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第22話

──エルミアたちが黒焦げになった王子を発見する、少し前の出来事だ。


「はぁっ……はぁっ……」


深い緑に包まれたエルフの森の中、ドワーフの王子カイナブルの荒い息遣いが響く。汗で濡れた黒髪が額に張り付き、豪華な正装は枝や葉で傷だらけだ。

エルフの騎士達の強烈な殺気に晒され、お見合いの直前に馬車から飛び降り、城下町の喧騒を抜けて森に逃げ込んでからどれくらい走っただろう。足首に絡みつく蔦を振り払いながら、彼は周囲を警戒する。


下らないお見合いが終わるまで、ここでのんびり昼寝でもしていよう──


そんなカイナブルの甘い考えはすぐに打ち砕かれた。この森はカイナブルの予想を遥かに超えて……奇妙。そう、奇妙だった。


「くそっ、なんなんだこの森は!」


ドワーフというのは地底に都市を築き、そこで生活をしている種族だ。

しかし地上に出ないわけではないし、地上に露出している都市だってある。だからカイナブルも森という存在を知っていたし、森に住む種族がいることも知識として知っていた。

だが、彼が知っている森というのは木々が生い茂り、小さな動物達が駆け回る自然の楽園だ。

しかしこの森は……何かが違う……。


「うわっ……!この、放せ!テメェら、俺が誰だか分かってんのか?!」


王子の威厳たっぷりの叫びも、木々には全く効果がないようだ。むしろ蔓は「おや、珍しい玩具が来たぞ」とでも言うように、さらに元気よく彼に絡みついてくる。


「くそっ!地底なら植物なんてろくに見たこともねえのによ!」


カイナブルは必死に蔓を振り払おうとするが、木々はクスクスと笑っているように葉を揺らし、風もそよそよと吹いて彼をからかっているようだ。


カイナブルが前に進もうとすると、どこからが蔓が伸びてきて足を拘束せんと絡みついてくる。

常人ならばそのまま脚が千切れるほどの勢いで蔓が伸びるが、そこは力自慢のドワーフ。生まれ持った剛力で蔓を引きちぎる。

グランドワーフたる彼にはこのような小細工は通用しない……のだが、次々と襲い来る森の罠はカイナブルを確実に疲弊させていった。


「くそっ、なんなんだこの森は!エルフ共の罠か!?」


彼の怒号が木々に吸い込まれていく。同時にカイナブルの頭の中で、宮廷教師の声が響いた。


『エルフの森は神秘的で美しい自然の楽園です。ただし、我々にとっては地獄かもしれませんがね』


ああ、ようやくその意味が理解できた。今更理解しても、遅いのだが。

蔓が再び彼の足に絡みつく。カイナブルは歯を食いしばり、最上位種の生まれ持った剛力で引きちぎる。

突如、茂みから謎の生き物が飛び出してきた。人面キノコ?歩く木の枝?カイナブルにはもはや見分けがつかない。ただ必死に振り払うだけだ。


「ちくしょう!俺はお見合いから逃げ出しただけなのに、なんでこんな目に……!」


彼の叫びに呼応するように、近くの茂みから小鳥が飛び出した。「お見合い逃亡?面白そうじゃん!」と言わんばかりに、カイナブルの周りをピーチクパーチクと飛び回る。


「うぉあ!……って、ただの小鳥か。驚かせやがっ……っおあぁぁぁー!?」


牙をむき出しにした"小鳥"が襲いかかる。カイナブルの世界観が木っ端微塵に砕ける音が聞こえそうだ。

間一髪で避けたカイナブルだったが、小鳥たちは縦横無尽に飛び回り、またもカイナブルに牙を剥きだしにして襲いかかってくる。


「小鳥に牙!?そんな馬鹿な生き物がいるか!?……っ!」


回避が間に合わず、小鳥の鋭い牙がカイナブルの腕を掠めた。流血と鈍い痛みに顔をしかめながらも、彼は反撃に転じようとするも、その時には鳥の姿はなく、静寂が彼を包んだ。


