「ふんふんふ~ん♪」
歳若い青年の姿をした老年の王セーロス。彼は鼻から漏れる音程の怪しい鼻歌を歌いながら、豪華絢爛な宮殿の廊下にある一室の前でソワソワと足踏みしていた。
彼は今、愛する娘エルミアのおめかし姿を一目見ようと、その部屋の外で待っているのである。
「エルちゃん、まだかな」
ウキウキと、まるで遠足を楽しみにする子どものように、セーロスはエルミアが出てくるのを待っていた。
彼の想像力は暴走を始めていた。エルミアの姿は、高価すぎて国庫に穴が開きそうなドレスに包まれ、髪は宮廷の庭師が手入れする迷路のように複雑に仕上げられ、化粧は魔法使いの変身術を施したかのような……。
元より美しいエルミアだが、セーロスの妄想の中では、彼女は今や美の概念そのものを体現する存在へと昇華していた。
その姿を一目見た男性たちは、美しさの衝撃で網膜を焼かれ、以後は目の前に浮かぶエルミアの残像だけを見つめて生きていくことになるだろう。
「楽しみだなぁ、エルちゃんの花嫁衣裳」
セーロスは既にお見合いの段階を飛び越え、結婚式を夢想していた。
彼の脳内では、エルミアが純白のドレスに身を包み、ゆっくりと祭壇に向かって歩いていく。その姿は、きっと...いや絶対に、世界で最も美しい光景となるに違いない。
セーロスは自分の妄想に酔いしれ、思わず目頭が熱くなった。彼は鼻をすすり、感極まった様子で独り言を続ける……。
「うっうっ……うぅっ……」
セーロス王が突如、嗚咽を漏らし始めた。彼に使えるエルフたちがギョッと目を見開く。
エルフという種の頂点、ハイエルフ。そのハイエルフの中でも王という頂の位に就くセーロスが涙を流している──。
その事実だけで使用人のエルフたちは大慌てだ。
「陛下!お美しい顔が崩れてしまいます!」
「どうか、涙をお収めください!我らの心の臓が持ちません!」
「うぅっ……エルちゃん……エルちゃんは僕の大事な娘なんだっ……」
王という立場である以上、セーロスは例えどんなに辛くとも民の前で涙を流す事は許されない。
だが、彼は今こうして涙を流している。悲しいかな、彼の涙は家族愛が強すぎるばかりに流れていたのだった。
そんな時だった。
「おや?」
この城の廊下を歩く足音が聞こえてくる。
トテトテ……トテトテ……。
廊下に響く足音は、まるで子猫が絨毯の上を歩くような軽やかかで可愛らしい。
その音を聞いてセーロスが顔を上げると、そこには息を呑むほどの美貌を持つ少年が立っていた。
「おや、父さま。どうしたんです?」
──カフォン。ハイエルフの王子にして、セーロス王の息子。その存在自体が芸術品と呼ぶにふさわしい美少年。
彼の金髪は太陽の光を独占したかのように輝き、整った顔立ちは彫刻家の最高傑作を思わせた。
彼はエルミアの部屋の前でうろうろする父セーロスを、まるで珍しい生き物を観察するかのような目で見つめていた。
「……っ!」
セーロス王を取り囲んでいた使用人たちは、まるで爆弾の導火線に火がついたのを目撃したかのように、一斉に逃げ出した
彼等の顔面は蒼白に染まり、恐怖に全身を震わせていた。
そんな周囲の異変に全く気付かないセーロスは、我が子を見つけた母鳥のごとく、カフォンに抱きついた。
「おぉ!カフォン!我が愛しの息子よ!君もエルちゃんの晴れ姿が見たくて来たのかい!?そうだよね、エルちゃんもついに嫁ぐんだもんね。寂しいよね~」
──その瞬間。
その瞬間、空気が凍りついた。カフォンの体から放たれた邪悪なオーラは、まるで目に見えないガスのように周囲に広がった。
突如、彼の周りで風が渦巻き始め、荒れ狂う。
セーロスの体は、その風に巻き込まれ、紙切れのように宙を舞った。そして、壁に激突する音は、城中に響き渡った。
「ごふぅっ!?」
使用人たちは、まるで重力が急激に増したかのように身を屈め、カフォンの放つ威圧感に震え上がっていた。
