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【第五章】「素連」

 秦景楓は、壁に耳を澄ませる。すると、先程ぼんやりと聞こえた声がはっきりと形を露わにした。

「違うんです! 私は、本当にやっていないんです……!」

 聞こえたのは、少女の声だった。推測するにまだ成人に満たしていない若い女だ。本来は鈴のように愛らしいのであろうその声も、必死の訴えで言葉の端が擦れていた。

 冷宮に入れられたという事は、即ち罪人という事になる。それでやっていないと言っているのであれば、要に無罪を訴えているのだろう。しかし、そんな彼女に慈悲はなかったようだ。

「すまないな。俺達だって、お前がそんな事をしたとは一切思っていない。だが冤罪であろうと、俺達は上の命には逆らえない」

 少しの罪悪感こそあれど、その言葉は冷淡だった。間もなくして、足音と門が施錠される音が聞こえた。どうやら、訴えは虚しく少女は冷宮に入れられてしまったようだ。

「そんな……」

 少女の悲愴なすすり泣きは、多くの人間の心を痛めつけるに十分な要素だろう。数秒の間を開けて聞こえたうら若き乙女の絶望したような声が、秦景楓の胸をきゅっと締め付ける。聞いてしまった以上、秦景楓は見て見ぬふりなど出来なかった。

 咄嗟にスペースに入り、声を上げる。

「スペース! 三メートルくらいのはしごと掴まりやすい縄をちょうだい。あと、一応傷薬も。合計何ポイント?」

 聞くと、品物と一緒にポイントが書かれた紙が出てくる。小計としては、はしご二十五ポイント、縄十ポイント、薬二ポイントだ。リーズナブルな価格で助かった。秦景楓は迷う事無く即決する。

「うん、分かった。交換して」

 ポイントが消費されたのを確認して、購入物を手に元の場所に戻った。壁にはしごを掛けていっちょ手を払う。

 我ながら、丁度いい見立てだったようだ。幸い壁の上は平面となっていそうだから、立つことは容易いだろう。一つ危険があるとすれば、他の人に見られる可能性があるという事だが。そこは迅速に対応すればいい。

「おっし、はしごは丁度いい長さかな」

 はしごを登って壁の上に立ちつ。下を見下ろしてみると、そこには少女がうずくまっているのが確認出来た。やはり傷をおっているようで、ここからでも頬が赤くはれているのが伺える。

 秦景楓は、手に入れた縄を垂らし少女に声をかける。

「もし、そこのお嬢さん。この縄に捕まる事はできる?」

 降り注いだ声に、少女は目を丸く壁を見上げた。

 少女の目に映ったのは、壁の上でしゃがみ縄を垂らしている青年。太陽に照らされたそんな存在は、少女にどうも無駄な神秘性をも感じさせている。

 少女は小さく見開いた目にそれを映し、一秒ほど固まっていた。そこに人がいるという単純な驚きに混じって、どうしてか感じさせた神秘性に息を呑んでいたのだ。

「お嬢さん?」

 しかし、呼びかけられた一声でハッとし、お世辞にも綺麗とは言えない手を伸ばす。縄は滑りにくいようになっていて、両手でしっかりと握り込むと上から同じ青年の声が降りかかる。

「そのまましっかり捕まってて! 全身でしがみついてもいいかも。直ぐに引き上げるから、少しだけ頑張って!」

 そんな励ましの声に頷き、足も使って縄に絡みつく。あまり乙女がしていい恰好ではないかもしれないが、そんな事を言っていられる状況ではない。上から引っ張られ、縄が持ち上げられる。少女は落下の恐怖に両目を強く瞑ったが、その心配もなく壁の上に降ろされた。

「ごめん、失礼するよ。文句なら降りてから言ってくれていいからね」

 青年の優しい声が掛けられ、次の瞬間、体にふわりとした感覚が過る。何事かと目を開けたら、美しき青年の横顔が直ぐ目の前に見える。俗にいう、お姫様抱っこだ。それに気付いた時、少女の顔がポッと赤く色づく。

 秦景楓は彼女を見ていなかったため、それに気付く事は無かった。一つ屈伸すると、軽く床を蹴って壁から飛び降りる。いくら抱えられているとはいえ、この高さから飛び降るのは恐怖だったようで、少女から小さな悲鳴が上がったような気がした。しかし、流石に怪我をしている彼女にはしごを降りてもらうのは気が引けたのだ。

