鉛色の雲が垂れ込める空の下、古の魔法が染み付いた大地に彼はただ佇んでいた。
風に揺れる純白の長髪、金糸で紡がれた紋様が煌めく深緋色の外套──魔法の理を極めし最上位種、ハイエルフの狂王。
その存在だけで、周囲の空気が凍り付くかのようだった。
「兄上」
凛とした声が、淀んだ空気を切り裂く。
月光を映したような銀の鎧に身を包み、金色の髪を背に流した一人のエルフが片膝をつく。
「首尾はどうであるか」
幾万もの歳月を経てなお、澄んだ碧眼と優美な面差しを留める王は、静かな声で問うた。
荒れ果てた戦場に、微かな風が吹き抜ける。弟は更に深く頭を垂れ、厳かな口調で報告を始めた。
「御心配なく。ドワーフどもの軍勢は全て葬り去りました。残すは奴らの地下都市のみ。この勝利を以て、この地域で我々に抗う者は、もはや存在しません」
その声には、戦果への誇りと、兄への忠誠が滲んでいた。
王は薄く唇を歪め、氷のような笑みを浮かべた。
「崩落させよ。全ての地下都市を」
蜜のように甘い声で告げる。
「支柱を壊し、天井を落とせ。逃げ場など与えるな。地下街に潜む全てのドワーフを──最後の一匹まで、圧死させるのだ」
「そうして、残された全ての愚かなモグラを──ああ、最後の赤子に至るまで、皆殺しにするのだ」
弟は僅かに眉を寄せ、慎重に言葉を選ぶ。
「兄上。残されし者たちは、戦う意思すら失った弱者ばかり。女は泣き叫び、子供は震えているだけです」
「──ほう?」
王は優美に首を傾げ、愉悦に満ちた微笑みを深める。
「それは素晴らしい。無力な者たちが泣き叫ぶ声は余の耳には天上の調べに聞こえる。それこそが最高の舞台芸術だ」
「……生かしておけば、奴隷として使えましょう。地下迷宮の整備に、鉱脈の発掘に──」
「いいや」
王は憐れむように弟を見下ろした。
「聞け、愚かな弟よ。幼子は成長する。そして必ず、我らに牙を剥く。母は新たな戦士を産み、老人は復讐を説く」
「しかし」
王は弟の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「奴らの断末魔は、余の数万年に及ぶ交響曲の、最後の楽章なのだよ。幼子の悲鳴、母の慟哭、老人の祈り。全てが混ざり合う、この世で最も美しい音楽になる」
「兄上」
弟の声が僅かに震える。
「それは、あまりに」
「余の言葉が聞こえぬのか?」
王の声が一瞬だけ鋭利な刃のように冷たくなる。
「余はな……奴らの断末魔が聞きたくてならぬのだ。弱き者共の悲鳴は、最高の祝祭となろう。全ての命が消えゆく瞬間まで、存分に愉しもうではないか」
弟は一瞬、拳を握り締めたが、すぐに力を抜いた。そして深々と頭を垂れる。
その仕草を見逃さず、王はより優雅に微笑む。
「仰せの通りに」
「そうだ、それでいい」
王は柔らかく微笑み、弟の肩に優しく手を置く。その仕草は慈愛に満ちているように見えた。
「慈悲というものこそ、最も残酷な毒なのだよ。生かしておけば希望を持ち、その希望が裏切られる度に苦しむ」
王の声は耳元で囁くように優美だった。
「今ここで、全てを終わらせてやることこそが、真の慈悲というものだ。永遠の安らぎをくれてやろうではないか」
血に染まった大地が二人を照らし、王の瞳は妖しく輝いていた。その美しい微笑みの奥に潜む狂気を、弟は見逃さなかった。
その背後では、既に魔法陣が瞬き始めていた。
やがて地下から、最初の悲鳴が響き始める。それは確かに、残虐な祝祭の序曲だった。
♢ ♢ ♢
「おい!王子はどこだ!?」
ドワーフの若い兵士が、汗を垂らしながら森の中を駆け回っている。
彼らの重厚な鎧は、まるで森に迷い込んだ鉄の怪物のようで繊細な下草を踏みつぶし、枝をなぎ倒しながら進む様は、明らかに場違いだった。
この優雅な森で、彼らは完全な異物。それは森も理解していたかのように……。
「このあたりに人の気配が……うわっ!」
足を踏み入れた地面が突如として沼のように柔らかくなり、兵士は膝まで沈む。
見事な鎧も、今や泥まみれだ。
「た、助けてくれぇ!こんな所で立ち往生なんて……」
「おい!そっちはダメだ!蔦が……うわぁっ!」
