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第16話

広大な地下宮殿の謁見の間。

天井から吊るされた巨大な水晶シャンデリアが、ゆらゆらと揺れながら幻想的な光を放っている。

その光は、洞窟の壁面に刻まれた古代の模様を浮かび上がらせ、生きているかのような錯覚を与える。


その神秘的な光景の中心、玉座には一人の少女が座っていた。

長い黒髪は滝のように背中を流れ、透き通るような白い肌は宝石のように輝いている。

しかし、その瞳には数千年の年月が刻まれているかのような深い智慧が宿っていた。


「よぅ来たのう、カイナブル」


少女……いや、太后の声が響き渡る。

その声には年齢不相応な威厳が滲んでいた。地底の岩盤そのものが語りかけてくるかのような重みがある。

カイナブルは驚愕の表情を浮かべ、身体をすくませた。


「は!?なんでババァがいんだよ!?もう言い付けてんじゃねぇか!?」


その瞬間、カイナブルの腹部に鋭い痛みが走った。


「うぎゃあっ!?」


彼の目の前で、太后の小さな拳が閃いていた。その一撃は、鍛え上げられた彼の腹筋をも容易く貫いていた。

カイナブルは膝をつき、苦痛に顔を歪める。その姿は、先ほどまでの高慢な態度とは打って変わって弱々しい。


「次ババァと言ったら殺す。前にもそう言ったよな?何回目だ?ん?」


その目には、怒りの炎が燃えていた。地底の熱泉のように激しく沸き立っている瞳は蹲るカイナブルを射抜いた。


「ば、ばばぁ……じゃなくて、太后様……すみませんでした……。それと、3回目……くらいかな」


彼の声は震えていた。目の前の少女の姿をした太后の存在が、彼の全身を戦慄させる。


「今回で323回目じゃ。324回目はお前の内臓を破裂させてやるぞ」


太后は厳しい眼差しでカイナブルを見下ろす。

その小さな体からは、想像を超える威圧感が放たれていた。


「ふん、出来の悪い孫じゃて。髭の生えていない赤ん坊のようじゃ」


彼女はそう言うと、玉座に再び座り直す。その仕草には、数千年の重みが感じられた。

彼女の名はバルドリーナ。

カイナブルの祖母にして、数千年の年月を生き続ける生きた化石である。


その外見は麗しい少女だが、カイナブルには想像も出来ない程の悠久の時を生きてきた存在だ。

まるで時間が彼女を避けて通っているかのように、バルドリーナの肉体は若々しさを保っている。

カイナブルは、自分が本当の意味で「年下」であることを痛感する。彼の目には、恐怖の象徴が写っていた。


「ババ……いや太后様。なぜこんな所に?もしかして、アンタの隠し酒を割って台無しにしたことを怒ってらっしゃる?」


カイナブルは冷や汗を流しながら言った。彼の頭の中では、様々な罪状が走馬灯のように駆け巡っていた。

バルドリーナは鋭い目つきでカイナブルを睨みつけた。水晶シャンデリアの光が、彼女の目に反射して不気味に輝いている。


「クソガキが……妾の酒を台無しにしたのはお前だったのか。後でたっぷりとお仕置きしてやろう」


バルドリーナの小さな拳にギリリと力が入る。

カイナブルはそれを見てブルルと身体を震わせた。彼の顔からは、さらに血の気が引いていく。


「だが、今はそれどころではない。エルフとの縁談、断るつもりと聞いたが本当か?」

「あー、それは」


カイナブルは言葉を濁す。彼の目は、逃げ場を探すように部屋中を彷徨うばかりだ。


「木の枝みたいに細いエルフなんぞと結婚なんて、考えただけで胃が岩になりそうなんだ。エルフの髪で編んだロープで首を吊るほうがましだぜ」

「ほう」


バルドリーナはにやりと笑う。その笑顔を見て、カイナブルは再び身体を震わせる。


「なら、妾の特製の薬をお見舞いしてやろう。さすれば岩になった胃は元通りになるぞ。いや、むしろ液体になるかもしれんがな」


その瞬間、カイナブルの背筋に冷たい汗が流れた。

太后バルドリーナの「特製の薬」と言えば、その効果は伝説級。一度味わった者は二度と反抗的な態度を取れなくなるという。

なお、薬という名のただの鉄拳制裁である。

だが、カイナブルは大きな恐怖と幾ばくかの怒りを滲ませ、まるで地底の洞窟で叫ぶ迷子のドワーフのように言った。