 吸収を抑えながら見事地面に着地すると、少女を回廊に座らすような形で降ろしてやる。

「ごめんね、急に体触ったりして」

 パっと手を放し、改めて謝罪を入れる。そんな秦景楓に、少女は慌てたように首を振って否定をした。

「あ、いえいえ! それは大丈夫です……ただ、さすがにひやっとしました」

「あはは、まぁそうだよねぇ。軽い絶叫系アトラクションみたいなもんだからね、あの高さになると」

「ぜ、ぜっきょうけい、あとらくしょん?」

 口にされた聞き馴染みのない単語に首を傾げた。

「あぁ、何でもない。そういうのがあるんだよ」

 すると、誤魔化すように目を逸らした彼。その時少女の目には、秦景楓からどこか不思議なオーラが映っていた。それはまるで神秘的な存在、かの天帝の使いのようでもある。どうしてだかそんな風に見える青年をじっと見つめていると、視線に気づいた彼が「やっぱり、嫌だったかな?」と気まずそうに頬を掻いた。

 少女の目に秦景楓が摩訶不思議な存在に映っていたのと似たように、秦景楓からしてみれば、女子は未だかつてあまり触れてこなかった未知なる存在だった。だが、昨今のご時世でその体に不用意に触れようものなら世間一般で言うセクハラに該当する事は知っている。この世界にそういう概念があるかは些か謎だが、それも相まってどう接すればいいか掴めないのだ。

「いえっ、ほんとうにそこは全く気にしてないです」

「そう? それなら良いんだけど……」

 彼女の否定が、気遣いなのか本音なのかは秦景楓には計り知れなかったが、そう言ってくれているのならそれでいいだろう。少女の隣。少し距離を置いた所に座り、出来る限り好く見られるように意識して笑みを浮かべる。

「えっと、僕は秦景楓って言うんだ。男妃ってのは知ってるかな? 元々それだったんだけど、まぁ、色々あってね。廃妃として冷宮に入れられちゃったんだ」

「そ、そうなんですね。それは大変でしたね……あ、わたしはれんです。淳貴妃様の宮で下女を務めていました」

 素連と言う名の少女は、まだ幼さを感じられる愛らしく笑った。秦景楓は、それなりに可愛らしい顔立ちの彼女が下女である事を一瞬不思議に思ったが、よく見てみればその服装は妃の着るような見栄え重視の色のあるモノではない。どちらかと言えば、下働きする為の動きやすい服だろう。そう考えれば納得出来た。

「下女も冷宮に入れられる事あるんだね」

「本来、冷宮の役割はそれで間違いないはずですよ。まぁ、わたしの冷宮入りは、淳貴妃様のお言葉ですから……誰も逆らえません」

 彼女はしょもっと悲しそうに目を伏せた。

 先ほど、素連を冷宮に入れた宦官だかなんだかの男の言葉を思い出す。冤罪であろうと上からの命令には逆らえない、彼女の冷宮入りの全てはそういう事だ。

「そっかぁ。淳貴妃の事だ、きっとその理由も大した物じゃないんだろう? とりあえず、お風呂に入りたいよね。スッキリするよ」

 年頃の女の子にこう思ってはなんだが、素連の姿は薄汚れていた。腫れた頬や傷もあり、これでは可愛らしい顔が台無しだ。腫れた頬は冷やすとして、とりあえずまずはお風呂だろう。体だけではない、お風呂の湯は精神的にも良いモノだ。

「そんなっ、下女であるわたしなんかが、お妃様のお湯を借りる訳には……大丈夫です。井戸のお水を少し貸していただければ、それで十分ですので……」

「いいのいいの、遠慮しないで。大体僕は廃妃だし、立場は下女と似たようなモンだよ。あ、あとほっぺた冷やすモノ持ってくるよ。ちょっと待っててね」

 素連は遠慮したが、冷水を浴びさせるのは気が引ける。

 初風呂を楽しみにしていなかったわけではないが、それを理由に少女をこのままでいさせるのは男として頂けなかった。

 申し訳なさそうな素連を横目に、頬を冷やす為の氷のうを用意しに台所に向かう。実は、畑仕事で熱くなった体を冷やすのに使うかなと思って買ったモノがあるのだ。結局、井戸の水を浴びるので十分だったから使わなかったのだが。何かに使うかなと用意していた氷を入れ、ほんの少しの水も注ぐ。軽く空気を抜いて、これで完成だ。

「素連、ほら。これでほっぺた冷やしな。あとこれ、傷薬。好きに使ってくれていいからね」

「あ、ありがとうございます……」

 ほんの少し戸惑ったまま、秦景楓から氷のうを受け取り頬にあてる。ひんやりとした感覚が肌を伝い、小さく「ひゃ」っと声を漏らす。

 秦景楓は、そんな彼女に微笑みを零した。

「それじゃあ、僕お風呂の用意してくるから。そうだな、掃除しないとだから……ニ十分くらいで入れるかな。それまで好きにゆっくりしてて」

 素連は、こうなれば断る方が逆に失礼になるだろうと、素直に「わかりました」と頷いた。屋敷の中に戻る秦景楓を見送り、素連は氷のうを頬に当てながら空を見上げる。

「優しい人なんだな……」

 ぽつりと呟かれたその言葉は、誰に聞かれるまでもなく空気に溶け入った。そうして彼女は、ほんの数刻前の事を思い返した。


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