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第26話

エルフの国、アズルウッドの王城の前。眩いばかりの陽光を受けて輝く白銀の城壁の下で、ドワーフたちが不審な集団を形成していた。

彼らは空っぽの馬車を取り囲み、まるで怪しげな取引でもするかのように身を寄せ合い、ヒソヒソと相談している。


「で、どうすりゃいいんでしょうかね」


若い兵士が、首を傾げる。彼の鎧がきしむ音が、この緊張した空気をさらに重くした。

……が、呑気な声がそれを軽くする。


「お見合いの主役が逃亡とか、初めてじゃないですか?せめて事前に『逃げますよ』って言って欲しかったです」

「黙れ」


ドワーフ王ドロテアは、こめかみの血管を激しく脈打たせながら低い声で言った。


「こんな状況で『初めて』なんて言葉を使うな。最後にしたいところだ。というか、絶対に最後にしなければならない」


ドロテアの髭が怒りで震える様子に、周囲のドワーフたちは思わず一歩後ずさった。

老齢とは言え、大戦を生き延びた最強の戦士が、これほどの怒りを露わにするのは珍しい。しかし若い兵士はそれにも構わず、マイペースに肩をすくめた。

ゼグロフは猿轡の跡を撫でながら、諦めたように言う。


「陛下、正直に『逃げました』と言うのは……」

「そんなことを言ったら、エルフとの関係が氷河期に逆戻りするぞ!いや、氷河期どころか、地底までカチカチに凍りつくわ!」


その時、エルフの騎士たちが一糸乱れぬ足取りで近づいてくるのが見えた。

彼らの銀の甲冑は陽光を反射して、その姿は優雅というよりむしろ眩しすぎて目が痛い。


「あいつら、なんで鎧にワックスかけてんだ?」

「さぁ。多分綺麗にすると防御力が上がると思ってるんだろ」

「うちらの鉱山用のスコップだって、ピカピカに磨いてないのにな」


ドワーフたちのヒソヒソ話に、ドロテアは内心で深いため息をつく。

こいつら、まさか声が聞こえてないとでも思ってるのか。エルフの耳は葉っぱより敏感なんだぞ。


「どうなされましたか、ドロテア陛下?」


エルフの騎士団長が、まるでバレエを踊るかのような優美な動きで一礭する。

その仕草は、風に揺れる柳のように流麗で、見ているドワーフたちの腰が悲鳴を上げた。


「王子様は、まだ馬車の中でしょうか?」


ドロテアは慌てて咳払いをし、がっしりとした体躯を威厳ある姿勢に正す。

どっしりとした岩のような彼の佇まいは、エルフの優美さとは対照的だった。彼は髭を落ち着かせるように撫でながら答える。


「う……うむ。その……儀式の最中でな」

「……儀式、ですか?」

「我が国では、重要な出会いの前には必ず瞑想をする習わしでな。王子は今、馬車の中で深い精神統一に入っているのだ」


エルフの騎士たちは、まるで一糸乱れぬ合唱隊のように、完璧な角度で首を傾けた。

その美麗さの中に困惑と感心が入り混じっているような……。

その時、一人の若いドワーフが言った。


「カイナブル王子は瞑想中というか、迷走中というか……」


その瞬間、ドロテアの特注鋼鉄製の靴が、兵士の足を"優しく"踏みつける。その圧力は、小さな鉱脈を形成できるほどの強さだった。


「ぐっ!」


絶妙な角度で踏まれた兵士は、悲鳴を呑み込むのが精一杯だった。

周囲のドワーフたちは、思わず顔を背けた。彼らの表情には「明日は我が身」という恐怖が浮かんでいる。


「なるほど。では、お時間はどれくらい……」

「瞑想の時間は王子の心が決めることだ。我々に口出しは許されん!」


ドロテアの声が響き渡る。その大声に、近くの小鳥たちが驚いて飛び立った。

エルフの騎士団長の整った眉が、僅かに寄る。その表情には、上品な困惑が浮かんでいた。


「で、ですが……」

「ところで!」


ドロテアは両手を大きく広げた。その動作は、大げさすぎて、彼の額には小さな汗が浮かび、髭が微かに震えている。


「エルフの皆様方にお聞きしたい。貴方方の美的センスの素晴らしさについて!」


彼は声を張り上げる。


「例えば、この眩く輝く王城!ワシの粗暴な目が痛くなるほどの純白さですが、きっと芸術的な意図があるのでしょうなぁ!まさか単に見栄を張っているわけじゃあないだろうが……」