「……うるせぇなババァ!何でエルフとの縁談なんざしなくちゃならねぇんだ!それはテメェがよく分かってることだろうが!!」


カイナブルの怒声が謁見の間に響き渡った。

──だが、それを聞いてバルドリーナは、まるで無邪気な少女のような笑顔を浮かべた。


「分かっているよ」


その表情は、数千年の年月を生きた存在とは思えないほど純粋だ。

カイナブルは息を飲み、黙り込んだ。あまりの恐ろしさと、彼女の笑顔の美しさに言葉を失った。

そんな彼に向かって、バルドリーナは優しく語りかける。その声は、まるで遥か昔の記憶を紡ぐかのように静かだ。


「妾はエルフ共と殺し合ったからな。兄妹姉妹も、息子や娘も、たくさんエルフの奴等に殺されたよ。まるで悪夢のような日々だった。血で血を洗うような戦いの中で、妾はその度に……」


その瞬間、バルドリーナの姿が掻き消えた。

カイナブルの視界から消えた彼女は、いつの間にか彼の背後に回り込んでいた。

突如、カイナブルの首に冷たい感触が走る。地底の蛇が這い回るかのように、バルドリーナの指が彼の喉元を這う。


「──その度に。妾は報復としてハイエルフ共の首を捻じ切ってやったものよ。ちょうど、こんな風にな……」

「っ……!?」


バルドリーナの細く、華奢な指がカイナブルの首にめり込んでいく。

その力は、少女の姿からは想像もつかないほどだ。カイナブルは思わず息を飲み、全身を硬直させる。


「ば、ばばあ……冗談はよせ……面白くねえぞ……」

「冗談だと?」


バルドリーナの声が低く響く。


「お前にとっては遠い昔の話かもしれんが、妾にとっては昨日のことのようじゃ。エルフの血の匂いが、今でも鼻についておる。そして、この指は奴等の血で汚れておるのだ」


カイナブルの身体がカタカタと震え始めた。その眼には恐怖が宿っている。

バルドリーナは彼の首を掴んだまま、静かに言葉を続けた。


「直接戦った者しか分からんであろうな。この憎しみと怒りは」


その言葉に、カイナブルは息を飲む。バルドリーナの目に宿る感情の深さに彼は言葉を失った。

その眼差しは、無限に続く憎悪の鉱脈を覗き込んでいるかのように暗い。

闇を思わせる深淵に、カイナブルは耐え難い恐怖を感じた。


「エルフだけではない。大戦の時は、エルフ以外の他種族とも殺し合った。妾の可愛い息子も娘も、殆どが無残に殺された。まるで宝石を砕くかのようにね」

「っ……」

「そうさ。お前の言う通り、妾が一番分かっておる。この縁談の下らなさと、無意味さを。希望のかけらも見出せん」


バルドリーナの指がカイナブルの首から外れた。彼女はゆっくりと玉座に戻っていく。


「だが縁談は断るな。これは決定事項だ、クソガキ。お前の意見なんぞ、地底の小石ほどの価値もない。いや、小石の方がまだ鉱物として使えるかもしれんな」

「──ふざけるなババァ。殺し殺されあった野郎共と、仲良く出来るか。エルフの奴等も俺達と似たような事を思ってるだろうよ!戦争ってのはそれだけ憎しみ合ってるから始まったんだろうが!楽しい楽しい戦争を生き抜いてきただけのクソババァが昔の武勇伝ほざくほど、くだらねぇもんはねぇんだよ!!」


その瞬間。

突如、バルドリーナの小さな身体が閃光のように眩いた。


「!?」


次の瞬間、カイナブルの腹部にバルドリーナの拳が叩き込まれた。

その衝撃はカイナブルの内臓を激しく揺さぶり、彼の体を宙に舞わせる。

受け身を取る間もなく、カイナブルは壁に叩き付けられ床に崩れ落ちた。


「が……は……!」


カイナブルの視界が点滅し、胃液が逆流する。


「げほっ!うぇ……おぇぇ」

「戦を経験したことがないお前が、戦争のことを語るのか」


バルドリーナはカイナブルを見下ろす。

その瞳に怒りはないが、放つ威圧感は圧倒的だ。彼女の声が、氷河のように冷たく部屋中に響く。


「お前は何を知っている?戦争ごっこで使う玩具の兵士くらいか?」


彼女の足音がカイナブルの鼓動と同調するかのように近づく。

その一歩一歩が、地震計の針のように彼の恐怖を刻む。


「エルフの魔法で、何万もの同胞の戦士が一瞬で焼き尽くされた匂いを嗅いだことがあるか?焦げた肉の臭いと、灰になった骨の粉が風に舞う光景を見たことがあるか?あぁ、絵本の中で見たのかね」


