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第20話

──それは、セーロスが大穴を目にして愕然とする少し前のことであった。




♢   ♢   ♢




コルセット……それは女性の身体を美しい砂時計型に整えるための、優雅さと拷問の絶妙なブレンドだ。


「さぁ、姫様!もう少しでございますよ……!」

「ん……くぅっ!」


思わず漏れた声は、拷問を受けている囚人のようだ。コルセットなる拘束具は、私の内臓を八つ裂きにしようとしている。

これが美の追求なら、美しさとは一体どれ ほど残酷なものなのだろうか。


「うぅ……い、いたい……」

「姫様しっかりしてくださいませ!」


御付きのメイドさんが、私を鼓舞するように言う。

彼女の熱意は伝わってくるが、私の身体は別の意見のようだ。内臓は反乱を起こし、肋骨は降伏を叫んでいる。

メイドさんの励ましも虚しく、私はつい弱音を吐いてしまった。


「む、むり……」


この苦行は一体何のためなのか。美しさのためなら、私はゴブリンの姿でも構わない。少なくとも、ゴブリンは呼吸ができるはずだ。


「姫様、もう少しの辛抱です!」

「辛抱って、命の限界のこと……!?うぎ、うぎぎ……!?」


ついには目尻に涙を浮かべる始末である。

そもそも、なんでこんな拷問を受けなきゃいけないんだ?この衣装、まるで花嫁衣装みたいじゃないか。

コルセットって本当に必要?意味不明だよ。これじゃ、ご飯も食べられないじゃないか!

……あ、もしかして食べちゃダメなの?


「姫様、お気を確かに!」


ギュウウウッ!


さらにキツく締められるコルセット。私の体は悲鳴を上げた。「ぐえぇっ……」と情けない声が漏れる。

これはもう死の宣告だ。内臓が口から飛び出す日も近い。いや、もう出てるんじゃないだろうか。

私の脳裏に浮かんだのは、自分の葬式の光景。そこには、コルセットを着たまま棺桶に収められた私の姿があった。

せめて死後の世界では、もう少しゆったりとした服を着させてほしいものだ。


「うぅ……もうダメ……」


そう呟いた時であった。

ガチャリッ、と部屋の扉が開く音が部屋に響く。そして鏡越しに見えたのはカフォンの姿であった。


「姉さま!」


にこやかな笑みを携えたカフォンが、私の方に歩み寄ってくる。

金色の髪を揺らしながら、颯爽と歩くその姿はまさに天使のようである。

腹部に拷問を受けている私は、カフォンの姿を見て思わず助けを求めた。


「カフォン、助けてぇ……」

「あぁ、姉さま。そんな拷問器具のようなものをお腹に巻き付けて、お可哀想に。今楽にしてあげますから」


カフォンの指先が輝いた。その光は、私の希望の象徴だった。魔力の波がコルセットを包み込み、次の瞬間、あの忌々しい拘束具が爆発した。まるで私の怒りが実体化したかのようだった。

突如として解放された内臓たちは、歓喜の舞を踊っているようだった。

ようやくまともな呼吸ができる。空気って、こんなにも美味しかったっけ?


「はぁ、はぁっ……あ、ありがとうカフォン」

「どういたしまして。僕、姉さまのためなら何でもしますから。それに、コルセットなんて無くても姉さまは美しいですからね」


屈託のない笑みを浮かべ、私に微笑みかけるカフォン。

彼はこの世界において、いつも私の味方になってくれる可愛い可愛い弟だ。

その外見は、高級人形店のショーウィンドウに飾られた最高傑作のようで、性格も、教科書から飛び出してきた「良い子」の見本そのもの。

まぁ、ちょっとした……特殊な愛情表現があるけれど。それも彼の個性の一つ。

だと思いたい。


「?」


突如、私の視界に飛び込んできたのは、床を這いずり回るメイドさんの姿だった。

その動きは、まさに人生最後の一秒を必死に生き延びようとしているかのようだ。

まるで急に出現した凶悪な怪物から逃げるようなその動作に、私は首を傾げた。


「ど、どうしたの?そんな這いつくばって逃げて……」


私がメイドさんに声を掛けると、彼女は「ひぃ!?」と悲鳴を上げて私を見上げた。

その目には涙が浮かんでいる。


「あ、あのっ……私は何も見てませんから!だから命だけは!」

「え?いや、別に取って食ったりしませんよ?」


何を勘違いしているのか。私がメイドさんを食べようなんて思うわけないだろうに。

しかしよく見ると彼女の目線は私ではなく、横にいるカフォンに向けられていた。

カフォンはそんなメイドさんを一瞥すると、微笑んで口を開く。


「やぁエスカテリーナ。どうしたんですか、そんなに怯えて。まるで化け物から逃げるみたいですね」


エスカテリーナ。私の御付きメイドの名前だ。カフォンが彼女の名前を知っているのは、実は驚くべきことではない。

なぜなら、彼はこの王城の使用人全員の顔、名前、住所、家族構成、果ては趣味趣向まで把握しているのだから。

彼の頭脳は、もはや人間……エルフの領域を超越している。前に私が「家族構成まで覚えてるなんてすごいわ」と感心したら、彼は「家族を人質に取れば従順に……あ、いや、使用人の家族は我々の家族も同然ですからね」と言っていた。