「はぁ……はぁ。やっと静かになった……」


森に入ってからどれだけの時間がたったのか、カイナブルには全く分からない。ただ、同じような風景がずっと続いているように思える。

まるで森そのものが敵意をむき出しにして、カイナブルを惑わし、嬲っているようだ。


「なんて森だ!くっそ、服も傷だらけになっちまった」


彼の豪奢な服は見る影もなく、泥で薄汚れてボロボロになっている。

だが、彼はそんな傷の痛みよりも、森に惑わされていることへの怒りが上回った。


「エルフ共め……こんな小細工に負けてたまるか……!」


カイナブルは自分を奮い立たせるかのように叫び、またも茂みから飛び出した小鳥を払いのける。

小鳥たちは驚いたのか、そのままどこかへと飛び去っていった。


「ふんっ!ただの鳥なんざ俺の敵じゃねぇ……!この森も、すぐに抜けてやる!」


誇り高きドワーフの王族、カイナブル。彼の豪語は、ボロボロの服と泥まみれの顔で一層輝きを増す。

エルミアがこの姿を見れば思わずプークスクスと笑ってしまいそうな、絶妙なギャップ感だ。


──エルフの奸計など、自分の力で打ち砕いてくれる。


そう意気込む彼であったが、エルフたちは別に彼を陥れようとしてこの森に誘った訳でもないし、勝手に逃げ出した彼が悪いのだがそんなことはカイナブルにはどうでもいいことだった。

