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【第十三章】不貞の証

 昔々、と言う程昔ではないかもしれないが、かの少年にとっては遠い昔の話。まだ皇都に身を置いていた幼い頃、一緒に暮らしていた兄がいた。

 彼は幼いながらに分かっていた。兄は皇帝とその皇后の間に産まれた正式な皇子、そして自分は、皇后の不貞の証だ。しかし、幸か不幸か、皇后である苑香が不貞を働いた先は、皇帝の弟である簫凌だった。よって、己も正式な王族の血筋の者となる。

「阿宵様は、天帝の祝福を受けておられる事でしょう。このように美しい紫髪を生まれ持ったのですから……玲玲は、誠に嬉しゅうございます」

 御付として与えられた若い女――玲玲は、伸びて来た彼の紫色の髪を櫛で梳きながら、どこか憐みのような感情を滲ませた声色でそう言った。

 本来であれば歓迎されぬ種違いの皇子。紫色の髪を生まれ持った幸福により、彼は悲惨な人生を回避したと言えるだろう。もし彼の髪色が他の色であれば、王族と認められずどこかに捨てられたかもしれない。もしくは、その場で殺された可能性だってあった。

 しかし、天は彼に味方をした。このように美しい紫色を目に、誰が彼の出生を疑う事だろうか。

 そんな彼女の安堵も、阿宵にはまだ伝わり切らなかった。彼はそれを、「王族の印さえ持っていればまだ皇帝になれる可能性があるから」と言った意味に捉えたようだ。

「ありがとう、玲玲。だけど、わたしは皇帝にはなれないし、なるつもりもないんだ」

 幼く可愛らしい声でそう告げ、上目遣いで見上げてくる。

「まぁ、何も玲玲は阿宵様が皇帝になれる事に喜んでいる訳ではありません事よ」

「そうなのか?」

 そのままこてんと首を傾げた彼は、なんとも愛らしい幼子そのものであった事だろう。

「えぇ、そうですよ。阿宵様」

 玲玲は優しく微笑んだ。そんな彼女は、まるで母だ。阿宵とは十数歳しか離れていないが、既に嫁入り出来る年齢にはなっている彼女だ、その中にある母性本能はしっかりと機能し始めていた。

 その時、阿宵の目には、外の回廊を渡る兄の姿が映る。口を紡ぎ、凛とした態度で歩く兄の背後には、従者であろう女の人が数名微かに頭を下げながら付いている。

 朝のお勉強の時間なのだろう。兄は将来皇帝の座を引き継ぐにあたって、数多くの難しい教養を受けているようだ。

「兄上、かっこいいな……」

 彼は、皇帝の座は望んでいなかった。種違いの皇子は、王族ではあるが「皇帝の息子」ではない。

 彼の心の築いていたのは、「父」の教えではない。伯父である皇帝様の、表面上で「おとうさま」と呼ぶその人の言葉だった。

(母上と父上は、わたしが皇帝になることをのぞんでいる。だけど、わたしはそんなのいらない……)

(和を望む者であれ。芸を愛す者であれ。それが、わたしの役目――ですよね、おとうさま)

 阿宵は――簫和念は、争いは望んでいなかった。

 そうして現在、皇都に駆け付けた簫和念は、客間で李公公と対面していた。

「そうか……やはり、兄上は人と会いたがらないよな……それなら、このお見舞いの桃は、李公公殿から渡してくれたら嬉しい」

 彼はしょんぼりと残念そうに目を伏せて、どうしてもと食い下がるような仕草は見せなかった。

(あの卵種から産まれたとは思えない、謙虚な御仁だ)

 しおらしい彼に対して、李公公はそんな事を思いながらも言葉を返す。

「御意に、大変申し訳ございません。ですが、弟君が見舞いに来た事は伝えておきます」

 その言葉はいつも通りの業務的なモノだったが、牽制やらは含まれていない、文字通りの純粋な言葉であった。

「ありがとう、李公公殿。お礼と言ったらなんだけど、その桃は一つ李公公殿が食べてもよいぞ。少し多めに持って来たからな」

「お心遣いに感謝申し上げます」

 小さく頭を下げ、感謝を述べる。

 李公公は話を通してくれると言っていたが、兄が自分と会ってくれる可能性は五分五分だろう。兄と会えないと分かった簫和念は、もう一度李公公にお礼と挨拶をしてから部屋から出て、回廊で待っていた玲玲と合流する。

「簫和念様。いかがでしたか?」

「やはり、兄上とは会えなさそうだった。だが、容体も比較的安定していて、心配はいらないそうだ」

 良い知らせとは言い切れないが、悪くはないだろう。李公公は、安心させるために下手な嘘をつくような事はしない。少なくとも、山場は越えたと言ってもいいはずだ。

 玲玲は笑みを浮かべ、まだ安心しきれていない主に声をかけようとした。

「おや、和念ではあるまいか。皇都に戻って来るのであれば、私に一声かけてくれたってよかったであろうに」

 しかしそれよりも先に、彼の背後から簫凌が、笑みを携え歩いてくる。

「父上。すみません、直ぐにでもご挨拶に伺おうとしていたのですが、少々李公公殿とのお話が長引きまして……お久しぶりです、父上。息災でしょうか」

 敬礼で深めに頭を下げた簫和念。心なしか玲玲を隠すような仕草を見せたのは、恐らく無意識の事だろう。

「あぁ、私は見ての通りだ。和念、折角皇都に戻って来たのだ、ゆっくりしていくと良い。久しぶりに、家族で食事でもしようではないか」

「えぇ。お言葉に甘えて。その時は、私がお酌をいたしましょう」

 簫和念は目を細め、父の言葉に応える。

「いやはや、実に親孝行の息子を持った事だ。父は嬉しいぞ、和念」

 父の口元が弧を描く。ポンと叩かれた肩から伝った父の柔い力は、まるで「分かっているな?」と問うているかのようで、簫和念は小さく目を伏せて頷いた。

 そのまま簫和念の横を通り、去っていく簫凌。その背を横目で見過ごし、息を吐く。

「玲玲も、長旅で疲れているだろう。部屋を貸してもらったから、とりあえず休もう」

「御意に。では、お茶をお淹れしましょう」

 答えを聞くや否や、一礼した彼女の手を引き、借りた客室に向かった。心なしかその足が速かったのは、彼の心情の現れだっただろう。



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