ああ、なんて素晴らしい弟なのだろう。お姉ちゃん、感動で涙が出そうだわ。

もちろん、恐怖の涙なんかじゃないわよ、絶対に。


「い、いえ……そんな……ことは……ふっー……ふっー……!」


スカテリーナは息を切らせながら、私とカフォンの間で視線を落ち着きなく動かしていた。彼女の顔は恐怖で歪み、言葉を絞り出すのも一苦労という様子だ。

一体何がそんなに怖いのだろう?カフォンが姿を現してから、彼女の顔色は見る見るうちに変化し、今や熟れすぎたアボカドのような色合いになっている。確かに、カフォンは恐るべき魔法使いだ。しかし、彼が無差別に人命を奪うようなことはしないはずだ。

たぶん。


「貴女の実家が天から降ってくる謎の光に焼かれる前に精神状態を直した方がいいですよ。あぁ、実家が燃えた時のために消火部隊を事前に派遣しておきま……」

「カ、カフォン!来てくれてありがとう!待っていたわ!」


私の口が勝手に動いた。カフォンの危険な発言を封じ込めるかのように、私は彼の肩を掴み、言葉を遮った。

カフォンの視線が私の顔に移る。メイドさん……エスカテリーナは白目を剥きながら泡を吹いて気絶していた。

ああ、危険な状況だった。何が危険なのかは私にもよく分からないが、とにかくカフォンを野放しにしてはいけないという直感だけは働いた。

どうやら彼の注意を逸らすことに成功したらしい、カフォンはいつも通りの可愛らしい笑みを私に向けて口を開く。


「そういえば姉さま、僕に何の用事なんです?ドワーフとのお見合いが嫌になったから奴等を抹殺しろというなら喜んで殺りますけど」

「カフォンくん。お姉ちゃんが泣く前にそういうこと言うのやめようね」


私はカフォンの両肩を掴んで、その目を見ながら諭すように語りかける。

すると彼は「そうですか?姉さまがそう言うなら……」と渋々といった様子で頷いた。

危ないところだった。危うくお見合い相手を殺すところだったよ。

そしてもう少しで王国間の戦争が勃発するところだった。私は安堵の息を吐き出し、再びカフォンと向き合った。


「あのね、カフォン。お願いがあるんだけど……」


そして私は、目の前の小さな悪魔……ではなく、天使に『お願い』をしたのだった。

カフォンの目が好奇心に輝いた。


「何でしょう、姉さま?僕にできることなら何でもします!」


その「何でも」という言葉に、私は背筋に冷たいものを感じた。

カフォンの「何でも」は、往々にして常識の範疇を超えてくるのだ。


「えっとね、私を……逃がして欲しいの」


一瞬、カフォンの瞳が鋭く光ったような気がした。

しかし彼はすぐにいつもの温和な表情に戻ると私の真意を図ろうと言葉を投げかける。


「姉さま、貴女は何から逃げたいのですか?兄から?この国から?この世界から?それとも、貴女を縛る全てのものから?」

「そんな壮大なものから逃げたいわけじゃないわ。お見合いから逃げたいだけなの。まあ、お兄様からも逃げたいけど、それは日課みたいなものね」


カフォンは「お見合い」という言葉に反応して、少し首を傾げた。

どうやら彼は私がお見合いから逃げたがっているのを、少し不思議に思っているようだ。


「ドワーフがそんなにお嫌いですか?」

「別にドワーフの殿方が嫌なわけじゃないわ。会ってもいないのに、好きも嫌いもないしね。ただ、私は自分の相手くらい自分で決めたいだけ」

「ほう」


私の言葉に、カフォンは興味深そうに目を輝かせた。

決して筋骨隆々なドワーフの王様を見て怖くなったとか、ドワーフたちの「血液飛沫お掃除セット付き」な鎧を見て漏らしそうになったからとか、そんなんじゃないからね。

本当だよ。

そして彼は私の前に跪くように身を屈めると、まるで神託を受ける聖者のような口調で語りだした。


「なるほど、姉さまはこのお見合いを『運命』とか言う安っぽい言葉を使って拒否するのではなく、もっと現実的な手段で断るということですね」

「え?あー、そう……なのかな?まぁ、うん」


私は困惑気味に返事をした。カフォンは時々、妙に難解な言葉を操ることがある。

この少年のような外見をした天使あくまは、私の脳みそをはるかに凌駕する知性の持ち主らしい。

その叡智は、きっと宇宙の果てまで届くんだろう。

……カフォンくんキミ何歳よ?弟だよね、キミ?私のお爺さんとかじゃねぇよな?


