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【第四章】「『秦景楓』の願い」


「――楓――秦景楓」

 その時、「秦景楓」は誰かに起こされる声で目を覚ました。寝起きに開かれた視界はぼやけているが、そこにはよく見知った顔が映った。

 その優しい顔立ちを表そうとすれば、俗的に言えば爽やか系イケメンだろうか。顔がいいなぁなんてのんきに思い浮かべながら、「秦景楓」は体を起こす。

「んん……顧軒……? まだ眠いよ……何時?」

「寅の中刻だ。ほら、朝日がもう出そうになっている」

 顧軒は、顎で窓の外を示した。木の枠から覗く空は明るみ初めている四時の頃、まだ起きるには早い。

「ほんとだ……じゃなくて! なんでこんな時間に起こすのさ?」

 顧軒は目を丸くした後、微かに苦笑を浮かべる。

「まだ寝惚けてるのか? まぁ、まだこんな時間だもんな」

「この時間は、夜勤の見張り達の気が最も緩む時間だ。実際、俺もなんなく冷宮に入り込む事が出来た訳だしな。加えて、簫皇帝は先日隣国との会談を夜更けまでしていた。まだ起きてはいないだろう。この後宮から抜け出すなら、今しかない」

 顧軒は、真っ直ぐとした目で秦景楓を見ていた。そんな彼を見て、秦景楓は思いだした。先日顧軒と話し合い、この後宮から――いや、この国を抜け出す計画を経てたのだ。

(そうだ。簫皇帝、おかしくなちゃったから……)

 秦景楓の脳裡に過ったのは、つい最近の事。最初は凛と澄んだ星月の皇帝たる存在として映っていたそのお方は、次第に己に懐いてくれるようになり、そうして段々と狂っていった。

 独占欲と言えれば可愛い方だろう。「廃妃がお前である事が、こんなにも都合がいいとは思わなかった」なんて、恍惚に歪んだ眼に相手を閉じ込めんとする時の皇帝たるその存在。その時は、虫の知らせで察知し駆け付けた顧軒が割って入ったお陰で事なきを得たが。この先、どうなっても可笑しくないだろう。

 今、簫司羽は個人的な欲を抑えきれずにいるだけに過ぎない。しかし、いつ彼がその欲の為に皇帝の権力を行使しだすか分かったモノではなかった。

 秦景楓には、彼に対しての好意が一切ない訳ではない。時折見せる弟のような表情は、普段とのギャップでとても愛らしく思えた。きっとこれが、本当の簫司羽という一人の男の素顔なのだろう。

 皇帝である彼が、皇帝としてではなく「簫司羽」としての、誰かに対して取り繕う訳ではない顔を見せてくれる。それ程までに心を許してくれているその実感は、何事にも代えがたい幸福感があった。しかし今は、それ以上に恐怖が勝っている。このままでは、お互いの為に良くない。そう思えてしまっていた。

 故に秦景楓は、差し伸べたられた手を取った。その時だった。

「ほう、抜け出すと……随分と度胸のある事だな。秦景楓、顧軒」

 聞き馴染んだ凛とした声が、黒く淀んだ色を浮かべて彼等を捉えている。

 顧軒は掴んだ手を離すことはせず、そのまま秦景楓を己の後ろに隠す。ばっちし聞かれてしまった事は、今のセリフを聞けば分かった。もう、逃げる事は出来ない。

 顧軒は覚悟を決めて、簫司羽に立ち向かう。

「簫皇帝! お言葉ですが、貴方の執着はやや度を越しています! それはもう、依存の域です。秦景楓にとっても、貴方にとっても良くありません。ですから、ここはお互いの為にも距離を取るべきです」

「酷い事言うな、お前は。これ程気に入れたモノはないと言うのに、手放せと言うか。そんな事する訳ないだろう?」

 しかし、簫司羽は飄々と笑った。その中のどこかは、明確に狂っていたと言えるだろう。

 秦景楓は臆病だった。どうにか彼を宥めるべきだと分かっていても、守ってくれる顧軒の優しさに甘えるしか出来なかった。それは正しく、怯える小猫とも言えるだろう。

「顧軒。どうやらお前は、秦景楓の事を余程好いているらしいな。しかし、俺はお前を恋敵だと思った事は一度もない。それは、何故だと思うか」

 簫司羽は問うた。淀んだ瞳で真っ直ぐと相手を見据え、逸らす事もせずに。しかし、その問いは相手に答えを求める為のモノではない。固唾を飲んだ顧軒を目に、小さな一笑を浮かべる。

「己の身分を忘れたとは言わせないぞ。いくらお前等が勝手に戯れていようと、『妃』になった以上、その全てが王宮の……俺の所有権の中にある。言うなれば、『飼い猫』だからだ。大体は興味がないから放し飼いにしているがな。気に入った奴までも野放しにするほど愚かではない」

