彼は李公公。役職としては、皇帝の御付である。常に警戒心を張り巡らせなければならない皇帝からの最も厚い信頼は前代から続くモノで、それは彼の口の堅さと忠誠心故の、当然の結果だろう。尚且つ仕事のできる彼のような人間は、王宮内では世間以上に重宝すべき人材と言えるのだ。
ほんの数日前の事、そんな李公公は、簫司羽から渡された書面を折り畳み火にくべた。書面にそう言った指示があったから、言えば証拠隠滅だ。
どうしてそんな事をしなければならないのか、まぁ、考えれば分かりやすい理由だろう。皇帝たるかの御仁は、なんと彼の身分を察せず友達のように接してくる男妃の、もっと言ってしまえば廃妃の所で実質的な休暇を取っている。一昨日の淳貴妃との宴会に現れた刺客に重症を貰ったようで、そこで療養中なのだ。そうして彼は、怪我の治り関係なくしばらくそこに居座る気満々である。その訳は、ただ一つ――興味が出たから、だ。
「全く。あの子は……」
李公公は闇夜の中燃えて灰になって行く書面を眺め、ため息交じりに呟いた。
療養中なのはまぁ仕方ないだろう。幼少期から数多くの暗殺未遂を経験した主が「いい傷を貰った」と言う事は、それ相応な深手なのだ。しかし、冷宮の男妃に興味が湧いたからまだ帰らないと言った理由はいかがなモノか。主の事だ、きっとそれ相応の重症でも今頃庭の散歩が出来るくらいには回復しているだろう。少なくとも、休み休みならいつもの書類仕事は捌ける。彼の幼少期より重ねられた経験によって得た丈夫さは全く甘くない。怪我の治りの速さと言ったら、王宮一の医官ですらビックリなのだ。
だが、あの子は一度こうすると決めた彼は梃子でも動かない。例え李公公の言葉としても、余程頑張って言い聞かせない限り受け入れてはくれない、説得は至難の業だろう。となれば、満足するまでやらせるのが一番だ。そんな事、長年傍にいればとうの昔に分かりきっている。
(しかし、あの子がここまで興味を持つ妃とは……たまには、公務から解放されて興味の湧く物に没頭させるのも、悪い事ではないだろう)
(しかし、冷宮にいる男妃と言えば、秦景楓だったか……簫凌殿に逆らえなかっただけだろうが、皇帝殺しの未遂者だ。簫司羽様はあれでもまだ若く、青さの抜けない御年だ。出来る事なら、私の方から警戒しなければ)
考えている間にも、書面は灰となり炎の奥へと隠蔽される。
そんな時だった。
「李公公様。実は、只今簫凌様がいらっしゃいまして」
駆け付けた家臣の一人が、焦りを滲ませながら伝える。
「分かりました、今向かいます」
平然とした表情で答え、家臣はその返答に安堵したような表情で頭を下げる。
そうしてまた一人になった時、李公公は小さなため息を漏らす。
「全く……」
帰らせることはやぶさかではないが、面倒な人を相手にするのはそれ相応に疲れるのだ。そういう意味で言葉を漏らし、李公公は来客の待つ門前へと赴いた。
門前には、見慣れた男の姿がある。李公公は敬礼をし、彼に声をかけた。
「簫凌殿」
「おぉ、これはこれは。李公公殿、ご無沙汰しておりますな」
浮かべられた笑みにわざとらしさと胡散臭さを感じてしまうのは、長年の経験によって作られた先入観だろう。
かつて仕えていた主、先帝に数割ほど似た顔つきの男――星月の王族の血である事を示す紫色の髪は、毎朝結うのが面倒だからという理由で短く切り揃えられ、負けず劣ら成功な作りをした顔立ち。何も知らない者が見れば、彼を「イケオジ」と呼ぶ事だろう。
「甥が病気になり療養中と聞きましてな。やはり、叔父としてはしかと見舞いに来なければと思いましてな、甥の部屋に通してくれはしないかね」
簫司羽が病気にかかり臥せているという偽情報を知らせたのは今朝の事だ。無駄に情報が早いのは、彼の耳が良いからか、将又――
それらしい事を上っ面の口にするその男に、李公公は逸らさぬように真っ直ぐと目を向けていた。それは一種の、威嚇でもある。
「申し訳ございません。簫司羽様は現在容体が酷く、人に会わせられる状況ではございません。何人たりとも宮に入れるなとのご指示ですので、お引き取りください」
「それはそれは……相変わらず閉鎖的な子だ。いやはや、叔父として実にお恥ずかしい。いつもご苦労を掛けますな」
「いえ、これが私の仕事ですので。それに、彼は若いながらによくやっている方でしょう。無駄に年だけを重ねた肩書頼りの古狸とは違います故」
「ほう、それは何より。李公公殿のようなお方がいるだけで、甥も面子が立つと言ったモノでしょう」
二人の礼儀と建前の中にある言葉の駆け引きは、そう長くは続かなかった。
「では、私はここで失礼しましょうかね。甥には、十分身の回りに気を付けるように念を押しておいてくだされ。兄者の二の舞を踏んでも構わないと言うなら、話は別ですがな」
簫凌は意味ありげに目を細め、その場から踵を返した。
そんな男の背を、李公公はどこか険しい顔つきで見据え、小さくため息をついたのだった。
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