天帝、それ自体は勿論知っている。秦景楓の知識の引き出しにある辞書には、「宇宙をも司る最高地位の神」とある。これは秦景楓が生きていた現代社会では、一般的と言えば一般的だしマニアックと言えばマニアックかもしれない微妙な立ち位置の知識だ。
「あー、あれでしょ? すっごい偉い神様だよね。その肩書の通りの、天の皇帝っていう。それがどうしたの?」
「いえ。私、この出会いもきっと天帝様のお導きであると思うのです」
もじもじと少し気恥しそうに話す素連は、妹の顔をしていた。
「私、歳の離れた兄がいたんです。私が幼い内に、母曰く出稼ぎに行ってしまって、帰ってくる前に私も王宮勤めとなったので、あれから一切会えていなくて。もう、あまり覚えてないんですけど。なんだか少し、兄と重なるような感じがして……」
助けてくれた相手への恩義もあるのだろうが、彼女が秦景楓に向ける眼には尊敬が含まれている。
女子の言う「お兄ちゃんみたいな人」という褒め言葉は、即ち「恋愛対象ではない」「男としては見れない」という意味も含まれていて実は褒め言葉ではないと世間では言うが、秦景楓はそれも悪くないなと思った。そもそも、二十を過ぎた男が未成年にそっちの方面の感情を抱かれてなくてガッカリするのは、文字面が良くない。
本当によろしくない。事案だ。
「ははっ。そう言われると、ちょっと照れるな。だけど、素連さえよければ第二の兄と思ってくれたっていいよ。素連みたいな妹なら大歓迎だからね」
秦景楓は笑顔でそう返し、実在しない妹を妄想してみる。もしもだ、もしも平凡な家庭で父も母も健在していたら、下のきょうだいだっていたかもしれないだろう。そうしたら、自分はお兄ちゃんと呼ばれるだろうか、それとも兄さんだろうか。考えて分かった、自分は兄さん派だ。
そんなどうでもいい事を考えている秦景楓。素連は彼が何を考えているかこそ分からないものも、その百面相に笑みを零す。
「ふふっ、ありがとうございます。ちょっとだけ、そう思わせていただきますね」
微笑んだ素連に心が安らぐ。この感覚には、ちょっとだけ覚えがある。
(あ。この感じ……)
ほんの短い間だった、家族での平穏な日々。父が生きていて、母が元気で、家族三人で貧しいながらも穏やかなに過ごしていたあの時に感じた温かさだ。
(そっか。僕、仕事以外で他人と話したのって、大分久しぶりなんだ)
そう、仕事仲間こそいれど、彼に「友達」のような存在はいなかった。孤児として自力で生きる為に出来る事は何でもして、各地を転々と生きていた少年期には、一時の友情こそあれど友達が出来るようなモノではなかった。大人になってからは、仕事仲間は数えきれない程増え、それでこそよく思いだすシナリオ担当の彼女もその一人でそれなりに仲良くしていたが、それを「友達」と定義していいかは曖昧だった。
きっともう、素連は友達と定義してもいい人だろう。もしこの出会いが、彼女の言う通り天帝の導きだとしたら、秦景楓はそれに感謝しないといけないだろう。
「そっか、これが天帝の導きって事か。それなら、天帝に感謝しないとね」
「えぇ!」
和やかな空気の中、秦景楓の頭に不意に疑問が過った。
(天帝の、お導き……って事は、僕のこの「任務」も天帝が……?)
(いやそんな訳、って否定出来ないんだよなぁ。あのシステムも大概よく分からない存在だし……全部天帝が仕込んだ事だったり? だけど、秦景楓と簫司羽を結んで何か天帝にメリットがあるとは思えないよなぁ……アリがどの個体と番っていようが人間には関係ない訳だし、それと似たようなもんじゃないの?)