その声には、明らかな焦りと強引さが混ざっている。言葉の端々には皮肉が滲んでいたが, エルフたちには通じていないようだ。

若いドワーフ兵士たちが思わず顔を引き攣らせた。その仕草は、まるで「ここまで露骨に話題を逸らすか」と言っているようだった。

しかし、エルフたちの目が突如として輝きを増す。

彼らの表情には、「野蛮な種族が、ついに芸術の素晴らしさに目覚めたのか」という感動と、「これほど素晴らしい建築美を理解できるとは」という驚きが浮かんでいた。


「流石はドワーフの英雄王……我々の美的センスの素晴らしさを理解なさるとは」


エルフの一人が、感嘆の声を漏らす。


「我々の建築は、自然界の美しさに着想を得たものです。例えばこの王城も、太陽から降り注ぐ光の反射が……」


ドロテアとしては全く興味がなかったが、表面上は興味ありげにうんうんと話を聞いている。


……しかし。


そこから始まったエルフの芸術論は、まるで終わりなき地底の迷宮のように延々と続く。ドロテアとドワーフたちの意識は、採掘されていく鉱石のように、少しずつ削られていく。


(なんでこいつら、建物一個にこんなに物語があるんだ……)

(ただの石の積み上げを、よくもまぁこんなに美化できるな)

(ああ、もう髭が痛い。笑顔作るの辛い。こんな笑顔、鉱山の奥底で化石になってたほうがマシだ)


「そして、この柱の曲線美は月光の軌跡を表現しておりぃ……」



エルフたちの声が、まるで永遠に続く水の滴りのように響き続ける。

ドロテアの目は物理的には開いているが、その精神は既に深い鉱脈の中をさまよっていた。彼の立派な髭が、まるで眠気と戦うかのようにピクピクと痙攣する。


「さらに、この装飾の一つ一つには深い意味が込められており……なんとかの女神の祝福が授けられたような気がしたという噂話から創られた……」

(ああ、もうダメだ。意識が遠のいていく……これが噂の"エルフの芸術拷問"か……)



「ドロテア陛下?」


突然の呼びかけに、彼の魂が慌てて体に戻る。


「そうだ、王子様が瞑想中、王城を拝見なされますか?」

「おお!」


ドロテアは、まるで重い鉱石を持ち上げるかのような努力で満面の笑みを作り上げる。

話を聞くだけよりかは、見て歩いた方がまだ幾分かマシだからだ。

……そうだと思いたかった。


「是非とも!」


ドロテアは髭を震わせながら、無理やり作った笑顔で答えた。


「エルフの芸術は、見れば見るほど目が痛く……いや、心が洗われる思いだ」


彼は一瞬言葉を切り、まるで次の台詞を必死に考えるように髭をひねる。


「このような眩い芸術は、地底のミミズ魔獣を観察するくらい面白い!実に!うん、芸術的……!この美しさに打ちのめされて、目が痛いほどだ!」

(痛いのは本当だ。こんなに光り輝く建物、どうやって住んでるのだ?)


