カイナブルは動けなかった。周囲を覆う悍ましい魔力が、彼の感覚を歪め、混乱させていたからだ。
視界が揺らぎ、耳鳴りが響き、皮膚が針で刺されるような痛みを感じるほどである。
目の前には、その魔力の源であるリヴィアスピーナの姿。先ほどまでの無邪気な妖精の面影は消え失せ、今や彼女の顔には邪悪な笑みが浮かんでいた。
「な……な……」
豹変した妖精にカイナブルは戸惑いを隠せなかった。リヴィアスピーナは、そんな彼を見下ろすように空中に浮かび上がった。その表情には獲物を前にしたような、残忍で無邪気な笑顔が滲んでいた。
「──お前、バルドリーナの孫だろ?」
ドクンと、カイナブルの鼓動が高鳴る。
リヴィアスピーナは、カイナブルの動揺を見逃さなかった。悪戯が成功したかのような無邪気さで笑う。
「やっぱりぃ〜♪お前からバルドリーナの血、グランドワーフの血の匂いが、ぷんぷんするからね~♪」
リヴィアスピーナは空中でくるくると回転した。その動きは、優雅な舞踏会の踊り子を演じるかのようだったが、突如として彼女の動きが止まる。
「森を焼いて、みんなを殺した、きたねぇグランドワーフの血の匂いがプンプン、な……」
その言葉の裏に潜む怒りは、もはや隠しきれないほどだった。
リヴィアスピーナの目が燃え上がり、その小さな体から放たれる魔力が急激に高まった。空気が重くなり、呼吸すら困難になる。
「お、俺は……そんなことをしていない……」
なんとか動かせた口を動かし、カイナブルは反論する。
その言葉にリヴィアスピーナは冷笑を浮かべ、鼻で笑った。
「お前の身体は血で汚れているんだ」
妖精の声が冷たく響く。
「お前がグランドワーフである限り、お前達が犯した罪はなくならない……」
リヴィアスピーナの翅が光を放ち、ゆっくりと羽ばたき始めた。その動きに合わせ、周囲の空気が渦を巻くように動き出した。
「そして今度は私達の姫様を奪い取ろうとしてる」
彼女の声が次第に高くなる。
「地底のモグラの分際で、エルミア姫を娶る……?」
突如、リヴィアスピーナの声が怒りに満ちた叫びに変わった。
「ふざけるな、ふざけるな!あれだけ奪ったのに、また奪い足りないのか!」
その叫びと共に、魔力の波が周囲を襲った。木々が激しく揺れ、湖面が荒れ狂う。
「──だから私がお前を裁いてあげる。お前の血で姫様を汚すわけにはいかないからね」
その瞬間、空気が張り詰めた。リヴィアスピーナの両手が頭上に掲げられ、周囲の魔力が渦を巻いて集中する。
刹那、幾つもの光球が妖精の周りに現れ、カイナブルに照準を合わせた。
「や、やめ──」
リヴィアスピーナの指先から致命的な魔力が解き放たれようとした瞬間、彼女の動きが硬直した。
カイナブルの心臓が激しく鼓動を打つ中、彼は息を呑んで妖精を見つめた。
リヴィアスピーナの体が震え始める、その目は恐怖に見開かれ、まるで何か見えない存在を凝視しているようだ。
「ひ、姫様……?」
彼女の声が風に揺れる葉のように震えた。
「どうしてこの森に……。それに狂王も……くそっ!」
突如、リヴィアスピーナの体が弓から放たれた矢のように空中へ弾け飛んだ。
カイナブルは、まるで時が止まったかのように立ち尽くした。
急に現実に引き戻された。カイナブルはキョロキョロと周囲を見渡し、安堵の息を吐く。
「た、助かった?何故……い、いや……そんなことはどうでもいい」
何故か分からないが一命は取り留めたようだが……。
カイナブルは周囲を見渡しながら呟いた。
「ここは何処なんだ……」
眩しい日差しが湖面に反射し、彼の目を眩ませる。カイナブルは手で陽光を遮りながら、周囲を見渡した。
美しく輝く湖と、遠くにそびえ立つ巨大な樹──。鮮やかな緑の木々が立ち並び、森の深部特有の静寂が漂っていた。
どうすればいいんだ……と一人黄昏るカイナブルであったが、その時、彼の鋭い耳が何かを捉えた。
木の葉のざわめきとは違う、何かが近づいてくる音
「……!」
カイナブルの体が緊張で強張る。まさか、あの妖精か?
