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【第八章】「出会い」、無自覚の進展

「なっ――! だ、大丈夫ですか!?」

 慌てて駆け寄り、その体を起こしてやる。どうやら腹部の辺りを刺されているようで、地面に広まった血はここから溢れ出ているようだ。返事こそなく意識は失っているようだが、呼吸はあり脈もしっかりと動いているようだが、素人でも分かる、これは危険な状態だ。

 急いで自室に運び入れ、寝台に横たわらせる。シーツが血で汚れてしまうが、そんな事を気にしている場合ではない。応急処置の為の道具も何もないと気付き、秦景楓は周囲を確認する間もなくスペースに入った。

「スペース! 救急箱! なんポイントでもいいから、しっかりとした救急箱を今すぐ!」

 挨拶もせずそう告げると、スペースも緊急事態を察したのか何も言わずに救急箱を用意してくれる。ポイントの書かれた紙は一緒ではないが、この際何ポイント消費されていようが構わない。目の前で人が死ぬかもしれないのに、ポイントがどうこう言ってられないだろう。

 秦景楓は元の場所に戻ると、即座に応急処置を始める。救急箱の中にある包帯とガーゼを使い、出来る限りの力で止血を行う。確か、こういう時は気道の確保が重要だったはずだ。横にさせてから、気道が開くようにしてやる。

「はぁ、はぁ……とりあえず、応急処置はこんなものかな」

「救急車とか呼びたいけど、そんなのこの世界になさそうだしな……とりあえず、これで様子を見るしかないか……」

 一先ず応急処置までは出来た事に息を突き、水を飲みに台所に向かう。そうして、丁度煮え終わったじゃがいもに気が付く。

「あ、そうだ煮込んでるだった……」

 危なく火事になる所だったと、火を切る。折角作ったが、今日食べる暇はないかもしれない。それに、あんな重傷を負った人を見た後で、食欲はとうに失せて全く湧かなくなってしまった。まぁ、お腹が空いたら食べる事にしよう。とりあえず料理は完成したから、冷蔵庫に突っ込んでおく。

「そうだ、看病道具用意しとこ……目が覚めた時に必要になるし」

 決めるや否や、駆け足でスペースに入る。

「ヘイスペース! 体温計とブランケット、あと軽めの食器一人分のを一通りと、ミネラルウォーターと、吸いのみっていうんだけ? あの、水飲ませるためのジョウロみたいなの出して!」

 言うと、ポポンっと機械音が鳴り要望の物が召喚される。

 食器は既にあるにはあるが、あれだけ重症なのだから腕に力が入らないかもしれないし、軽い素材で出来ているモノの方が良いだろう。手に取り確かめてみるが、本当に軽くてビックリだ。ブランケットも肌触りが良く、保温性も高そうだ。どうやら、それなりにいい品を揃えてくれたようだ。

「そうそうこれこれ。そうだ、さっきの救急箱含めて、ポイントどんくらいかかった?」

 今は少し余裕がある為、訊いてみる。そうすると、これを確認してくださいと言わんばかりに、ポイントの履歴画面が目の前に映し出される。

 そうして、目に映った数字に「ぅえ?」と声が漏れた。

 物凄く高額だった! という訳ではない。寧ろ、その逆だ。

「ポイント消費なし!?」

「え、スペース? これマジで言ってる? 無料ってのも怖いんだけど、知ってる? タダより高い物はないって。てか、これで採算とれるの? 本当に大丈夫?」

 驚きから連ねられる疑問に、スペースの回答が出される。

≪ご要望用品から、人命救護の為と判断しました。状況を鑑みて、ポイント消費は無しとさせていただきました≫

≪尚、スペースは商業施設ではなく任務の為の救済処置ですので、採算を取る必要はありません。その理由から、こちらのサービスが可となっております≫

 なんと太っ腹な事だろうか。採算についても説明もご丁寧に答えてくれて、スペースの中の人はきっといい人だろう。いるかは知らないが。

「わぁお、高性能。スペースはシステムと違って性格がいいね! ありがてぇ……! あ、今のシステムに言っちゃダメだよ? ま、そう言う事ならありがたくー」

 秦景楓は上機嫌に貰った物を抱え、スペースから退出する。

 彼の言葉を聞いて、喋らないスペースが何を思っていたかは分からない。が、一つ言えるのは、スペースがシステムにチクる事はないだろうという事だ。

 さて、必要なモノを手に入れた秦景楓は直ぐに自室に戻り、怪我人の様子を見る。

(とりあえず、呼吸は安定してるし、脈も大丈夫そう……山場は越えられたかな)