助けに行こうとした兵士も、突如として目の前の木から伸びた蔓に捕まり、まるでモビールのように宙吊りになる。
その姿は肉屋に吊るされた哀れな豚のようで鎧が軋む音が森中に響いた。
「くそっ!千年の歴史を誇る自慢の鎧が、この程度の蔦に……!」
「お前の鎧、錆びてるだけだろ」
「うるせぇ!」
ドワーフたちの悲痛な叫びが森に響く中、木々はより一層優雅にざわめいていた。まるで、不作法な客人たちに、上品な"お仕置き"をしているかのように。
その様子は、まるで優雅な貴婦人が、無作法な来客を追い払うかのようだった。エルフの森は、その方法すら美しく決めているのかもしれない。
「うわっ!?」
今度は別の兵士が、突如現れた巨大なキノコにつまずいて豪快に転倒。千年の歴史を誇る鎧とやらが、まるでブリキの缶のように地面を転がる。
「くそ……なんだこのキノ……コ……」
その瞬間、キノコは不気味な紫色の胞子を撒き散らした。つまずかれたことに抗議するかのように。
「ぐはっ!俺の髭が!俺の自慢の髭が……!」
兵士の顔から血の気が引く。いや、正確には紫色に染まる。
彼の誇り高き髭は、まるでお祭りの飾り物のような派手な色に変化していた。
「おい、その胞子吸うな!」
「遅いわ!もう吸っちまった!」
彼は目を回すように周囲を見回す。
「あれ?なんか景色がカラフルに見えてき……お?お!空に虹色のユニコーンが……」
若いドワーフたちは、まるで初めての酒場で酔っ払った新兵のように、森の中をふらふらと彷徨う。
彼らの誇り高き軍事訓練も、剣術の腕前も、この気まぐれな森では全く役に立たない。
「うわ、木が踊ってる……」
「俺の髭が歌い出した……」
「うわぁ!蝶が光の剣で戦ってる!」
森は、まるで彼らの姿を見て楽しんでいるかのように、そよ風を送る。エルフの森は、侵入者に対して実に優雅な報復を用意していたようだ
疲れ果てた兵士たちは、まるで溶けたチーズのように地面に崩れ落ちる。
その周りで、森はクスクスと笑っているように見えた。木々のざわめきが、まるで上品な嘲笑に聞こえる。
「……」
そして、その様子を木の陰から見つめる小さな影──。
「う~ん、これはなんとも」
カフォン。エルフの国の王子であり、魔法使いでもある少年。
彼は可愛らしい容姿を不満げに歪め、呆れたような口調で呟く。その表情には、昆虫を観察する博物学者のような冷淡さが浮かんでいた。
「一応は軍隊として訓練しているであろうドワーフが、こんな子供だましの森の罠に翻弄されるとは……」
彼の瞳には軽蔑の色が浮かんでいた。
その目はかつての大戦で血に飢えていたエルフたちを思わせる冷たさを湛えている。
「やっぱり平和な時代で甘やかされて育ったから、こんな事になるんですかね」
そう言いつつ、カフォンはちらりと一人のドワーフの兵士に目を移す。
そこには一匹の妖精と語り合う、若いドワーフの姿が……。
「それでさ……俺、この歳になるまで恋人とか出来たことなくて……」
若いドワーフの兵士が、呟いた。
巨大なキノコに腰掛け、髪についた紫色の胞子を落としながら、彼は妖精たちに愚痴をこぼしていた。
「へぇ〜」
妖精が、まるで珍しい虫でも見つけたかのように彼を観察する。
小首を傾げ、その表情は好奇心に満ちている。
「そりゃそうでしょ。ていうかもっと清潔感出した方がよくない?寝ぐせついてるしさぁ、その無精ひげみたいなのも女の子にモテないよ」
「なんつーか、全体的に挙動不審すぎない?まさか私達に緊張してんの?ウケるんだけど!」
妖精たちは遠慮なく、次々と辛辣な言葉を投げかける。
そのどれもが的を射ており、彼は反論することもできずにただ俯くしかなかった。
「それと、その話し方。もしかして女の子と話したのこれが初めて?」
「声が震えてるし、目が泳いでる〜。きゃはは」
「恋人どころか、友達いるの?石ころは除外してね」
容赦のない妖精たちの言葉の矢が、次々と青年の心を射抜く。
ドワーフの青年は、まるで鎧が重くなったかのように身体を震わせて、呟いた。
「お前ら、容赦ねぇな……」