彼女の手が、再びカイナブルの首に伸びる。

その指は鋼鉄のように硬く、冷たい。まるで死神の手が首に掛かったかのようだ。


「う……あ……」


カイナブルの視界がぐにゃりと歪む。バルドリーナの声が、地底から響き渡るかのように彼の脳を揺さぶった。

その声は低く、うねるように響き、呪詛の言葉のように聞こえる。

バルドリーナは容赦なく続ける。その声には、かすかな震えが混じり、過去の亡霊に取り憑かれたかのようだった。


「魔導砲撃で頭が半分吹き飛んだ敵兵から『殺してくれ』と懇願された時の気分はどんなものだと思う?愉快だと思うか?お前の知る『殺してくれ』は、娯楽競技で軽くリタイアするくらいの感覚だろうがな」


カイナブルは息を飲む。その言葉の重みが、彼の胸を押しつぶす。


「四肢をもがれ、内臓が飛び出した兵士が、最後の一息で母親の名を呼ぶのを聞いてみろ。何百年も、その声が脳味噌にこびり付いて離れなくなる。お前の悪夢は、せいぜいお気に入りのビールが売り切れで買えなかった程度……」


カイナブルは呼吸すらまともに出来ない。

バルドリーナの声と、その身体から放たれる威圧感が、彼の心を蝕み破壊していく。


「お前のような戦を知らぬガキが大口を叩くな。次に同じ事を口に出した瞬間、貴様の首を捻じ切って殺してやる」


カイナブルの目が、恐怖で見開かれる。

太后の姿は、もはや可愛らしい少女のそれではない。

そこにいるのは、数千年の憎しみを体現したような、恐ろしい怪物であった。


「縁談には行け。エルフの姫と会え。お前の小石以下の脳味噌で、少しは世界を広げてこい」


バルドリーナの声には、もはや反論の余地がない。彼女は力強くカイナブルを壁に押し付けた。

壁の石が、彼の背中に食い込む。まるで彼の傲慢さを砕くかのように。


「ババァの……懐古話なんざ……聞きたくねぇんだよ……!ボケ老人の集まりで勝手に喋ってろ……!」


だが、それでもなおカイナブルは反抗する。その声は震えているが、目には決意の色が宿っている。まるで最後の一線を守ろうとするかのように。

その胆力に、バルドリーナの目が僅かに見開かれた。彼女の表情に、驚きと共に、わずかな感心の色が浮かぶ。

突如、バルドリーナの手が閃く。カイナブルの頬に、鋭い平手打ちが炸裂する。

バシンと乾いた音が響き、カイナブルの体が宙に舞った。


「……馬鹿が」


バルドリーナの声が低く響く。


「お前の意地の張り方は間違っておる。相手を知らずして憎むなど、何の意味もない……」


カイナブルは答えない。ただ、黙って拳を握りしめるだけだ。

その握り締めた拳には、屈辱と同時に、わずかな迷いも見える。


「会え。エルフの姫と会え。それから、憎めばいい。少なくとも、お前の憎しみに理由ができるだろう」


それだけ言うと、バルドリーナは謁見の間から出ていった。その背中は小さいが、威厳に満ちている。

カイナブルは無言で、バルドリーナの背中を睨みつける。その目は憎しみと屈辱で燃えている。

だが、彼女に何も言えなかった。言葉が喉に詰まったように。

彼は拳を強く握りしめながら、歯を食いしばって呟いた。


「クソババァが……お望み通り、エルフの姫とやらに会ってから、憎み殺してやる……!薄っぺらな思い付きの縁談をぶっ壊してやる……!」


地底にカイナブルの声が響いた。その声は、宮殿の壁や床に反響し、まるで彼の怒りが宮殿全体に染み渡るかのようだ。やがて、その声も消えていく。

バルドリーナの姿はもう見えない。彼女の去り際の足音さえ、今は聞こえない。


「エルフの姫に会った瞬間、首を絞めて殺してやる!どうだ!?そうしたら、テメェらジジババの大好きな殺し合いがまた始まるだろうよ!?木の葉みたいに散らばるエルフの死体を見て、満足するんだろ!?」