 手に伝わる脈の動きから、もう焦る程の異常はないと判断し、安堵の息を突く。そうして寝台の横に椅子を持って来て、いつ異常が出ても対処できるようにしておく。

 そうして秦景楓は、改めてその男の顔をよく観察していた。

 濃い紫の髪は質が良く、白めの肌もきめ細かで美しい。まるで人形のように整った顔立ちは、眠っている状態でも清廉な雰囲気を漂わせている。

(改めて見ると、すっごい整った顔立ちだなぁ……紫髪か、僕の茶髪より断然きれい……)

 感心しながらも、秦景楓はほんのりと妬ましくも思っていた。

 秦景楓の髪はオレンジがかったような明るめの茶髪で、このドラマの登場人物としての「秦景楓」も全く同じ色だ。というか九点九割同じ顔で相違点を探す方が困難なのだが、まぁそれはともかく。そんな彼の髪も、ここ最近はスペースで手に入れた割と良いシャンプーとリンスを使っている為、冷宮生活で失った本来の美しさを取り戻しつつあると言えるだろう。しかし、この男とは比べ物にならない。

 紫という色自体、上品な空気感を纏う色なのだが、まるでその一個上を行っている。髪が美しいのなら、当然顔も美しい。まさに造形美と言うべきであろう。

 思わずまじまじと眺めていると、男から短い唸り声が漏れた。

(……! 起きた、か?)

 確認してみると、男が微かに瞼を揺らした。そうして、瞼の裏から瞳が見える。

(わ……! 目まできれいとか、しかも翡翠色って! ほぼ宝石……!)

(いやっ、そんな場合じゃない!)

 感心している自分を脳内で叩き、秦景楓は男に声をかける。

「大丈夫? 自分の名前とか、言える?」

 問いかけると、男はまだ少し意識がはっきりしないのか、ぼーっとしたように頭を抱える。しかし驚き、そんな気の抜けたようになるはずの表情も、造形美のお陰で間抜けには見えない。麗人が憂いている様は、不謹慎にも絵にもなってしまう。

 数秒間が開いた後、男の口から答えが出てくる。

「司雲(しうん)……俺は、司雲だ」

「司雲。うん、いい名前だね。僕は秦景楓、秦が名字で景楓が名前。司雲が怪我をして僕の庭に落ちてきたから、応急処置をしたんだ。意識が戻ってよかったよ」

「あ、そうだ喉乾いてたりしない? 水あるよ、自分で飲めそう?」

「あぁ……っ」

 司雲は、自分で飲むと体を起こそうとしたが、痛みが走り叶わなかったようだ。

「無理しないで、結構いい傷貰っちゃってたみたいだったから、開いちゃったら大変だよ。ほら、飲める?」

 用意しておいた吸い飲み口を差し出す。司雲はほんのり嫌そうな顔をしたが、喉の渇きはあったのだろう。大人しく口を付け、水を嚥下する。

 一息を突き、彼は天井を仰ぐ。

「秦景楓……お前の、身分は?」

 そうして、そんな事をぽつりと聞いて来た。

 秦景楓は、少しの間考えた。馬鹿正直に答えていいのだろうか、と。

 しかし、この場合嘘をついても意味は無いだろう。

「妃だよ。ほら、男妃ってのあるじゃない? それなんだよねぇ。司雲も、王宮の人だよね?」

「あぁ。王宮に務めている」

 若干不愛想な態度だが、答えてくれはするようだ。

 王宮勤めというとかなり広いが、なんにせよ王宮に努めるというのは簡単ではない。身なりから下男の類ではないだろうし、それなりにいい役職にいそうだ。

「へー、王宮勤めかぁ。すごいなぁ、王宮って確か、かなり勉強してないと就職できないんだよね!」

「あぁ」

 淡白な返事だけを返し、司雲はそっぽを向いてしまう。

(まぁ、気が付いたばっかりだし、喋る気力もないよな……)

「じゃあ、僕はここにいるから。暑いとか寒いとか、お腹空いたとか……何かあったら遠慮なく声かけてね!」

 秦景楓は笑顔を見せながらそう言うと、座っていた席にまた腰を掛ける。

 司雲は、そんな彼を少しの間横目に窺うように見ていたが、やがて短い息を突いて目を瞑った。

「どうしてこうなっているかは、聞かないんだな」

「え? まぁ、深く詮索するモノでもないかなーって思ってね。それに、今沢山喋らせる訳にはいかないしね。訊くにしても、もう少ししっかり回復してからだねぇ。ま、安心してよ。無駄な詮索はしないでおく、司雲、なんかそういうの嫌いそうだしね」