彼の慟哭を聞いた妖精たちは、まるでお祭りでも始まったかのようにきゃははと笑いながら、飛び回る。
その姿は、可愛らしい妖精というよりは、獲物を弄ぶ小悪魔のようだった。
「悲しいけどさぁ、現実見なきゃ」
「でも私たち、優しい方だから、こうして話してあげてるんだよね~」
「そうそう、エルフ相手なら即座に追い返されてるわ。いや、汚すぎて吐くかも」
青年は深いため息をつく。その表情には絶望と、自己嫌悪が混ざっていた。
彼の声は震え、目には涙が光る。地底の水晶のように輝く涙が地面に染み込んで消えた。
「もう分かったよ……俺は一生モテないんだ……うっうっ……」
「あら、自覚あるじゃない。これが成長ってやつね」
「石ころとの結婚式、呼んでね!」
その様子を木の陰から見つめていたカフォンは、あまりにもくだらないやり取りに呆れ果てていた。
こいつら、何しに来たんだ?と思う一方でこれが平和な光景か……とも感じていた。
……幻覚を見てフラフラと踊ったり、妖精たちに罵倒されて泣いているドワーフたちの光景を平和と呼称するのも違和感があるが。
「まぁいいや。問題は……」
カフォンは興味を無くしたように、ドワーフたちから目を外す。
元々彼の目的は間抜けなドワーフの兵士たちではない。
カフォンの目が、少年の瞳から冷酷な魔法使いのものに変わる。そして彼は言った。
「出てきなさいリヴィアスピーナ。いるのは、分かっていんですよ」
その時、森が不気味に揺れた。
その言葉を合図にしたかのように、木々の影からザッと複数の存在が姿を現した。
「……」
それは上位種、グレイスフェアリーの群れ。
下位種の妖精たちが無邪気で愛らしいのとは対照的に、彼女たちの目には明確な知性と殺意が宿っていた。
小さな身体から悍ましい魔力が漏れ、周囲の空気を汚染するかのように放たれている。
「間抜けなドワーフさんたちに何か用ですか?そんなに怖い顔をして」
グレイスフェアリーたちは顔を歪ませる。その表情は、美しさの中に深い憎悪を宿していた。
「「貴方も分かっているでしょう」」
彼女たちの声が重なり合う。
「「あいつらはこの国にいちゃいけないんだ」」
その声には、数百年の憎しみが込められていた。その怒りの矛先は、カフォンではなくドワーフたち。
その時、すっと一匹のグレイスフェアリーが姿を現した。小さな体に似合わない、禍々しい魔力を纏って。
「エルミア姫を薄汚いドワーフに会わせるなんて、正気なのか」
その声には、凍てつくような憎悪が込められていた。リヴィアスピーナは、まるで氷の彫像のように冷たく佇む。
「エルフとドワーフは会っちゃいけないんだ。数百年前の惨劇がまた起こるんだ。だから、私たちはあいつらを殺さなきゃならない」
「はぁ」
カフォンは、まるで退屈な講義を聞かされているかのように溜め息をつく。
子供とは思えぬ大人びたその表情は、もはや悪辣な魔法使いのものだった。
「まだ数百年前の出来事を引きずっているんですか?流石、老いを知らない妖精は執念深いですね」
「なっ……!」
「おばあちゃんたちにとっては昨日の出来事かもしれませんが」
彼は意地悪く微笑んだ。
「世界は変わるものなんですよ?長い年月で少しも知恵が付かなかったとは、上位種と言えども所詮は妖精ですか」
「貴様……!」
「おぉ、怖い怖い」
カフォンは芝居がかった身振りで震える仕草をする。しかしその表情は嘲るような笑みに満ちている。
「何が怖いって、博物館の展示物みたいな老婆が、その朽ち果てた魔力で僕に挑もうとする滑稽さが怖いですよ」
カフォンはゆっくりと両手を広げ、倒れているドワーフたちを守るようにして立ちはだかる。
その姿は、まるで慈悲深い天使のようでありながら、その目は悪魔のように冷たかった。
「どうしてもドワーフを殺したいのなら」
その瞬間。
カフォンの身体から凄まじい魔力の暴風が吹き荒れた。
それは、まるで世界樹の怒りそのものが具現化したかのような威圧感。青白い光が闇を切り裂き、グレイスフェアリーたちを飲み込んでいく。
「その前に余を殺してみせろ。出来るものならな──」
その言葉が、闇に消えていった──。