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【第九章】「皇帝」を知らない妃

 素連は、それはもうとんでもなく驚いていた。目ん玉がと飛び出そうになる程に驚愕した彼女の視線の先には、ここにいる訳のないとんでもなく高貴なお方が座っていたからだ。

 事の発端はほんの数秒前、素連は女院に生えそろっていた雑草を抜いて作った編み物を秦景楓に見せる為に、男院に顔を出した。そうするとどうだ、回廊に腰を下ろし膝に頬杖をついている紫髪の美男がいるではないか!

 そう、彼は「司雲」だ。寝たきりは飽きたと、秦景楓に我儘を言って庭に出て来た、司雲だ。

「こっ――こうてっ」

 彼女が声を発しかけた時、司雲が視線を向けてくる。何もせずとも鋭く光るその目に見られ、素連は両手で口を塞いで、こくこくと頷く。

「あ、素連ー。遊びにきたの? いらっしゃーい」

「秦景楓さんっ、こ、こんにちは」

 少し挙動の可笑しい彼女に、秦景楓は首を傾げたが、直ぐにハッと気が付き手を叩く。

 そりゃ、急に隣人の家にあたかも自分の家かのように堂々と知らない人が座っていたら驚くだろうと。そう考えた秦景楓は、ニコリと笑って彼を紹介する。

「知らない人がいてビックリしたよね。この人は司雲。昨日大怪我をして落ちてきたから、ここで看病しているんだ」

「し、司雲様ですね。えっと、は、初めまして。私は、素連と申します」

 素連の声は緊張して上ずってしまった。深々と頭を下げ、まるで大袈裟なまでの敬意を見せた挨拶をする、これは最早敬礼だ。

 そんな彼女に、司雲は頬杖を突いたまま表情を変えずに言う。

「様じゃなくて良い」

「ははっ。きっと司雲がとんでもなく美人だから、緊張しているんだよ」

 秦景楓は冗談交じりに笑ったが、半分以上本気でそう思っていた。そう、美人を前にすると緊張するモノなのだ。しかし、そういう彼も世間一般的には美人と言われる部類の顔付きをしているのだが、まぁどちらかと言えば可愛い系だ。

 そんな事はさておき、秦景楓は素連も用があって来たのだろうと要件を尋ねる。

「それで素連、なにかあった?」

「あ、いえ! 教えてもらった事を使って、私も雑草で編み物をしてみたんです。その、見せようと思って」

「あー、なるほどね! 見せて見せて~」

 秦景楓は全く気にする素振りも無く、素連が持って来た鍋敷きのような雑草の編み物を見る。

 円の形もしっかりとまん丸く整っていて、編み目も綺麗に揃っている。とっても上出来な編み物だ。

「お、上手だね素連! 編み目も綺麗だし、これなら十ポイントにもなるよ!」

 そうしていらん事まで口走った彼に、素連は不思議そうに首を傾げた。

「十、ぽいんと……?」

「あ、いやこっちの話。とにかく、とっても上手に出来ていると思うよ」

 誤魔化すように、彼女の頭にぽんと手を添え、編み物を返してやる。

「あ、ついでにご飯食べてく? 丁度今から朝ごはん作ろうと思ってたんだ、僕、昨日の夜食べなかったから結構お腹すいちゃってさ。足りないんだよねぇ、毎度支給されるご飯じゃ」

「は、はい! いただきたいです。あれ、少ない上に冷めてますもんね……」

「そうそう、絶対昨日の余り物なんだよね~。それじゃあ、適当に作って来るから」

 ころころと軽く笑い、秦景楓は中に引き返そうとする。司雲の横を通った時、袖を小さな力で引っ張られ足を止めた。

 見れば、司雲が引き留めて来ていたようだ。どうしたのかと問う前に、司雲が口を開く。

「秦景楓。今日は、普通の米でいい」

「えー? 司雲が良くとも体が良くない気がするよ。今日いっぱいはお粥で我慢して、おかずは司雲 も食べれるの用意するからさ」

 司雲のそれを子どもの我儘のように受け流した秦景楓。その様子は例えるのであればお母さんかお兄ちゃんみたいで、心なしか、司雲はふてくされるように短く息を吐いて頬杖を付いた。