エルフたちは、その言葉を最大級の賛辞として受け取ったようで、まるで孔雀のように誇らしげに胸を膨らませる。


エルフたちが優雅に前を歩き始めたその瞬間、ドロテアは背後の兵士たちに向かって、小声で命令する。


「ワシがエルフ共を引き付けている間、お前らはさっさと王子を探せ。近くに森があっただろう、草むらにでも隠れているに違いない」


その言葉を聞いた兵士たちの目が、輝いた。


「おぉ、エルフの芸術拷問を引き受けてくださるとは流石は陛下だ!」


若い兵士が感動したような声で呟く。その表情には、地獄から解放されたような安堵の色が浮かんでいた。

兵士たちは、今までの雰囲気とは一変して訓練された軍隊のように……いや、本当に軍隊なのだが……とにかく整然と一斉にその場を離れ始める。

彼らの足取りは不自然なほど軽やかで、明らかに嬉々としていた。


「では陛下、私も王子の捜索に……」


ゼグロフも、猿轡の痕を撫でながらこっそりと後ずさりを始める。


「ゼグロフ」


しかし、ドロテアの低い声が、彼の背筋を凍らせた。


「お前は駄目だ」

「え?」


ドロテアの大きな手が、ゼグロフの首根っこを鷲掴みにする。その力加減は、柔らかい鉱石を扱うような優しさ……には程遠い。


「カイナブルを取り逃がした責任を、しっかり取ってもらおうではないか」

「へ、陛下!慈悲を!」


ゼグロフの悲痛な声も虚しく、彼はドロテアと共に、エルフたちの芸術講座という名の拷問へと連行されていくのだった。


「では、この壁画に描かれた一万年の歴史について説明させていただきましょう」


エルフの声は、まるで終わりなき滝のように延々と流れ続ける。

その横でゼグロフの魂が、まるで蝶が蛹から抜け出すように、少しずつ体から離れていくのが見えた気がした。

ドロテアは厳かな表情を保ちながら、心の中で絶叫していた。

彼の長い人生の中で、これほどまでに退屈な時間を過ごしたことはない。鉱山の岩盤を一日中見つめていた方が、まだマシだった。


「そして、この壁画の左上に描かれた一枚の葉には、我々の祖先が込めた深い想いが……」


エルフの解説は、一枚の葉っぱにすら壮大な物語を見出していく。ドロテアの髭が、明らかな苦痛で痙攣を始める。


(カイナブル、貴様を見つけたら本気で地底まで埋めてやる!いや、その前に一万年分の説教を聞かせてやる。このエルフどもの話より退屈な説教をな!)


ドロテアの内なる怒りは、まるで地底のマグマのように滾っていた。




♢   ♢   ♢




一方その頃。エルフの王セーロスは、迷宮に迷い込んだ旅人のように、落ち着かない足取りでぐるぐると部屋を歩き回っていた。


「どうしよう、どうしよう!」


彼の見た目は麗しい青年だが、その実悠久の時を生きてきたハイエルフだ。

しかし、今の焦りようはまるで初恋に悩む若者のそれで、優美な容姿とは裏腹に、顔には深い困惑の色が浮かんでいる。


「陛下!どうか落ち着いてください!床が擦り切れてしまいます!」

「床なんかどうでもいい!ていうかこの壁に空いた大穴見てそんな反応する?」


セーロスは髪をかき乱す。その仕草は、まるで風に揺れる柳のよう……になるはずが、ただの取り乱した父親そのものだ。


「問題は姫が……エルミアが……!」


セーロスの声が震える。

──逃げてしまった。それもお見合い直前に。

彼の優美な顔に、まるで世界の終わりを見たかのような表情が浮かぶ。

こんなことを見合い相手であるドワーフたちに知られてしまったら、一体どうなるのだろうか。セーロスの脳裏に、まるで古の呪いのように恐ろしい想像が過る。

大戦で互いに互いを殺し尽くしたあの悪夢のような光景が……。血で染まった世界樹。怒号を上げて突進するドワーフたち。そして、美しい森が灰燼に帰す様が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