 これは、秦景楓の偏見というか、経験則でなんとなくそう思ったのだ。

 司雲は何も返さなかったが、ただ一つ息を吐いた。それが呆れなのか安堵なのかはよく分からないが、まぁここも詮索する事ではないだろう。


 これは関係のない話だが、数刻前の王宮での出来事だ。

 皇帝である簫司羽が朝の公務をしていた時だ、太后――元言い、簫司羽の母、苑香が使者と共に現れ、こう告げた。

「愚息よ、聞いたぞ。皇后を蔑ろにしているとな。淳は非常に深く悲しんでおる」

 扇で口元を隠しながら、わざとらしく淳貴妃を哀れむように、そして簫司羽を咎めるような厳しい口調で言う。

 その時、簫司羽は眉間に皺を寄せながらも、仮にも母である相手に敬意を示すように言葉を返す。

「それがいかがなされましたか、太后」

「いかがもなにもあるまい。皇帝たる者が貴妃を蔑ろにするようではいけぬ、そうだろう? であるから、妾が特別に宴会を手配してやった」

 なんと恩着せがましい口ぶりだろうか。簫司羽はため息を漏らし、頭を抱える。

「はぁ……それで、その宴会とやらはいつの事です? 俺も暇ではありませんので」

「今夜だ」

 それとなく答えられた答えに、簫司羽は更なるため息を堪えるのに必死だった。

「否とは言わせぬぞ。亥の刻の初刻、園庭の東屋に来い。二人きりの宴会だ。妾の可愛い淳の憂い、旦那であるお主が晴らしてやるがいい」

 用件だけ簡単に告げると、苑香は従者を引き連れ踵を返す。

 母が去った後、簫司羽は凡そ「久しぶりに母と顔を合わせた息子」の表情はしていなかった。机に立てた肘で頭を抱え、隣で控える李公公に横目を向ける。

「李公公。今夜の予定は?」

 彼のいうこれは、

「残念ながら、外せぬ公務は入っていません。いつもの公務だけですので、断る理由になるかは難しいかと……」

「はぁぁ……なぁにが可愛い淳だ。あの女は、ガワが良いだけだろうが……仕方あるまい。今夜は、女のおままごとに付き合ってやるぞ。李公公、亥の刻までにそれっぽい服選んでおけ。適当で良い」

「御意に」

 ひょいひょいと手を払い、巻物に目を戻す。

 そうして、言われた通りの亥の刻。日はすっかり暮れ、園庭に規則正しく並べられた灯のみが足元を照らす、そんな午後九時程。東屋の机には、外でも食べられるような手で掴める夜食が並べられ、茶も二人分用意してある。席に先に座って待っていた淳貴妃は、どこか緊張した面持ちで彼を待っていた。そわそわと足を動かしながら、後から来るであろう簫司羽を控えめに探している。

 その時点で、簫司羽はそんな彼女になんだか「らしくない」と感じていた。

「あら、司羽。待っていたわよ! ほら、座って」

「……あぁ」

 愛想のない返事だけを返し、淳貴妃の向かいの席に腰を下ろす。

 しかし、簫司羽は食事や飲み物には一切手を付けず、付ける気配もない。腕を組みながら、ただ不機嫌そうに口を瞑んでいる。

 緊迫した重い空気。淳貴妃もそんな中で呑気にバクバク食える訳もなく、お陰で風に揺られる木々の音がやけに耳に付く、そんな状況だ。

(しかし、違和感だな。淳貴妃であれば、グイグイくるはずだが。どうして何も言わないんだ……皇帝を前に緊張するような奴でもないだろうが)

 横目で書類上の妻を見る。彼女は食事にこそ手を付けているが、進んでいる訳ではない。その様子にどうも違和感を覚えた簫司羽が、何を企んでいるんだと問おうとした時だ。

 背後から素早く殺意を持った気配が走る。これの感じ、覚えは十二分にある。

 これは、刺客だ――

 まぁ、秦景楓の今の状況とはなんの関係もない話なのだが。えぇ。

 さてはて、同じ世界線の時間軸、そんな事があった少し後に、司雲と名乗ったその男は知らぬ男の寝台で目を瞑っていた。

 寝ているのかは見ただけでは分からない。しかし、呼吸は安定しているから心配することも無いだろう。秦景楓は、任務の事を考えながら時を潰していた。

(しっかしまぁイケメン看病しちゃってるけど、簫司羽をどう攻略するかだよなぁ……なんかこう、運命的な出会いを果たせたら物語的にも良い感じに進みそうなもんだけど)

(やっぱり、壁の外に出ない事にはなぁ……だけど、こんな怪我人拾っちゃったら、完治するまで付き添わないと……あー、またシステムにグチグチ言われたりするかなぁ……だけどさぁ、流石に、刃物に刺されて死にかけてる人助けないのってのはアレだし、置いて例えば素連に丸投げして外出るってのも最低だし……ま、しばらくは仕方ないか。完治してからも、しばらくはリハビリとかいりそうだし。一ヵ月は動けないかな)

(さぁて、システムにはなんと言い訳したものかなぁ!)

