいのですが……」
「王子の贈り物なら、是非拝見させていただきます。こうしてお心遣いいただけることに、深く感謝いたします」
それは私の本心だった。贈り物をされて、嫌がる女性などいない。私も例にもれず。特に「肉塊から現れた相手からの贈り物」という唯一無二の体験を、どうして拒絶できようか。
「噂に反してまともな人だった」という希望を胸に、私は贈り物の正体を見届けようと身構える。
そして、ヴァンパイアの従者が両手で持っていた物体から、ゆっくりと赤い布を取り去る。その手つきは、高級料理のメインディッシュを披露するシェフのように洗練され、緊張感に満ちている。
布が滑り落ち、その下に隠されていた物体が現れる。
そこには……。
「……はい?」
デッカイ「蚊」がいた。
私の顔より遥かにデッカイ化け物みたいな「蚊」が──。