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第30話


セーロスの低く冷たい囁きが、ドロテアとゼグロフの耳に突き刺さる。

その目には「お互い様だろう?」という皮肉な色が浮かんでいた。

エルフの方は姫が逃げ出したお見合いの場で、父親が娘の代わりに女装して場を繕う。

一方、ドワーフの方は王子が逃げ出したので父親が必死に時間稼ぎをする。


──なんたる喜劇。


聡明なセーロスは、二人の狼狽を見て、全てを察していたのだ。


「ねぇ、ドロテア王?ここは『上品に』茶番を演じ切らない?従者たちの士気のためにも……」


その声には、かつての宿敵との意外な連帯感が滲んでいる。この場にいる全員の面子を保つため、共犯になろうという提案だった。

ドロテアは深いため息をつく。髭の下から漏れる吐息には、諦めと安堵が混ざっていた。目の前の「姫君」の正体を追及すれば、自分たちの窮状も白日の下に晒される。

もし民にこの情けない醜態が知られれば──。


「……仰る通りですな、姫君」


あぁ、なんたる茶番だろうか。

ドロテアは心の中で嘆息する。


「まぁ、ドワーフの王様。お優しいお言葉、光栄ですわ」


セーロスは扇子で口元を隠しながら、上品に微笑む。

その仕草があまりにも完璧すぎて、逆に不気味さが漂っていた。


「この度は、カイナブル王子との縁談、大変楽しみにしておりましたの」

「そうでしたか。王子も姫君との謁見を、心待ちにしておりました」


まるで舞台劇のような会話。従者たちは固唾を飲んで見守っていた。


「茶器はメルマルティア・コレクションを……」

「お菓子は最高級の季節のものを……」


従者たちが小声で指示を飛ばし合う中、二人の王は互いに向き合って着席する。

セーロスは上品に裾を整え、ドロテアは威厳ある姿勢で背筋を伸ばす。

銀の茶器がテーブルに並べられ、繊細な模様の施された茶葉入れが運ばれてくる。芳醇な香りが広間に漂い始める。

まるで平和な茶会のような光景。だが、従者の一人が茶器を微かに震える手つきでテーブルに置く様子に、この場の緊張が滲み出ていた。


「こちら、失われた茶園から採れた茶葉をふんだんに使いました紅茶で……」


『失われた茶園』という言葉を聞いた、その時だった。


目の前で紅茶を入れる従者の手元を眺めながら、セーロスの脳裏に、過去の光景が蘇ってきた。

失われた茶園……あの時の……。


「……」


それははるか彼方の戦争中の記憶……。

あの日、千年の歴史を誇る茶園は灰燼に帰した。丹精込めて育てた茶樹は炎に包まれ、代々受け継がれてきた茶葉は煙となって消えた。ドワーフの魔導鎧から放たれる業火の中、セーロスは怒りを噛み締めるしかなかった。

そして今、あの時の部隊を率いていた張本人が、目の前で上品な紳士を演じている。

胸の奥で昔の恨みが沸々と湧き上がる。完璧な淑女を演じる仮面の下で、戦士としての血が騒ぎ始めた。


「──ああ、そういえば……この茶葉は……」


セーロスは扇子で口元を隠しながら、不意に何かを思い出したかのように語り始めた。

妙に艶のある声で……。


「数百年前、あの『野蛮で頭の悪い』種族の魔導鎧部隊に焼き尽くされた茶園を、ようやく復興させた畑のものですわ。まぁ、文化も教養もない蛮族には、この茶葉の価値は分からないでしょうけれど」


ドロテアの眉が危うく跳ね上がりそうになる。髭の下の笑顔が一瞬凍りついた。


──同時に彼の脳裏に血生臭い記憶が蘇る。

あの茶園は、確かに美しかった。だが、その美しさの下に潜む残虐さを、エルフどもは都合よく忘れているようだ。

茶樹の影から放たれる矢に、何人の部下が倒れた?優雅な匂いの周辺に仕掛けられた罠に、どれほどの戦士が命を落とした?