お見合いからの大脱走、森への無謀な突入──カイナブルの冒険は、彼が主演する喜劇の様相を呈していた。

観客は森の生き物たち。彼らは「今日の娯楽はこいつか」とばかりに、カイナブルの奮闘を見守っている。

反骨心なのか単なる逃げ腰なのか、もはや本人にも分からない。お見合いという龍の巣から逃げ出し、今や森という虎の穴に飛び込んだ格好だ。

つまり、自業自得である……。


「……ん?」


カイナブルの耳に、かすかな音が届く。森の静寂を破る不思議な音色。

その音は、風に乗って断続的に聞こえてくる。少女のクスクスという笑い声のようでもあり、小鳥のさえずりのようでもある。

しかしどこか人間離れした、神秘的な響き。


「なんだ?」


彼は耳を澄まし、その音に意識を集中させた。

その声は徐々に近づいてくる……。

カイナブルが動けないでいると、彼の視界にキラキラと粒子を振りまく小さな人型の存在……妖精が飛び込んできた。

半透明の翅を羽ばたかせ、子供のような叫び声を森に響かせている。


「あー!お客さんだー!?珍しいね、こんな森に!」


カイナブルの目の前で、小さな妖精が腕を広げ、くるりと回転する。その動きは優雅さとぎこちなさが混ざり合い、妙に愛らしい。

光を纏った翅が、陽光を受けてキラキラと輝く。その姿は確かに魅惑的で、カイナブルは思わず見入ってしまう。

彼は咳払いをして、威厳のある態度を取ろうとする。しかし、泥まみれの服と傷だらけの顔では、その効果も半減だ。


「な、なんだお前……」

「私は妖精だよ!ねぇねぇ、貴方見たことない格好してるね!もしかして、他の国からきた人?」


カイナブルは妖精を見て戸惑いを隠せなかった。

カイナブルは、目の前の存在に戸惑いを隠せない。彼の頭の中で、かつて聞いた妖精の話が蘇る。

エルフと共に生きる小さな精霊。自然の化身。純真無垢な少女の姿......。

目の前の存在は、まさにその通りだった。小さな体。可憐な姿。美しい翅。これ以上ない妖精の象徴だ。


「……あぁ、そうだ」


カイナブルは妖精の言葉にどう答えようかと思案し、結局ぶっきらぼうに答える。

無視しても良かったが、どうやら敵意はないようだし、この森を抜け出すヒントがもらえるかもしれない。


「へぇ!そうなんだ!どこからきたの?」


妖精はカイナブルの周りをクルクルと回りながら質問責めにするが、彼は苛立たしげに答えを返すだけ。


「どうでもいいだろ、そんなこと」

「えー教えてよ!」

「うるせえな!それより……」


カイナブルは妖精に顔をずいっと近付けて、言った。


「この森から抜け出すには、どうすればいい?」


妖精は質問にびっくりして目を見開き、カイナブルの顔をまじまじと見た後にキャッキャと笑った。


「あははは!面白いね貴方!」

「何がおかしいんだよ」

「だって貴方……この森に自分から来たんでしょ?なんで出る方法を聞くの?」


妖精の指摘にカイナブルは顔を背ける。

確かにその通りだ。自分は自ら望んで……いや、望んではいないが、お見合いから逃げる為にこの森へ来た。

それが迷って……というか森の妨害にあって抜け出せなくなったとは恥ずかしくて言えない。


「……」


言葉に詰まるカイナブル。ここで見栄を張るのは得策ではない。

永遠にこの森を彷徨うだなんて、絶対に御免だ。


「その、なんだ……迷ったんだよ!悪いか!」


結局、正直に話すことにした。妖精はカイナブルの答えにクスクスと笑い、口を開く。


「ふふっ、別に悪いなんて言ってないよ?私もこの森にいるけど、毎日迷ってばっかり!でも大丈夫!抜け道なら知ってるよ」


彼女の言葉にカイナブルはパァッ!と顔を輝かせた。


「本当か!?頼む、教えてくれ!」


妖精はまたクスクスと笑い、カイナブルの服の裾を引っ張る。


「いいよー!ついてきて!」


妖精はそう言うと、カイナブルの周りを飛び回りながら案内を始めた。

不思議なことに、これまで彼を苦しめてきた森の妨害が、突然おとなしくなった。

蔦は彼の足に絡みつかず、奇妙な生き物も姿を見せない。森全体が、穏やかな空気に包まれている。

妖精が森に愛されているからなのか。それとも……別の理由があるのか。

カイナブルはそんな疑問を頭の隅に追いやり、今はただ、この不思議な少女について行くことにした。


「そういえばさー」

「あん?なんだよ」

「貴方、なんて名前なの?」


妖精に聞かれ、そういえば名乗っていないことに気が付く。

お見合いから逃れることに夢中だったし、森の脅威に晒されてそれどころじゃなかったからだろうか。

──こんな小さな虫けらに名乗る義理なんてねぇんだが……。カイナブルは心の中でそう呟いた。

しかし、この妖精という案内人……といっても、迷子を更に迷わせそうな不安定さに感じるが、彼女の機嫌を損ねるのも得策ではない。

その思いでカイナブルは自らの名を妖精に告げる。


「ったく、しょうがねぇな。オレはカイナブルってんだ。覚えとけよ」


カイナブルの名前を聞いた妖精は、突然目を見開いた。

瞳は丸く大きくなり、長い睫毛がパタパタと慌ただしく動く。


「カイ……なんだっけ?長い名前だね!」

「長いか……?まぁいい。お前は?」

「私?私はねー……」


妖精は急に声のトーンを変えた。

その目が一瞬鋭い光を放ち、目を細めるがそれもほんの一瞬のこと。


「私はね、リヴィアスピーナ!リヴィアちゃんって呼んでね!」

「……」


精は声を弾ませ、両手を広げてクルッと回った。

リヴィアスピーナは、にっこりと笑顔を作り、片足でバランスを取りながらポーズを決める。その姿は、一見愛らしかったが、どこか違和感があった。まるで練習を重ねた演技のようにぎこちなさが感じられるような……。

カイナブルは眉をひそめ、頭をかいた。この妖精の思考回路はどうにも理解できない。

「お前の方が長い名前じゃねぇか」というツッコミが喉まで出かかったが、飲み込んだ。そんなことを言っても、きっと意味のない会話が延々と続くだけだろう。


「ふんふんふ~ん♪」


しかし、不思議なことに、このちんまりとした妖精……いや、リヴィアスピーナが案内してくれるおかげで、森の雰囲気が変わってきた。

先ほどまで不気味で危険な気配に満ちていた木々が、今では穏やかな緑の壁に見えてくる。影も薄くなり、鳥のさえずりが聞こえ始めた。

そうして小さな妖精の後を黙々とついて行く。落ち葉を踏む足音と、リヴィアスピーナの鼻歌だけが森に響く。


「……?」


その途中。


カイナブルはリヴィアスピーナの後を追いながら、眉間にしわを寄せた。


──何かがおかしい。


頭の片隅で違和感が蠢いている。それは霧のように捉えどころがなく、はっきりと言葉にできない。

記憶の中の情報と目の前の光景が噛み合わない。カイナブルは額に手をやり、頭を振った。もやもやとした感覚は晴れず、むしろ濃くなるばかりだ。


(おかしいな……妖精ってのは確かもっと……)


彼は目の前で小さな円を描くように手を回した。


(こう、救いようがない程のバカで、自分の名前すら知らねぇし、会話が成立しねぇって聞いたはずだが……)


突然、記憶の奥底から微かな声が聞こえてきた。それは遠い昔の反響のようだった。

そうだ、誰かがそんなことを言っていたんだ……でも誰だ?