「いいでしょう。姉さまが願うなら、僕はその願いを叶えましょう。例えそれが、を二度と元に戻せないほど世界をメチャクチャにすることだとしても」

「だからそういう物騒なこと言うのやめようね?私、別に世界の破滅を願う邪神とかじゃないから」


カフォンはまるでペンギンの行進でも始めるかのように、可愛らしくトテトテと音を立てながら窓辺へ向かった。


「では姉さま、少々お待ちくださいね」

「え?」


はて、一体何をするつもりだろうか。

私はてっきり不思議な魔法パワーでワープやら瞬間移動やらを駆使するのかと思っていたのだが。

あ、もしかして壁に空間同士を繋げる素敵な扉でも作るのだろうか?

なんてファンタジーな世界なんだぁ。私の脳みそは、まるでお花畑のようだ。ユニコーンが虹を吐きながら駆け回っているレベルで。


「姉さま、お手を」


現実に引き戻される。カフォンが手を差し出してきた。まるでシンデレラの舞踏会にでも招待するかのように。

私は躊躇うことなく、その手を握る。弟の手とはなぜこうも温かいのだろうか。

弟の手は妙に温かい。まるで赤ちゃんのように……。

こんなに温かいのは、もしかして魔法の副作用?それとも、単に手汗がやばいだけか?


「では行きますよ」


すると次の瞬間、カフォンの掌からシュウシュウと魔力の奔流が溢れた。

それは次第に、真っ黒なタピオカみたいな邪悪なものへと変貌していく。私は思わず心の中で絶叫した。


(あ、これダメなやつやん)


目の前の光景は、まさに「美しい」の反対語を体現したような代物。メルヘンとは程遠く、むしろ悪夢の具現化といった感じだ。

世界が蠢き出すような錯覚に陥る。でも、そんな優雅な時間は与えられない。

次の瞬間、カフォンの手から闇の波動が解き放たれた。それは、まるで私の部屋の壁に恨みでもあるかのように、轟音とともに吹き飛ばしていく。

城が揺れる程の衝撃と、耳をつんざくような轟音が響き渡った。


「おっと、ちょっと力入れすぎちゃったかな。まぁ、これでいっか」


カフォンが言う。何が「いっか」なのかさっぱり分からないが、彼のにこやかな顔を見ていると、私まで「まぁいっか」という気分になってくる。

というか、今さらそう思うしかないだろう。

壁に空いた大穴──いや、もはや「壁」と呼べるかすら怪しいが──からは青空が覗いている。

そこから、まるで「ほら、外に出ておいでよ」と誘うかのような風が吹き込んでくる。

私は髪を風になびかせながら呟いた。


「いい天気ね」


素晴らしい現実逃避である。もしかしたら、私はもう正気を失っているのかもしれない。


「さぁ、姉上」


カフォンが私の手をぎゅっと握り、無邪気な笑顔で見上げてくる。そして、こう言った。


「どこまで逃げたいですか?世界の果てまで行きたいなら、途中にある国々を吹き飛ばしますから」


弟の口調は、まるでピクニックの準備をする時のように軽やかだった。

ただし、普通のピクニックでは国を吹き飛ばしたりはしないけれど。


「そうね。じゃあ、お城の近くの森に行きましょうか」


世界の被害を最小限に抑えるには、近所で済ませるのが最適だろう。

国際問題を起こすよりは、地元の生態系を少し乱す程度で留めておきたい。


「森……いいでしょう。姉上の望むままに」


カフォンは頷き私に手を向けて何やら呟くと、私の身体がふわりと宙に浮いた。

そのまま窓から見える青空に向かって、私たちの身体は吸い寄せられていく。


「わぁ、すごい!私達飛んでるわ!」


ようやく平和なファンタジーらしい魔法の効果を味わった私は、年甲斐もなくはしゃいでしまった。

そんな私の姿を見て、カフォンはにこにこと嬉しそうに笑っている。


「姉上が喜んでくれて何よりです。遥か昔の大戦の時は、空を飛んだ瞬間に四方八方から魔法が飛んできて身体がぐちゃぐちゃになっちゃいましたからねぇ。平和な時代で良かっ「あぁ楽しいわ!優雅に空を飛ぶのは!」」


カフォンが何やら物騒なことを言っていた気がするけど、きっと気のせいだろう。たぶん「ぐちゃぐちゃ」は「わくわく」の言い間違いだったんだ。そうに違いない。そうであってくれ。

私は弟の言葉を聞き流しながら、空の旅を堪能するのだった。時々、下を見ては鳥のように自由だと感じ、そして高所恐怖症になりかけては目をそらす。

そんな、ちょっとしたスリルを楽しみながら。


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