彼は咄嗟に湖畔の太い木の裏に身を隠した。木の樹皮が背中に食い込む。
今度こそ殺しに来たのか?カイナブルは自分を落ち着かせようと深呼吸をした。
さっきは突然だったから呆気に取られてしまったが……彼とてグランドワーフだ。正面切って戦えば妖精など恐れるに足らず。
そう自分に言い聞かせ、カイナブルは慎重に木の陰から頭を出した。だが、そこにいたのは妖精ではなかった。
「……なに?」
そこにいたのは、美しいドレスに身を包んだ女性だった。金色の髪が陽光を受けて輝き、碧い瞳が湖面のように澄んでいる。端正な顔立ちと滑らかな白い肌が、まるで絵画のように完璧だった。
カイナブルは息を呑んだ。
普段、女性の外見など気にも留めない彼だが、目の前に現れた女性の美貌は、まるで魔法にかけられたかのように彼の目を惹きつけて離さなかった。
『ここら辺で一休みしましょうか。姉さまも疲れたでしょう』
『なんだか癒されるわねぇ』
女性の横には小さな少年が寄り添っていた。その少年もまた、信じがたいほどの美貌の持ち主だった。
二人は優雅に切り株に腰を下ろす。その姿は湖の風景と溶け合い、まるで絵画を切り取ったかのようだった。
「あれは、エルフか……?」
彼らの特徴的な尖った耳、端正な顔立ち、そして纏う雰囲気。間違いなくエルフだろう。
カイナブルは一瞬、エルフがなぜこんな場所にいるのかと疑問に思ったが、すぐに自分を諭した。
森にエルフがいるのは当然のことだ。むしろ、ドワーフである自分がこんな深い森にいる方が異常なのだ。
『ねぇ、カフォン。何か可笑しかった?』
女性の声が涼やかに響いた。
『いえ。ただ、姉さまが可愛らしいなと』
少年──カフォンと呼ばれたエルフが柔らかな笑みを浮かべて答えた。
カイナブルは息を詰めて見守った。
エルフたちの会話は聞こえないが、その優雅な仕草と微笑みに、彼は思わず見入ってしまう。美しい湖畔の風景と相まって、まるで夢の中のような光景だった。
木の陰に隠れて盗み見している自分が、果たしてドワーフの王子に相応しい行動かどうかは、一旦心の隅に追いやった。
突然二人のエルフが立ち上がった。カイナブルは身を硬くする。エルフたちは手を繋ぎゆっくりと湖の方へ歩き始めた。
「あ、あいつら何を……?」
まさか入水でもするつもりなのか?あの華麗なドレスも、美しい髪の毛も濡れて台無しになってしまう。
カイナブルの心配をよそに、エルフたちは歩みを止めない。
そしてそのまま湖へと足を踏み入れ水に──
「!?」
イナブルの目が驚愕で見開かれた。
次の瞬間、彼の目に信じがたい光景が飛び込んできた。エルフの二人は湖に落ちることなく、まるで羽根のようにふわりと宙に浮いたのだ。
カイナブルは目を擦り、もう一度見直した。しかし、光景は変わらない。エルフたちは湖面の上を、まるで固い地面を歩くかのように優雅に歩いている。
「あ、あいつらは一体……?」
カイナブルは混乱した頭で必死に理解しようとした。
空中を歩くなど、あり得ない。そんな馬鹿げたことがあるはずがない。彼は自分の目を疑った。しかし、目の前で起こっていることは紛れもない現実だった。
エルフたちは、まるで空中を歩くように、湖面をゆったりと進んでいく。その姿は超然として、まるで神々しささえ感じさせた。金色の髪が陽光を受けて輝き、ドレスの裾が水面すれすれで揺れている。
カイナブルの胸中に、今まで感じたことのない感情が溢れ出してきた。畏怖、憧れ、そして不思議な高揚感。彼は息を呑みながら、その超自然的な光景に釘付けになった。
「──綺麗だ」
その言葉が、ほとんど息のように彼の唇から漏れた。
自分でもこんな感情を持っていたことに驚きを覚える。ドワーフの誇り高い王子である彼が、エルフの姿に心を奪われるなど、以前の自分では考えられなかっただろう。
そうして呆然と見つめていると、エルフたちの周囲に妖精が集まってきた。