決して子供が浮かべては良い表情ではない。
カフォンはまるでゴミを見るような目で父を見下ろしながら、その口を開いた。
「お嫁さん、ねぇ。いつからお見合いが結婚式になったんです?もしかして、お見合いと書いて結婚と読むんですか?父上の脳内辞書は相変わらず面白いですね」
カフォンを取り巻く黒いオーラは、まるで悪夢が実体化したかのように禍々しく蠢いていた。
その圧倒的な存在感に、使用人たちは次々と意識を失っていった。彼らの体は、まるで操り人形の糸が切れたかのように崩れ落ちていく。
そんな地獄絵図の中、壁にめり込みかけたセーロスは、なおも息子に向かって言葉を紡ぎ出した。その声は、砂漠で水を求める者のように、かすれていたけれど。
「カフォ……ン、よく聞きなさい……。お見合いといえども……おめかしするエルちゃんは、世界一可愛いんだ……。だから、いい機会だしお嫁さん姿になって貰おうと思って……ほら、その方が相手の受けもいいでしょ……?」
「ふぅん」
カフォンは父の言葉につまらなさそうに返事をすると、顎に手を当てて何かを考える仕草を見せる。
美しい顔が思案に耽る様は、まるで絵画のように美しい。
しかし、その美しい顔に浮かぶ表情は決して明るいものではなかったし、その身体から溢れ出る邪悪な魔力は悍ましいの一言に尽きる。
「なるほど。確かに、美しいものには違いないですね」
カフォンの頭の中で、姉の花嫁姿が鮮明に描き出された。
純白のドレスに身を包んだエルミアの姿は、言葉という不完全な道具では到底表現しきれない美しさだった。
そう、だからこそカフォンは父の言葉に一定の理解を示しうんうんと頷いた。
子供らしからぬその所作に、彼を見る目をより一層畏怖の色を強める使用人一同。
一方、セーロスは息子の反応を見て安堵の表情を浮かべた。「やっと分かってくれたのか!」という期待が、彼の顔全体に広がっていた。
しかし、カフォンの次の言葉はセーロスの希望を木っ端微塵に砕いた。
「だけど、姉さまの花嫁姿の横にいるのがドワーフだと思うと不愉快だな。父上、僕言いましたよね?お見合いは構いませんが、その先は時期尚早だと」
カフォンの瞳が煌めいた。それは魔力の光がカフォンの瞳に反射した輝きだったが、その美しさとは裏腹に迸る殺気は凄まじい。
その眼差しに触れた使用人たちは、ドミノ倒しのように次々と意識を失っていった。
セーロスも魔力の波に飲み込まれそうになったが、なんとか意識を保ちながら息子に向き合う。
「で、でもぉ……父親としてはさぁ……娘の花嫁姿は見たいのぉ……」
カフォンの殺気を浴びても尚、セーロスは引かなかった。
何故なら彼には夢があったのだ。エルミアの結婚式を挙げるという、大きな夢が。
この国挙げての盛大な結婚式……きっとそれは、エルミアの花嫁姿をより美しいものにしてくれるだろう。
世界中の種族の重鎮が世界樹の元に集い、祝福する光景を思い浮かべただけでセーロスは自然と笑みが溢れてしまう。
その光景こそが、かつて友が夢見た平和な世界……平和な国の象徴になるのだから。
「ほう、父親としてですか……父親……」
そんな父の想いを知ってか知らずか、カフォンは何か遠くの景色を見るように、何かを思い出すように、目蓋を閉じた。
彼の脳裏に浮かぶのは、かつてのセーロスの姿……。今ではない、何処かで見たような彼の姿。
「まぁ、父親というものはそういう生き物なのかもしれませんね」
カフォンの声には、珍しく柔らかな響きがあった。彼は魔力を抑え、殺気を引っ込めた。
急に圧力から解放されたセーロスは、床に落ちて「ぐえっ」と情けない声を上げる。その姿は、靴底で踏まれたゴキブリのようだった。
カフォンは父の惨めな姿を完全に無視し、エルミアの部屋のドアノブに手をかけた。
──な、何故カフォンはエルミアの部屋に当たり前のように入ろうとしているんだ?今、彼女はおめかし中で着替えているというのに!