「冷宮の廃妃は、そのような粗飯を与えられているのか」

 伺うような視線で秦景楓を横目に映し、そう尋ねる。

「うん、そうなんだよねぇ。どう見たって昨晩の残飯だよ! まぁ、半場罪人だってからそういう扱いなのは納得だけどね。それにしても、一日一食あの量って餓死させる気満々だよねー。しかもね、結構な頻度で持っても来ないんだよ! いくらなんでも、流石にって感じじゃない?」

 ぷんすこと言った様子で手を腰に当てる彼に、司雲は本当に微かな一笑を浮かべていた。それは、真正面から見ていた素連でも気のせいかと思ってしまう程小さな物で、司雲は直ぐに真顔に戻り、「そうだな」とだけ返した。

「ま、そういう訳で。全然足りないからさ、今からご飯を作るんだよ。ほら、司雲。肩かしてあげるから中に戻るよ」

「自分で歩ける」

「ダーメ。下手に動くと傷口開いちゃうでしょー、全く、司雲はつい数時間前まで死にかけてたんだからね。それ程元気なのが可笑しいくらいだよ」

 そう言われ、渋々補助される司雲。あまり見たら悪いかなと、素連はそっと目を逸らして彼等の後を追った。

 その間にも、彼女の胸の内はとんでもなくドキドキと鼓動している。目の前にいる顔の良い男に緊張しているから、否、そっちではない。いや、実際そうでもあるのだが。今一番感じているのはそれではないのだ。

(こ、皇帝様、だよね……どう見たって。紫髪って、皇帝の血筋の証だったはず……秦景楓さんは、気付いてない、んだよね……? 気付いてたら、あんな感じで行けないもん……)

 戸惑いを隠しきれず、客間に腰を下ろした彼女は酷くソワソワとしていた。

「それじゃあ、用意してくるから。二人でなんか、お喋りでもしてて~。あ、素連。もし司雲の様態が悪いようだったらすぐに呼んでね? 僕は台所にいるから」

「あっ、は、はい! 分かりました」

「うん、お願いねー」

 秦景楓は小さく手を振って客間から立ち去る。そう、元下女と皇帝とか言う、二人きりになる事はまずない組み合わせを置いて。

 秦景楓の気配が過ぎ去った時、素連は目を泳がせながら司雲に問う。

「あ、えっと。皇帝様、ですよね……?」

「司雲だ。ここでは、そういう事にしていろ」

 彼は頬杖を突きながら微かに視線を素連に向ける。

「お前は、確か淳貴妃の所にいた下女だったか。どうして冷宮にいる」

「そ、その。淳貴妃様の虫の居所が悪くて、色々とありまして……」

 皆まで言わずとも、大体伝わったようだ。と言うより、下女であった彼女が冷宮にいる時点でお察しだろう。

「そうか。あの女、冷宮が何たるかを知らないようだな。忌々しい」

 言葉通り、苦虫を噛み潰したように顔を歪ませる。そんな彼に、ヒエっとなってしまったのは当然の摂理とも同等だろう。

(皇帝様、噂通りの気難しいお方……)

 素連が下女としてせっせこと働いていた頃、皇帝の妃に仕えている事もあり、「皇帝様」の噂はあちこちでされていた。それでこそ、以前異様に簫司羽の事を尋ねてきた秦景楓に教えた事だ。

 普段公に見せないその顔は宛ら人形のように美しく整っており、普段は滅多に口を開く事もない神秘的な御仁と言われる一方で、警戒心はとても高く、それでこそ部屋の掃除に入っただけの下女を牽制する程。一切警戒されずに彼に近寄れる者は、御付の李公公くらいだと言う。そう、噂を総合して一言で簡潔に言えば、「皇帝様はかなり気難しい美人」だ。目の当たりにしてみれば、それが確かな事であった事が明確に分かる。

 しかし、同時に素連は、それだけではないと感じていた。

(だけど、さっきの感じ……心配、してくれたんだよね。多分)

 なぜ下女が冷宮にいると尋ねて来た司雲の表情は険しかった。しかし、それは素連に対する嫌悪ではなかった。寧ろそこには、彼女に対する心配があったのだ。確証はないが、なんとなくそんな感じがした。

 素連は、改めて司雲と名乗った皇帝に視線を移す。

「司雲さん、で、よろしいでしょうか……?」

「あぁ、それでいい。少なくとも、ここにいる間はな」

「さっきの男妃は、俺の身分が皇帝である事など夢にも思っていないようだ。いつ気付くのか、試してみるのも一興だろう」

 腕を組んだ彼がどこか愉快そうに口角を上げていたのは、素連の見間違いではないだろう。


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