先ほどのリヴィアスピーナとは全く違う、純真そうな妖精たちだ。その姿は、まるで花びらが風に舞うかのように軽やかで美しい。
恐らくはあれが純真無垢な下位種の妖精なのだろう。
突然、エルフの女性が妖精たちと共に踊り出した。妖精の羽から舞い散る光の粉が、空中で輝きながら渦を巻く。
その中心で、エルフと妖精たちが優雅に舞う姿は、まるで夢幻の世界から抜け出してきたかのようだった。
「なんだ……あれは……」
カイナブルの声が震える。
彼は驚愕のあまり言葉を失った。無理もない。
今まで彼が見てきた中で最も美しく、神秘的な光景が、今まさに目の前で繰り広げられているのだから。
『姫さま踊るのうまーい!』
妖精たちの歓声が湖面に響き渡った。
──姫。
その一言で、カイナブルの全身に電流が走ったかのように震えが走る。
そうか。あのエルフこそが、皆が口々に噂していた、エルフの姫エルミア。
瀟洒なドレスをまとい、優雅に踊るその姿は、まさにエルフの至宝そのものだった。
湖面の上を滑るように回転し、その周りを妖精たちが輪になって舞う。光の粉が宙を舞い、水面に反射する陽光が幻想的な雰囲気を醸し出す。
カイナブルはただ魅入られたように、その光景を見つめ続けた。言葉では言い表せない美しさに、彼の思考さえも止まってしまったかのようだった。
「……」
彼の脳裏に、エルフの国に向かう道中で聞いた言葉が蘇る。
『噂では、エルミア姫は慈愛に溢れた美しい姫だと...』
『エルフだというのに、まさに女神のような存在らしい』
カイナブルは息を呑んだ。確かに噂通り、いやそれ以上の存在だった。
カイナブルの目は、エルミア姫の一挙手一投足に釘付けになっていた。
姫がくるりと回転するたび、ドレスの裾が花のように優雅に広がる。その光景は、まるで花園の中で舞う蝶のようだった。
姫の長い金色の髪が風に揺れるたび、陽光を受けて輝き、カイナブルの心は高鳴った。その髪は、まるで生きているかのように柔らかく波打ち、妖精の光の粉と混ざり合って幻想的な光景を作り出す。
エルミア姫の微笑みは、まるで魔法のようにカイナブルの心を癒していく。その笑顔には、慈愛と優しさが満ち溢れていた。
次第に、カイナブルの頭の中からエルフの国への使命も、決められたお見合いも、自身の立場も、全てが霞んでいく。
今はただ、目の前の美しい姫に見とれているだけ。それ以外の全てが、意味を失っていくようだった。
もっと近くで見たい。近くで話したい。彼女の声を聞かせて欲しい。彼女のことをもっと知りたい。
そんな思いに突き動かされ、カイナブルは無意識のうちに一歩を踏み出した。木の陰から出ようとした瞬間──
「カチッ」
突然の音に、カイナブルの体が凍りついた。
「えっ──?」
彼は反射的に足元を見下ろした。そこには、彼の足が巨大なキノコを踏みつけている光景があった。
しかし、それは明らかに普通のキノコではなかった。謎の光沢を持ち、複雑な光る模様が表面を覆っている。
明らかに普通のキノコとは一線を画した外見のキノコ。それが何かしらの罠であることはすぐに分かった。
「くそっ!」
慌てて足を引こうとした瞬間、キノコから眩い閃光が放たれた。
その光は、まるで太陽が目の前で爆発したかのような強烈さだった。カイナブルの目が焼けるような痛みを感じる。
次の瞬間、熱波が彼を襲った。そして、それに続いて──
「っ!?」
凄まじい爆風が彼の身体を吹き飛ばした。カイナブルは地面から浮き上がり、空中で回転する。耳をつんざくような爆発音が森全体に響き渡る。
木々が激しく揺れ、葉が舞い散る。地面が震動し、湖面が大きく波立つ。
カイナブルの意識が朦朧とする中、彼は空中を舞っていた。背中から地面に叩きつけられる衝撃を予感しながら、彼の頭の中には一つの疑問が浮かんでいた。
「どうして……キノコが……爆発すんだ……」
そして彼の体が地面に叩きつけられる直前、エルミア姫の驚愕の表情が、かすかに目に入った。
……ような気がした。