「秦景楓さん?」
考え込んでいると、心配そうな表情で素連が顔を覗き込んで来た。
「あ、いや! 何でもない。ちょっと、哲学を考えていて」
変な誤魔化し方だったが、強ち間違いではないだろう。天帝なんて不確定な存在なのだがら、その存在について考えるだけほぼ哲学だ。
しかし、あのシステムと名乗ってきたあれ自体が非現実的でよく分からないのだ。「実はこれは天帝の仕向けた事でーす! そんでもってシステムの中の人実は天帝でーす!」とドッキリのネタバラシ的なのをされたとしても、多分そんなに驚かないだろう。少なくとも、取れ高になるリアクションは出てこなさそうだ。
(一個非現実的なの持ち込んだら、もうなんでもアリ! みたいな所あるしなぁ……)
と、また他人がいる事を忘れて考え込んでしまう前に、素連に視線を戻す。
そうしてニコリと笑みを浮かべる。
「ゆっくりしていっていいよ。僕、庭造りの続きしてくるからさ、好きなタイミングで帰ったりもしてていいからね~」
このままゆっくりお話ししててもいいのだが、やはりそれは進めておきたい。今か川の周りに石を並べているのが途中で止まっていて、ちょっと気持ち悪い状態なのだ。
「あっ、手伝います!」
「いいの? けど、結構肉体労働だよ。怪我もあるし……」
素連の怪我は完治した訳ではない。何せそこそこ重傷を負っていたのだから、数日安静にしていたからといって完治するモノでもないだろう。冷やした事で腫れは大分引いているし、傷もそれなりに癒えているが、着やすく肉体労働をさせられる程ではない。
「いえ、出来る範囲は手伝わせてください。食事のお礼って事で」
秦景楓は知っている。こうなると、ダメと言っても引いてはくれないだろう。引いてくれたとしても、しょんぼりとされて罪悪感が出てきてしまうものだ。それなら、体に負担を掛けないお手伝いを……しかし、石は平均して抱えるほどの大きさはある為、彼女のこの細い腕には物凄い負担となる。考えて、素晴らしい事を閃いた。
「あ、じゃあバランスを見てくれるかな? 今、この川に沿って石を並べてるんだ、自然空間みたいにしたいから、等間隔に並べてる訳じゃないんだ。だから、遠目からみた感じどうかを教えてほしいな」
これが地味に時間を食っていた作業なのだ。ある程度並べて遠巻きから見てみて――と、やるのはどう考えたって効率が悪い。しかし、何せこの身は一つなもんだ。
例えるなら、洗ったお皿を拭いてもらうような簡単なお手伝いだが、素連は何かを任されたと言う事実だけで表情を明るくさせる。
「な、なるほど。わかりました!」
「それじゃあ、お願いね」
置きっぱなしにしていた石の詰められた押し車を進ませ、一つ一つ丁寧に並べていく。
「あ、今の石もう少し右に詰めた方が自然だと思います!」
「オッケー、もう少し右ね。このくらい?」
「はい、そのくらいが丁度よさそうです」
素連の協力のお陰で、効率が跳ね上がるように良くなった。お陰で昼頃には必要部分に全ての石を並べる事が出来た。
今日のノルマとしていた作業が半日で終わり、秦景楓は満足気に息を吐いて目を輝かせる。
「いやー、助かったよ素連。お陰で予定より大分早く並べ終わった。どうかな?」
「すごいです……この川も、秦景楓さんが自分でやったんですもんね。私には到底出来ません」
感動しの声を漏らし、彼女は流れる川に目をやる。
小さな滝が落ちた先、木のある小島を囲うように川が流れ合流し進んで行く、そうしたらまたその先で分裂し更に小さな小島を囲って循環している。秦景楓は自分一人の手でこの川を作ったのだ。
考えられるだろうか? 少なくとも、素連には出来ない。日々のほとんどをだだっ広い屋敷の掃除で過ごしていた彼女にとっては、想定も出来ない未知なる話だった。
「これからね、もっとすごくしていく予定なんだ! 目指すは桃源郷ってね。あそこの小島の所だけ石並べてないだろ? あそこに橋を掛けようと思うんだ! そんでもってあっちの小さい方の小島には植物植えてね。あと柵は立てる予定だよ、危ないからね。そしたら川周りは大方完成かな。あ、そうだ、亭も作ったりしようかなぁ」
秦景楓は嬉々として語った。とっても楽しそうに、きっと彼の頭の中には素晴らしい完成図が展開されているのだろう。
素連は、そんな彼に小さく微笑みを漏らす。その表情は、いつまでも少年の心を持つ兄を持つ妹のようでもあり、ほんのりと、無邪気な弟を見守る姉のようでもあった。