「ふーっ……!ふーっ……!」


セーロスは過呼吸気味になり、まるでフイゴのような息遣いを始める。


「陛下、お気を確かに!」

「うっうっ……どうしてこんなことに……」


大穴からの風が吹き、小鳥がセーロスの頭の上にとまった。

その小鳥は、まるで慰めるように彼の髪を啄む。セーロスの目には、それが自分を嘲笑う悪魔の嘴に見えた。


「──こんな時によォ……なに俺様の髪の毛食ってやがるんだぁ、このクソ鳥ぃ……」


突如、濃厚な殺気が漏れ出した。それは悍ましい殺意の塊で、魔法使いの圧に勝るとも劣らない。

セーロスの周りの空気が凍りつき、花瓶に生けられた花が一瞬で萎れる。

部屋の温度が急激に下がり、従者たちは恐怖で膝が震え始める。彼らの記憶の奥底に、かつての大戦で見た光景が蘇る。


「へ、陛下!」


老齢の従者が震える声で叫ぶ。


「お、『お上品な』口調が崩れておりますぞ!」

「そうです!」


若い従者も必死に続く。


「こ、これではまるで千年前の『血の饗宴』の時のような……!」

「むっ……」


セーロスは我に返ったように目を瞬かせる。周囲の殺気が、まるで嵐が過ぎ去るように消えていった。


「おっと、いけないいけない。つい昔の、その、『お下品』な口調が出ちゃったね」


彼は髪を優雅に掻き上げる。

従者たちはホッと胸を撫で下ろす。一瞬で萎れた花が、不思議なことに元の姿に戻っていた。


「……でも、どうすればいいんだろう」


セーロスは再び悩ましげな表情を浮かべる。

そんな彼を助けようと、家臣が恐る恐るアイディアを口に出した。


「姫様はお化粧が長引いているとか……」

「エルフの化粧に3時間もかかるとは、さすがにドワーフも疑うのでは……」

「では、急な体調不良は?」

「ハイエルフの御方たちは風邪なんて引きませんし……」


従者たちが次々とアイデアを出すが、どれも決定打には至らない。

その時、部屋の隅で掃除をしていた若い従者が、まるで天啓を受けたかのように顔を輝かせる。


「そうだ!誰かが姫様に化けて、お見合いの席に……!」


その瞬間、まるで世界樹の葉がすべて一斉に止まったかのような静寂が部屋を包む。小鳥のさえずりも、風の音も、すべてが消え失せた。

従者たちの動きが、まるで時が止まったかのようにピタリと止まる。

セーロスは呆れた表情で口を開こうとした。彼の整った眉が、「キミは本当に馬鹿だな」と言わんばかりに寄せられる。


──しかし、その言葉が口をついて出る前に。


「なるほど」


老齢の従者が意味深な口調で言う。


「見た目の美しい御方なら……」


そして、まるで振り子が反対側に振れるように、全員の視線がゆっくりとセーロスへと移動する。

その眼差しには、まるで獲物を見つけた狩人のような輝きが宿っていた。


「……みんな?どうして僕を見るんだい?」


セーロスの声が、まるで砂漠の蜃気楼のように揺らめく。その完璧な容姿が、今や彼にとって呪いのように思えてきた。


「エルミア様のお美しさを我々のような下位種が真似しようなどと、不敬ですし……」

「血の繋がったハイエルフの貴き御方なら、流石のドワーフたちも疑わないかと!」


その「貴き御方」という言葉が、まるでギロチンの刃のようにセーロスの首筋に突き刺さる。

こいつらは……なにを言っているんだ……。セーロスは心の中で必死に呟く。

しかし、本能的にそれが一番いい策だというのが聡明な彼には分かってしまった。千年の知恵を持つハイエルフの王として、他に選択肢がないことは明白だった。


「陛下!」


その時、一人の従者が口を開いた。エルミアの御付きのメイドだ。

先程まで気絶していた彼女はいつの間にか起き上がり、にこにこと笑みを浮かべながらエルミアのドレスを手に持っている。


「ちょ、ちょっと待って!キミ、さっきまで気絶してなかった?」

「はい!」


メイドは満面の笑みで答える。


「でも、『誰かが姫様の代役を』という素晴らしいアイデアを聞いて、思わず目が覚めました!」

「……あぁ、そう」

「それで、ドレスも、化粧道具も、かつらも、全部準備できました!」

「全部!?この短時間で!?」

「はい!姫様の口癖集も作りましたし、歩き方のレクチャー用の資料も!」


セーロスは額に手を当てる。もしかしたらこいつ、魔法使いなんじゃないのかと疑いたくなるほど、彼女の動きには一切の無駄がない。

いや、むしろこうなることを予想して事前に準備をしていた……?

セーロスは恐ろしい妄想を取り払うように頭をぶんぶんと振ると、往生際悪くこう叫ぶ。


「そ、そうだ!アイガイオンに女装させればいいんじゃない!?だって兄妹なんだからさぁ!」

「陛下、アイガイオン様の身長は高すぎます」

「あと……」


メイドが困ったように微笑む。その表情には、明らかな恐怖が滲んでいる。


「あの狂犬のような……いえ、個性的な御方が言うことを聞いてくれるとは……」

「う……それもそうか……」


セーロスは渋々頷く。アイガイオンの悍ましい笑い声が、彼の脳裏に響く。

確かに、あの破壊神のような息子に女装を頼むのは自殺行為に等しい。女装という単語を発した瞬間に魔剣を抜きそうだ。


「それに」


若い従者が、とどめを刺すように言葉を継ぐ。


「アイガイオン様はオルドロ様と昔、殺し合いをなさった仲。街三つが消え失せるほどの戦いだったとか」

「また殺し合いが始まると思いますが、よろしいのでしょうか?森がまた血に染まりそうですが」


セーロスは一瞬黙り込む。彼の脳裏に、かつての戦場の光景が蘇る。


──しかし。


「だったら僕だってオルドロと殺し合ってたんだけど!?」


と突っ込む。


「むしろ僕たちの方が派手にやり合ったでしょ!?僕も最前線で要塞吹き飛ばしてたのに!?」


しかし従者たちは、まるでそんな言葉は風の音のように聞き流し、着々とドレスの準備を進めていく。


「このレースの具合が、姫様にそっくりですわ」

「髪型は少し右寄りにしましょうか。陛下の天使のような金髪が映えます」

「お化粧は自然な感じで……でも、目元は少し強調を」

「靴のサイズ、ぴったりですね。さすが親子」

「ねぇ、聞いてる?僕の言葉……」


セーロスの声が次第に小さくなっていく。

部屋の隅では小鳥が、まるでオペラ座の観客のように首を傾げながら、この珍劇を見守っている。

時折漏れる小鳥の鳴き声は、明らかに笑い声に聞こえた。


「ほら陛下、まずはこの下着から」

「えっ!?ちょ、ちょっと待って!?それまさかエルちゃんの下着じゃないよね!?」

「姫様の着付けは一日がかりですから、急ぎましょう」

「そんな!誰か、誰か助けて……!」


セーロスの悲痛な叫びも空しく、運命の歯車は着々と回り始めていた。


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