茶園の中を進む度に、一人、また一人と仲間が倒れていく。エルフたちは茶樹の陰に身を潜め、ドワーフたちを嘲笑うように次々と仕留めていった。そして今、その虐殺を主導した将軍が、上品な淑女を演じている。


そして、茶番を演じようと持ち掛けておきながら、こともあろうに自分から喧嘩を売ってきやがる。怒りが込み上げる。


──そもそも、茶園を戦場にしたのは、テメェらの方だろうが。


「はは……それはそれは。実に残念な話ですな」


ドロテアは苦々しい表情を笑顔で覆い隠しながら応じる。


「茶葉など大事にしていられない時代でしたからな。生憎、私どもは『高貴な』種族のように、悠長に茶を嗜む暇などありませんでしたので……戦場では何もかも焼き尽くす。それが戦なのですよ、『お姫様』」


セーロスの扇子が僅かに震える。ドロテアの髭も微かに痙攣した。


「嫌になっちゃうわ。森や木を焼く蛮族って」


セーロスは妙に慣れた動作で、扇子を煽ぎながら言う。


「──あぁいえ、『特定の種族』のことを言っているわけではないですのよ?ただ、その『特定の種族』を率いていた『クソジジィ』が大嫌いなだけで。あの髭面の筋肉バカが指揮した魔導鎧部隊のせいで、私の愛する領地が灰になりましたから」

「はは、そうですか」


ドロテアは髭を撫でながら、冷ややかに笑う。


「実は私も『特定の種族』を嫌っている訳ではないのだ。城壁を拳一つで崩すような凶悪な輩が大嫌いなだけで。おや、その時の将軍は確か……『クソ生意気なガキ』でしたかな?」


従者たちは既に床に張り付いていた。会話の節々に漏れ出る殺気に、広間の気温が徐々に下がっていく。

穏やかな笑顔の下で、二人は確実に本性を出し始めていた。

二人の視線が火花を散らす。テーブルの上の茶器が、漏れ出る殺気で微かに震え始める……。


「ところでドロテア殿、その岩みたいな脳みそは相変わらず進化出してないのかなぁ?」

「ところでセーロス王よ、随分と扇子が似合いそうな細い腕に退化したな。まるで働いていない、怠け者の腕だ」


従者たちは壁に張り付くようにして恐怖を堪えていた。否、堪えるどころか、既に魂が半分抜け出している者も。

ゼグロフに至っては、上品に気絶していた。

それも当然だ。目の前で繰り広げられているのは、ハイエルフとグランドワーフという超越種同士の口喧嘩なのだから。

その威圧感は、哀れな下位種の精神など容易に破壊しかねない。


「そういやさぁ……」


セーロスの声が不敵な笑みを帯びる。


「ドワーフの誇り高き王様。貴族の鑑たるお子様は一体どちらへ?まさかとは思うけど……『立派な』王子様に、お見合い直前に逃げられたのかい……?」


その皮肉に満ちた言葉に、ドロテアの髭が怒りで震える。

ドロテアも負けじと毒を含んだ微笑みを浮かべる。


「それは高貴なエルフの王様にも聞きたいところですなぁ。何故、父上が女装してお見合いの場に来てるのかな……?もしかして、そのような趣味をお持ちだったのか?」


テーブルの縁が、二人の握力で悲鳴を上げてガタガタと揺れている。

従者の一人が思わず「そのテーブル……5000年前から伝わる骨董品なんですが……」と呟きかけたが、二人の視線に射抜かれ、即座に気絶した。


「そういえばあの戦争の時も、鎧の下からレースのフリルが覗いてたような……」


ドロテアは髭を撫でながら、しみじみと懐かしむような声音で言う。


「敵の将軍が女装趣味とは知らずに戦ってたとは。あぁ、もし知っていれば、もっと可愛らしい魔導砲を用意したのに。配慮が足りず申し訳なかったのぅ」


その言葉にセーロスの額に青筋が浮かんだ。

今度はセーロスが、甘ったるい声を装いながら致命傷を放つ。


「そう言えばドロテア『坊や』、近頃バルドリーナママはお元気かな?まだ毎晩一緒に寝てるって噂、本当なのかい?分厚い髭の下で、今でもママのおっぱいチュパチュパしてるんだってねぇ。さすが親孝行な『いい子』は違うなぁ。いくつになっても可愛い可愛い『ママの赤ちゃん』なんだからなぁ」


