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【第五章】「冷宮入り」

 事の発端は数日前だ。彼女の主である皇后、淳貴妃は夜近くにおめかしをして皇帝の寝宮に向かった。

 可笑しい話ではないだろう。淳貴妃は正式な皇后で、時の皇帝簫司羽の列記とした妻である。

 しかし、正式な妻であろうと、女から男を求める事はふしだらだと敬遠される事だろう。加えて、宮に仕える者は皆薄々分かっているのだ。彼女は、単刀直入に言えば簫司羽から「嫌われている」と。それでも、彼女が「やる」と言うのであれば口出しは出来ない。誰も、「貴女は皇帝から嫌悪感を抱かれているだろうからガツガツ攻めるのはやめた方が良い」だなんて言えないのだ。

 彼女の身支度を手伝う侍女達ですらその指摘が出来ぬまま、淳貴妃は一番似合う衣を身に纏い、隙の無い化粧を済ませる。そうして、御付の同行も断り出掛けて行った。

 下女の中でも立場の低い素連は、嫌になる程に広い宮の回廊部分の掃除をしながら、遠巻きから気合十分に出かける主を見送った。この距離でも万が一と言うのがある、顔を隠すように礼をし、過ぎ去ったのを確認してから掃除に戻った。

 昼から始めもう夜も更け始めているというのに、まだ終わらない。あと一時間はかかる事だろう。素連は袖で汗を拭い、雑巾を再び水につける。

 そうしていると、室内の掃除を任されていた下女仲間が一仕事終えました! と言った雰囲気たっぷりに回廊に顔を出した。

「素連、あんたほんとノロイわねぇ……手伝おっかぁ?」

 腕を組んだ彼女は、ほんのりと呆れたような表情をしつつも優しさを見せてくれた。

 下女の中でも体力に自信がある彼女だ、彼女であればこの広さの庭と回廊の掃除はとっくに済んでいた事だろう。手伝ってもらえたら、きっとあとニ十分もかからない。しかし、素連は彼女の提案に首を横に振った。

「ううん。大丈夫だよ。外掃除が私の今日のおしごとだからね」

 この宮の下女の仕事は、朝に下女を取りきる、言わば下女の頭より割り振りされる。しかし、淳貴妃に仕える者は、そう長く持たぬまま辞めるか辞めさせられるかで消えて行き、下女の数は平均して片手に収まる程度と圧倒的人手不足だ。そうなると当然、まぁ常識的に無茶な量を背負わされる。今日の素連の一人外掃除が代表的な例だ。このだだっ広い庭を含め、無駄にデカい屋敷の回廊部分までが対象範囲だ。

「ノロイくせに真面目ねぇ。あまり無理そうならいいなさいよー」

 友達はそう言って、ひらいらと手を振って己の部屋に戻る。一日中一人で宮の屋内を掃除していた彼女の後姿は、それ相応に疲れを見せている。しかし、仕事が終わったのなら後はまかないを食す事が出来るのだ。

 自分もあと少しだと気合を入れ直し、柱に手を伸ばした。

 その日も、彼女はただ己の仕事を真っ当に行っていただけだった。確かに、そのはずだったのだ。

 それは、掃除もあと少しで終わるという時だった。突如お帰りになった淳貴妃が、不機嫌さを隠そうとせずにズカズカと宮に帰還した。素連はそれに気が付き、持っていたバケツを置いて礼をしようとした。

 しかし、それより先に、淳貴妃の手のひらが彼女の頬を襲った。その衝撃で素連の手から放られたバケツは汚れた水が派手に中身を溢れさせ、素連はびちゃびちゃになった板間に尻餅をついた。そのほんの一瞬の出来事で、全ての言葉を失ってしまった。

「じゅ、淳貴妃様……っ」

 慌てて見上げた己の主は、見開いた目を血走らせ呼吸を乱している。美しいはずの彼女の顔立ちが、鬼のように見え、素連の体が恐怖で縮こまる。

「アンタ、よく見たら良い顔してるのねぇ」

 そんな形相で放たれた言葉。本来、その台詞は褒め言葉と受け取ってしかるべきモノだっただろう。しかし、この場においてそれを文字面通りに「褒められた」なんて、そんな呑気な受け取り方は出来なかった。

 しかしその場では何もされず、淳貴妃は踵を返した。

 素連は理解できない頭で数秒間制止した後、びちゃびちゃに濡れた床を思いだし立ち上がる。

「掃除、しなおしだな……せっかく終わったと思ったのに……」

 なんて、しゅんとそうぼやき、落ちた雑巾を拾った。しかし、その時の彼女はまだ知らなかった。これが、これから襲い掛かる事になる不幸の発端になるだなんて。考えれば思いついた事かもしれないが、考えないようにしていたのだ。

 それから、仕事を熟す毎日。何も変わらない毎日の中に、ちょっとした違和感が生じた。淳貴妃とすれ違う度に、横目で睨まれるような、そんな悪寒が走った。逆に言えば、今日この日までは、その程度の事しか起こらなかったはずなのに。どうしてか、世の中は真面目な子がバカを見る。