 なんて、あの感じであれば恐らくシステムは納得しないだろう。そう「君の都合とか関係ないんだけど? お金払ってるのこっちだよ? 困るんだよねー、そういうの」とかそういう事を言うに決まっている。あぁ、思いだすだけでイライラしてくる、あの太っちょじいさん。クライアントだからってクリエイターを好き勝手使っていい訳じゃないのを知れ、パワハラかなんかで捕まっていろ。あぁいや、それはどうでもいいのだった。そんな風に考えているせいか、足の揺れが激しくなっている。

 そんな事をしていると、司雲が体制はそのまま、唸り声交りで言葉を漏らす。

「秦景楓。腹が減った」

「うん、分かった用意してくるね。あ、アレルギーとかは大丈夫?」

「何もない」

「おけ。出来るだけ早く仕上げてくるから、待っていてね」

 そう言えば、先程作ったじゃがいもの煮込みがある。あれを流用するとしようか。台所に向かい、冷蔵庫にしまっていた煮込みを取り出す。

(じゃふがいもすり潰せば、食べやすくもなるかな。肉は……うん、やわらかい)

(とりあえず、軽く煮込み直すか。あ、その前にもう少し肉細かくしとくか、一応ね)

 手際よく肉をもう少し細かくしてやり、煮込み直す。同時並行でおかゆも作り、時を待つ。

 それから出来た煮込みは、じゃがいもをすり潰して完成だ。おかゆも良い感じにふやけた所で、それをお盆に乗せて部屋に運ぶ。

 部屋では、司雲が身を起こしてベッドに座っていた。

「起きてて大丈夫なの?」

「下手に歩かなければ、問題ない」

 その様子は平然としていて、彼の言う事は強がりではなさそうだ。

「そっか。無理だけはしないでね、傷が開いちゃうから」

「その感じだと、自分で食べれそうだね。ご飯作って来たから、好きに食べて」

「あぁ」

 サイドテーブルに食事を置いてやり、自分は椅子に戻る。司雲は少しの間食事を見つめ、秦景楓に視線を向けた。

「まさか、毒を盛ったわけではあるまいな?」

「え、毒? 流石にそんなのは入れてはないけど。心配なら、僕が毒見しよっか?」

「……いや、良い」

 一考した後、司雲は出された提案を断った。

(毒を盛られる事がある立場なのか……? そう言えば、刺されていたんだし、狙われる程かなりいい地位にいるのかな……大変なんだな……)

 本来男妃というのもそれなりに狙われやすい立場なのだが、秦景楓は他人事のように同情していた。

 司雲はよく知らない男から出された料理に警戒はしている様子だが、空腹に促され木製のスプーンですくったおかゆを口に入れる。それから煮物の方にも手を付け、黙々と食べ続ける。

 この様子を見るに、悪くはなかったようだ。秦景楓はほっと安堵の息を突き、その様子を見守る。

「どう? 口にあうかな?」

「安心しろ、悪くはない」

 喜んでいいのか悪いのかよくわからない返答に、秦景楓は「そっかぁ」と微苦笑を浮かべる。まぁ、悪くはないという事は、不味くは無かったという事だ。この手の進みようを見るに、それは美味しい寄りだろう。そんな風に思考を自己完結させ、なら良かったとこくりと頷く。

 この様子であれば、少し目を離しても大丈夫だろう。

「それじゃあ、僕お風呂に入って来るね。好きにゆっくりしてていいからね」

 秦景楓はそう告げ、自室から立ち去る。背後から窺うような視線を感じたが、まぁこの状況では無理もないだろう。

 お風呂の温度設定は四十度、少し熱めくらいだ。秦景楓はこのくらいが一番好きだ。温まったお湯に浸かり、「ふぅー……」と半場おっさんくさい吐息を漏らす。

「きぃもちぃ……やっぱ風呂だよ、疲れた時はねぇ……」

 湯船の淵に腕を出し、顔を乗せる。

 一人で入ると広々、二人で丁度いい、三人だと流石にキツイくらいの大きさの湯船は、秦景楓一人でゆったりするにはとても良いサイズ感で、内装もこだわったお陰で銭湯気分すら味わえる。最高だ。