その言葉を聞いたドロテアの全身から、まるで火山のような怒りが噴出する。髭が炎のように揺れ動く。


「ほぉ、母上に会いたいのか?」


ドロテアは低く唸るような声で返す。瞳の奥に危険な光が宿る。


「覚えているかね?我が母、バルドリーナ太后が戦場に姿を現した時のことを。あの時の貴様と言ったら……」


にやりと不敵な笑みを浮かべる。


「母上の小さな姿を目にした途端、尻尾を巻いて逃げ出しておったなぁ?『お兄ちゃん助けてぇ!』って可愛らしい悲鳴を上げながらな。そんな情けない貴様に、今更母上をお目にかけるのは酷というものよ」


茶会の体裁は完全に崩壊。もはや「自称エルミア姫」も「王子の父」も消え失せ、そこにいたのは数百年前の宿敵同士。


「……」

「……」


二人の間に重たい沈黙が落ちる。

──そして、ついに。


「……いい加減にしろよ、セーロスゥ!!」

「こっちの台詞だぁ!ドロテアァ!!」


二人は取っ組み合いの喧嘩を始めた──いや、それは一般的な意味での「喧嘩」とは程遠い。

ハイエルフの王の一撃が空気を切り裂く。グランドワーフの王の突進が床を揺るがす。豪華な広間に超越種同士の凄まじい力が解き放たれる。

テーブルは木片となって舞い、椅子は粉々に砕け散る。

壁際で震える従者たちの目の前で、伝説の戦士たちの再戦が始まろうとしていた。茶番のはずが、まさかの第二次エルフ・ドワーフ大戦の幕開けである。


「女装してる変態が!!」

「マザコンクソジジィ!!」

「スカートの下は何履いてんだ!?もしかして下着も女装してんのか!?」

「ママに会えないからって不機嫌になってんじゃねぇよ!」


ハイエルフとグランドワーフ、二つの超越種の王による言い争いは、まるで路地裏の喧嘩のような下品さだった。


だが。


凄まじい力で、広間の調度品を次々と粉砕していく。「変態」の一言で花瓶が砕け、「マザコン」の一言で柱にヒビが入る。

幼稚な言葉の応酬の背後で、二人の王から放たれる超越的な威圧が、この空間を戦場へと変えていく。


「あ、あわわ……どうすれば……!」


気絶から復活したゼグロフが、髪をかきむしりながら右往左往する。エルフの従者たちも、この前代未聞の事態に目を白黒させるばかり。

広間の中央では、二人の王が床を転がり合っていた。薄紫のドレスと立派な髭が絡み合い、まさに地面を這いずり回る有様。


──やはり、エルフとドワーフは相いれない存在なのか……!


その諦めにも似た思いが従者たちの脳裏を過ぎった、その瞬間。


パキッ。


突如、異様な音が空間に響き渡る。まるで硝子が割れるような...否、現実そのものが砕けるような音。


パキパキパキ……。


音は徐々に大きくなり、ついには目に見える亀裂となって広間の空気を引き裂いていく。

セーロスとドロテアの取っ組み合いも止まり、全員が息を呑んでその光景を見つめる。


そして──


「ぐえっ!」

「うぐぅ……」


亀裂から二つの人影が吐き出される。まるでスイカの種を飛ばすように。

埃にまみれた華やかなドレス、乱れた礼服。それは紛れもなく、エルミア姫とカイナブル王子の姿だった。


そして、エルミアは……目の前で繰り広げられる信じ難い光景を目にし……。


「──へ、変態……」

「「誤解だぁぁぁっ!」」


二つの国の最高権力者による悲痛な叫びが、華麗な広間の天井を揺るがした。

こうして、この前代未聞の茶番劇は今に至る──。



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