「この子! 下女の分際で皇帝を誘惑しようとしたのよ! なんて下衆なのっ、私の装飾品も、アンタが盗んだんでしょ!?」

 ほんの今朝の事だ。あろう事か、淳貴妃はそんな罪を被せて来たのだ。

 この時、その場にいた者は皆分かっていた。これは淳貴妃の八つ当たりだと、彼女の憂さ晴らしの為の嘘っぱちに過ぎないと。しかし、それを分かっていた所でなんだ。こうなれば、もう助けてやる事は出来ない。

 多くの使用人の目の前で行われた私刑。主の気が済むまで、サンドバッグのように殴られた素連の域は絶え絶えで、最早立っている事すら叶わなかった。咳と嗚咽が止まなくなった頃、淳貴妃はようやっとその手を止め、己が殴った下女を尻目に踵を返す。

「その下女は、冷宮にでも入れておきなさいな」

 たった一言、そう告げて。言いつけられた者に許された返答は、「御意」の一つのみだった。

 痛みも癒えぬまま冷宮に入れられ、泣きわめく時間もなく不思議な青年に助けられた。なんとも劇的な一日だろうか。澄み渡る空を眺め、そんな思いにふける。

 そうしていると、背後から秦景楓が戻って来る気配を感じ振り向く。

「素連、お風呂沸かして来たから、入って来なよ。今から案内するから」

「あ、ありがとうございます。じゃあ、お借り、しちゃいますね……?」

 尋ねるような形で口にすると、秦景楓は嫌な顔は一切見せずに「うん、借りちゃいな」と頷いた。

「それと、着替えなんだけど。完全に男の物で悪いんだけど……今日はこれで我慢してくれるかな。流石に、女の物服の用意は無くて……」

 多少気まずそうに眼を逸らして言う秦景楓。それを見て、素連は気遣わせまいと返答する。

「あ、いえっ、お気遣いいただきありがとうございます! 最低限ちゃんとしていれば、着れればなんでも大丈夫ですので……」

 実の所、彼は事前に女物の衣装をスペースで交換しようかと考えて、実際スペースに入って交換する直前まで行動はしていた。しかし、それは辞めたのだ。

 どうしてかって? そりゃそうだろう。一人暮らしの男が、突発的に迎え入れた女性、その為の服が用意してあったらどう考えたって不自然だろう。

 妃の身分ではあるが、何も女装癖がある訳ではない。ゲイの気質があるにしてもだ、女の子の服を着たいなぁと思うようなタイプの人間ではないのだ。ここでごく自然に女物の服があると差し出して、そんな勘違いはされたくないだろう。されたところで害はないと言われればそうなのだが、あらぬ誤解はされるだけ後が面倒になるリスクが生じる。

 その中でも一番最悪なのが、いつか家に女の子を迎え入れようと思っている妄想癖な男だと思われる事だ。

 そんな理由もあって、服を仕入れる事は中断した秦景楓。素連が良い子で良かったと、表情に出さないようにそっと胸をなでおろす。

 小さい目のサイズの物を選んで彼女に渡し、お風呂の前まで案内してやる。

「それじゃあ、ごゆっくり~」

「は、はい。ありがとうございます」

 ここからは、レディー一人での寛ぎの時間だ。秦景楓はその場から踵を返し、半分ほど中身の減った瓶を懐から取り出す。

「この入浴剤、リラックス効果と療養効果があるって言ってたけど、実際どうなんだろ……」

 先ほど、お風呂の掃除を終えた後にスペースに入った。その時に女物の服を交換するのは止めたのだが、変わりにこれを入手したのだ。

 入浴剤なんて高級品、秦景楓自身はあまり使うことは無かったが、この手の効能は効果があるモノなのだろうか。しかしまぁ、漂う森のような良い香りは、この入浴剤に実際の科学的な効能がなかろうと気分をほぐしてくれる事だろう。

 秦景楓は庭に戻り、一仕事始めようと袖をまくる。

「と、その前に……」

 しかし、やるべき事を思いつき体制を立て直し、素連に見られていない内にとスペースに入る。

 スペースに入ったという事は、買うべきものがあるという事だ。それが何かというと、簡単に言えば、壁に穴を開けるのだ。

 突然なんの破壊衝動だと思ったかもしれないが、そうではない。素連が追放された女院と、秦景楓の住む男院を繋ぎたいのだ。流石に、年頃の少女を抱えて壁から飛び降りるような宛らアクション映画かのような事は頻繁にはしたくない。

 それに、少なくともこの後彼女を向こうの宮に送り返すのには、はしごを登ってもらう必要が出てくる。少女の柔肌を酷使する事でなったあの働き者の手では少々しんどい事だろう。

 こうも短時間に二回連続スペースに入る事は滅多にないが、規制がある訳でもないから問題はない。秦景楓は開けた白い空間に足を踏み入れる。

「ごめんねー、スペース。また大きな買い物になるんだけど、北側の壁に人が通れるような通り道を作りたいんだ。出来る?」

 問いかけに対し、数秒のローディングが入った。そうして、ポイントが書かれた紙が現れる。

「百ポイントね。おけ、じゃあお願いね」

 約束を取り付けた所で外に出ると、北側の壁にはアーチ状の立派な通り道が出来ていた。

(相変わらず、仕事が早い事だ)

 どこから目線なのか、秦景楓は腕組をして頷く。これで一つの危惧が無くなった所で、庭仕事に戻る。


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