カイナブルの目が遠くを見るように細まった。記憶の中の風景が少しずつ形を成していく。

そう、戦争を経験したことのある鉱山のジジィたちだ。彼らの皺だらけの顔と、酒臭い息が蘇ってきた。

それは遥か遠い過去……カイナブルがまだ無垢な子供だった頃のこと。世界がもっと単純で、彼もまた単純だったころ……。




♢   ♢   ♢




「王子、聞いとけよ。地上には妖精ってのがいるんだ」


一番年長のドワーフが、煙草をくゆらせながら言った。


「ようせい?うまいのか?食えんのか?」


幼いカイナブルが無邪気に尋ねる。


「バカ、誰が食うかよ。まぁ、うまくねぇから食わねぇんだろうな。つまんねぇ冗談は置いといて」

「妖精ってのはよ、下っ端は可愛いもんだ。花畑でチョロチョロ遊んでるだけの脳ミソお花畑のバカ野郎だ。でよ、上等なのになると話が違ってくる……」


ドワーフの声が低く、不吉な調子を帯びる。


「上位種、グレイスフェアリーってのはよ、狡猾で悪意のカタマリだ。ちっこい体に殺意と狂った思想をぎゅうぎゅう詰めこんで、へらへら笑いながら敵を八つ裂きにするんだ」


カイナブルは背筋が凍るのを感じた。ドワーフたちの言葉が続く。


「奴らはゾっとするぜ。グレイスフェアリーは生まれながらの邪悪な魔法使いさ。命を奪うために生まれてきた悪魔だ」

「だからよ、普通の妖精だと思って近づくなよ。命が惜しけりゃな」


幼いカイナブルの震える声が響いた。


「え……?ど、どうやって、普通の妖精と見分けるんだよ……?」

「それはな──」




♢   ♢   ♢




「はい!着きましたよー!」


カイナブルの思考が、リヴィアスピーナの声で中断された。カイナブルは我に返り、周りを見渡す。

彼の目の前に壮大な光景が広がっていた。

巨大な湖面が、鏡のように空を映している。その水面は、一陣の風もなく、まるで時が止まったかのように静かだった。透明な水は底まで見通せそうで、湖底に沈む色とりどりの小石が宝石のように輝いていた。


湖の向こう岸に目をやると、カイナブルは思わず息を呑んだ。

天を突く巨大な樹木が、雲を突き抜けて聳え立っていた。その幹は何十人もの大人が手をつないでも囲めないほどの太さで、幹の表面には幾重にも重なる年輪が刻まれている。枝葉は空高く伸び、まるで空そのものを支えているかのようだ。

葉の一枚一枚が太陽の光を受けて煌めき、風に揺られるたびに虹色の光が降り注ぐ。その姿は神々しく、まるで別世界の入り口のようだった。


「ここは……」

「秘密の湖だよ!綺麗でしょー?」


リヴィアスピーナは得意げな顔で、カイナブルに言う。

確かに幻想的で美しい光景だ。しかし、カイナブルはこの森に観光しにきた訳ではない。

出口に案内してくれるというのに、何故こんな森の奥地にまで連れてくるのか。


「おい、出口はどこだ?」


リヴィアスピーナは、その問いに答える代わりに、浮遊しながらつま先立ちでクルリと一回転した。

その動きは、バレリーナのように優雅で、花びらのように可憐だった。


──しかし、回転が終わったとき、リヴィアスピーナの表情が変わった。


口元が歪み、目が細まる。その笑みは、決して無邪気な妖精がするはずのない表情。

残忍さと狡猾さが混ざり合った、背筋の凍るような微笑み。


「出口?そんなものは必要ないよ。だって……」


突然、その小さな体から魔力の奔流が噴き出した。それは生暖かい風のように周囲を包み込み、空気を重く、息苦しくした。

カイナブルは、その魔力に触れた草木が瞬く間に枯れていくのを目の当たりにした。

それは生命そのものを否定するかのような、悍ましい魔力だった。純粋な悪意の結晶と言っても過言ではない。


「お前はここで死ぬんだからね」


先ほどまでの愛くるしい声とは全く違う……低く、冷たい声が辺りに響いた。

カイナブルは呆然と立ち尽くした。その瞬間、彼の脳裏に、かつて聞いたドワーフたちの声が雷鳴のようにこだました。


『妖精が名前を名乗ったら、上位種の証だ。その瞬間逃げろ。ダッシュで逃げろ。さもなくば──死ぬぞ』


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