 秦景楓は暖かい湯で蕩けながら、壁の上部の吹き抜けから見える景色を眺めていた。

「サウナとかも追加してみてもいいかなぁ……ま、僕サウナアンチだけどねぇ……」

 なんて、よく分からない事を口にする。

 秦景楓は、昨今なんだかずっと言われているサウナブームに異議を申し立てたい部類の人間だ。体が整う? 何を言っているんだと。寒暖差で体を壊すに決まっているだろう、あんなの心臓に悪いに決まっている。絶対健康的な行為ではない、そもそもあの中は蒸し暑くて吐き気がするわ、と。しかし、そんな彼もろくに思考を回さずに独り言を言っていると、「サウナも追加しようかなぁ」とか言い出すのだ、何故なら何も考えていないから。

 他に人が聞いていたら確実に「お前は何を言っているんだ」と訝し気に突っ込まれる事も、一人の風呂なら言い放題だ。

(司雲、綺麗な人だよなぁ……造形美ってヤツ、羨ましー。僕も、顔はそこそこ良い方なはずだけど、あれには負けるよなぁ……なんというか、人形みたいというか。不愛想な所がまさにそれでねぇ……)

(んー、だけど……あれだよなぁ……冷宮の中に落ちて来るって、誰かが故意的にやった事だよな。ブスリと刺してから、それだけじゃ死なないかもだから高い所から落とした、って感じか? 何にせよ殺意しかないよなぁ、あれ……並大抵の人間なら、それで死にそうなモンだけど。司雲、かなり丈夫だよな。あれだけ深手だったのに、もう起き上がれるみたいだし。一体、何者なんだろ……)

 そんな疑問を抱けど、湯で揺らいだ思考で答えが出る訳もなく、また答えを出す意味もない。司雲が何者であれ、怪我人である事には変わりないだろう。

(詮索もされたくなさそうだったし、僕は大人しく、すべき看病だけするかぁ)

 彼は、昔から自分の立場と言うモノを弁えるのが得意だった。そうすべき場面は、数えきれないほどあったから。だから今回も、特別何かを抱く訳でもなく、事実を受け入れた。

 秦景楓は十分程湯船でゆっくりとしていた。

 その一方――司雲は口を紡ぎながら、空になった食器を眺めていた。そんな彼が何を考えていたのか、それは彼自身しか知らない事だ。


 話は変わるが、これまた場面が変わって、かつて秦景楓が生きていた「現実」の世界。シナリオ担当さんことまたの名を「最強の腐女子(自称)」、沈雪は自宅のソファーに身を沈ませながら、温かいアイマスの下で目をかっぴらいて考えていた。

(やっぱり、受けにしか心を許さない攻めっていうのは美味しいわよねぇ……! だけど、それだけだとちょっと味気ない気もしてきたわ。そうね、簫司羽の隣に一人、唯一彼が心を許せた忠実な従者がいる! とかも美味しいわねぇ。だけど、三角関係に介入されたらややこしくなるから、一歩引いてるくらいがいいわ。従者キャラなら、自分は主の一番にはなるべきじゃないって思ってるって事にすれば自然に一歩引かせられるし。そうしたら、設定上暴走しやすい簫司羽の緩和剤にもなったわね)

(まぁ、今思いついた所で本編には出せないんだけどねぇ。企画段階で思いつかなかったのが悔やまれるわ……もう、セルフ二次創作しようかしら!)

 なんて、そう思考の中だけで興奮気味に語る彼女は、表だけ見れば休日を優雅に満喫しているオシャレ女子だろう。

 そんな彼女の思考は、とっても参考になった。緩和剤、確かに必要だっただろう。それが無かったから暴走したと言えそうだ。

 物は試しだから、彼女の考えを参考にした。あとついでに彼女が敬遠していた正統派ヒロインというのも、物は試しだろう。事の顛末は、いくつもの因果が絡み合って出来上がる。蝶の羽ばたきですら台風を巻き起こすのだから、たった一人の存在の有無で結末が幸か不幸かガラリと変わる可能性だってあるのだ。だけど、どんな子がどのような風を起こすかは、やってみないと分からないだろう。

 沈雪は、それを過程段階で判断するのに相応しい子だ。招いた「秦景楓」のお陰もあって、今の所プログラムは順調だ。

 一つ弊害があるなら、「素連」に選んだ子が妙に勘が鋭い事だろうか。まぁ、プログラムがバレた訳ではない。問題はないだろう。


『システム再起動――秦景楓、攻略対象との接触を確認。これより任務を次の段階に進めます』


 星空の中、すっかり聞きなれた「彼女」の声が鳴り響いた。

 どうやら梃入れが上手く効いたようだ。


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