カイナブルは叫んだ。しかし、その声は宮殿の冷たい石壁に吸い込まれていくだけで、バルドリーナには届かない。


「くそっ……!くそぉっ!殺してやる……!ドワーフの糞老人共も、エルフも、全員地底の岩くずにしてやる!」


カイナブルの怒号が、空虚な謁見の間に響き渡る。その声は、まるで地底の迷宮を彷徨うかのように、やがて消えていく。

彼の拳が近くの柱を強打する。岩のような硬い拳が、柱に叩きつけられる音が、空間に響く。しかしその衝撃は彼の怒りを鎮めるには至らない。


「エルフの姫だと?笑わせるな。きっと木の枝みたいに痩せこけた、目も当てられない奴なんだろう。そいつと縁談だと?冗談じゃない」


カイナブルは立ち上がる。その目には、かすかな決意の色が宿っていた。


「まあいい。会ってやるさ。そのエルフの姫ってやつに。でも、もし気に入らなかったら……」


カイナブルの脳裏に、バルドリーナの言葉が蘇った。「会ってから憎め」という一言が、彼の心を蝕んでいく。


「気に入らなかったら、ぶっ殺そうが、何をしでかそうが文句は言えねぇよな……クソババァよぉ……!」


カイナブルは不敵な笑みを浮かべて、謁見の間を飛び出したのであった。



♢   ♢   ♢



「はうあっ!」

「どうなされました!?姫様!?」


大きな悲鳴を上げる私に、セルシルが心配そうな声で尋ねる。その表情はまるで世界の危機でも起きたかのような深刻さだ。

──お気に入りのティーカップが突如として真っ二つに割れたのだ。

高価な陶器が、私の目の前で悲惨な最期を遂げてしまった……。


「こ、これは……何か良くないことが起こる前触れです!王国の滅亡か、私の結婚か、どちらかの災いが近づいているに違いありません!」


私はそう叫ぶが、セルシルは首を傾げるばかり。


「は、はぁ……そうなのですか?しかし姫様、カップが割れただけ……」

「いいえ、私には分かるわ!これは誰かが私に殺意を抱いている証拠よ!きっと、私の首を絞めようとしている奴がいるの!」


私は断言するが、セルシルは怪訝そうな顔のままである。

彼の不安げな表情は、私の狂気の深さを測ろうとしているかのようだ。


「姫様、お気を確かに。このセルシルが付いております」

「うっうっ……セルシル、私は怖いわ。このカップのように、私の身体も真っ二つに割られるのよ……」


そして彼は言った。

その言葉には、千年の忠誠の重みが確かに感じられた……。


「ご安心ください!私めが必ずや貴女をお守りいたします!たとえ姫様が真っ二つになっても、私が両半分を抱えて走り回ります!」


その頼もしい言葉に、私は思わず胸が熱くなるのを感じた。


「たとえ地底から湧き出る魔物が現れようとも、私がこの身を盾にいたしましょう!恐らく3秒くらいは時間を稼げるでしょう。その間に姫様はどうぞお逃げてくださいませ!私の骨はきっと、姫様の逃走路の良い目印になるはずです!」


セルシルの言葉は、勇気と絶望が絶妙にブレンドされているようだ。


「セルシル、あなたは私の騎士よ。3秒だなんて……せめて5秒はお願い。私の華麗な逃走には、最低でも5秒の助走が必要なの」


セルシルは誇らしげに、しかし少し青ざめた顔で胸を張る。


「はっ!姫様のお言葉、この身に染み渡ります!5秒……頑張ってみましょう。もしかしたら6秒目に奇跡が起こるかもしれません」


コントのようなやり取りをしながら、私は胸を撫で下ろす。まるで重い鎧を脱ぎ捨てたかのような軽さを感じる。

セルシルと話しているだけで、私の心は軽くなった。

きっと彼には、私の不安を取り除く力があるのだろう。彼はこの王宮の唯一の良心だ。

ノーブルでもないただのエルフだけれど、私の心を救ってくれる老執事。

幼少のころから私を見守ってくれていた私の大切な人だ。彼の存在は、この狂った王宮で唯一の安定剤だ。


「さあ姫様、お茶を淹れ直しましょう。今度は割れないカップをお選びいたしますぞ」


セルシルはそう言って私に笑いかける。その笑顔は、まるで朝日のように温かい。

千年の時を経た優しさがにじみ出ている。

私もまた彼に笑顔を向けるのだった。


そう、大丈夫だ。何も起こらない。


きっと──




パリン。




「「あっ」」


予備のカップ割れた音が部屋に響いた。

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