「カフォン、待ちなさい!幾ら弟でもエルちゃんの着替えを覗くのは倫理的にまずいと思うんだよね!?」
「あのね、僕を兄みたいな変質者と一緒にしないでください。僕は姉さまに呼ばれてここに来たんですから」
「え?エルちゃんに呼ばれた……?」
初耳である。何故エルミアはカフォンを呼んだのだろうか。
それも、おめかし中に……。
「何でエルちゃんがキミを?」
「さぁ。もしかしたら無理矢理花嫁姿にさせようとする変態的な父親を魔法で抹殺して欲しいのかも」
「!?」
カフォンの唇が不敵な笑みを形作った。そしてセーロスの顔から血の気が引いた。
彼は小さく笑うと、「冗談ですよ。まぁ、頼まれたらやりますけど」と言い残し、エルミアの部屋に入っていった。
廊下に残されたのは、ボロ雑巾のようになったセーロスと、カフォンの邪悪なオーラに当てられて気絶した使用人たちだけだった。
静寂が辺りを包む中、セーロスはかすかな声で呟いた。
「え?頼まれたらやるの……?」
その言葉は、まるで消えゆく炎のように、静寂の中に溶けていった。
セーロスの目には、息子の冗談が冗談で終わらないかもしれないという恐怖が浮かんでいた……。
♢ ♢ ♢
「エルちゃん遅いなぁ」
セーロスはエルミアの部屋の前で、ただ待っていた。
カフォンが部屋に入ってから、時計の針が一周どころか、二周も三周もしたように感じられる。
周囲では、カフォンの邪悪な魔力の余波から目覚めた使用人たちが、まるで二日酔いから回復するかのようにふらふらと立ち上がっていた。
しかし、セーロスの目にはそんな光景も入らない。彼の視線は、ただひたすらエルミアの部屋のドアに釘付けだった。
「様子を見に行った方がいいかな……?い、いやでも娘の着替えを覗くだなんてなんか変態みたいだし……でも、早くしないとドワーフたちも待ってるし……」
彼の頭の中では、良識と父性愛が激しい戦いを繰り広げていた。
セーロスの動きは、まるでペンデュラムのように規則正しく、しかし意味もなくドアの前を行ったり来たりしていた。
その姿は、まさに人間……ではなく、エルフと化した振り子時計だ。
──しかしその時であった。
突如、耳をつんざくような轟音が、エルミアの部屋から聞こえてきたと思ったら、城全体が揺れるような衝撃がセーロスの身体を揺さぶった。
「う、うわぁっ!?」
「な、なんだ!?」
「地震か!?」
使用人たちの声が混乱の渦を巻き起こす中、セーロスの目は自動的にエルミアの部屋の扉……いや、かつて扉があった場所に釘付けになった。
そこには、木々の破片が紙吹雪のように舞い散る光景が広がっていた。
「な、なんだ?一体何が!?」
彼は慌てて音のした方……つまり、エルミアの部屋の方に駆け寄り、部屋に入った。
そして絶句した。
「──」
部屋の中には、白目を剥いて泡を吹くメイドの姿。そして、壁には巨大な穴が空いていた。
そして、まるで巨大なネズミが壁を齧ったかのような大穴が開いていた。穴からは青い空が覗き、そこから一羽の鳥がセーロスの顔の前を横切り、まるで「お邪魔しました~」と言わんばかりに城の中へと羽ばたいていく。
「え、エルちゃん……?」
呆然と立ち尽くすセーロス。
そして彼は気付いた。気付いてしまった。
「……もしかして、逃げた?ああ、そうか!きっと新しいダイエット法を試してるんだ!壁を突き破って走るなんて、なんて目新しい方法なんだ!」
ポツリと、セーロスの呟きがその場に響いた。
「カフォンも一緒に行ったのかな?さすが我が息子、姉の健康を気遣うなんて……ね?」
セーロスは誰もいない部屋に向かって語りかけた。その表情は、笑うべきか泣くべきか、あるいは怒るべきか。
それは彼にも、分からない……。