「喜ぶがいい。本当は、お前の事など排除してもよかったんだ。だが、俺のお気に入りは随分お前に懐いているようだからな。一緒に飼ってやるよ」

 顎を持ち上げられ、無理矢理合わされたその眼には、否と言わせぬ圧があった。その時、たった一つの真実、全ては簫司羽の手の上にあった物語である事を、彼はここでようやっと理解した。

 全ては罠だったのだ。油断した獲物を捕らえ、二度と逃げられないようにする為の巧妙な仕掛け。あの時バッタリ出くわしてしまったのを発端に、様々な所で微々たる違和感が生じていた。

 秦景楓に悪い言葉を吐いた冷宮の管理者が突如として姿を消した、なんの前触れも無しにだ。丁度その頃にいつも一日一食だけだったのに急に三食しっかりとしたご飯が出されるようになり、秦景楓がとても喜んでいた。

 同じ頃、皇后が何者かの手により毒殺され、その騒ぎによりアリバイのないの妃は次々に疑いを掛けられ数を減らした。その中で、追放された者達と同じように顧軒も罪に問われたが、何故だか彼だけ追放という形ではなく「冷宮入り」の処罰が下される事になり、今ここにいる。秦景楓を出助けするために何度も侵入していた冷宮に、廃妃として入れられてしまったのだ。

 誰も近寄ろうともしない冷宮、唯一の門は固く閉ざされ、内側から出るには高い壁を登らなければならない。顧軒だって同じような考えが過らなかったわけではない。ここは、軟禁に最適だと。

 奥歯を噛んだ彼の表情を目に、簫司羽は弾かれたかのように笑いだす。

「あははっ、今更気付いたか! どうやら、お前等は行動が少し遅れたようだなぁ」

「逃げようたって、もう遅いぞ。我が妃よ」

 言葉は無慈悲に現実を突きつけた。

 きっと、顧軒の身体能力さえあれば、秦景楓を外へ連れ出した時と同じように外に出る事は出来るだろう。しかし、そうした結果何が起こるかは、目に見えた事だ。

 恐れていた事は、知らぬ内に既に起こっていた。簫司羽は、皇帝の権力を己が欲求の為に行使したのだ。秦景楓は、怯えや諦めにも似たような表情で、顧軒の背に触れた手に弱く力を籠める。

「ごめん……二人とも、ごめん……」

 彼の心を満たした罪悪感は、「自分がもっとうまくやっていれば」という後悔でもあった。

 そんな彼を映した簫司羽の目は、とても愉快そうで。嬉しそうだった。それはまるで、ぽっかり空いた穴が埋まったかのような感覚。物心ついた時から付き纏う虚しさを埋めてくれた存在は、二度とここから離れる事が出来なくなった。

 こうして、冷宮の役割は人知れずにガラリと変わった。しかし、それでも表面上は変わらず罪人の拘置所で、そこに入れられた妃は皇帝暗殺未遂者と皇后の殺人容疑の掛った者、拘置所である事に誰一人として疑問を抱かないだろう。

 あれから何回夜を明かした事だろうか。もうすでに、数える気力を無くしてしまった。

 秦景楓は夜更けに吹く冷えた風に吹かれ、目をあける。

(違うよ。僕はただ、皆で仲良くしたかったのに。どうして、こんな事になっちゃったの……? どこで、間違えちゃったんだろう……)

 視界の先に見えた隣には、疲れ切った顧軒が眠っている。

 簫司羽は、顧軒を酷い目に合わせる事はしなかった。もしそんな事をしようものなら、秦景楓が悲しむから。しかし、従来外を駆けまわるのが好きなような彼だ。いくら敷地内であれば自由が利くとは言え、一つの空間に囚われ続ける事がどれ程苦痛になる事か。それを思うだけで、胸が痛む。

(もし、やり直せるなら。今度は、三人で幸せになれるような、笑い合えるような関係になりたい……)

 起き上がったその足取りは、夢遊病にも似ていた。机の引き出しには紙と筆があり、秦景楓はまつ毛を揺らしながらゆったりと筆を手に取る。

(僕はただ、のんびり暮らしたいだけなんだ。誰とも、争いたくなんてない。顧軒も、簫司羽様も、皆で一緒に、家族みたいに過ごせるような、そんな風になりたいんだ……)

 愿我们如同一家人般和睦相处,大家都幸福快乐――そう紙に記された文字達は、彼の切なる願いを表していた。

 彼の願う事はただ一つ。世の喧騒から離れ、皆で仲良く、のんびりと暮らす事だ。

 秦景楓は、文が記された紙を手に、夜の庭を歩いていた。石を打ち、付けた小さな火に紙をくべる。

「我等が星月の主、天帝に敬謙の念を。祈りを捧げ、慈情を求む。恩寵を願い、敬虔に承る……」

 口に呟かれた祈りの言葉。一滴の天の星がそれに応えるように光輝いたのを、頭を下げる秦景楓が目にする事は出来なかった。


『システム作動――精査クリア。祈りを受理しました。これより、プログラムを構築いたします――』

『――プログラム構築完了。命名、「シナリオ再構築プログラム」。これより、任務を開始いたします』

 ある場所で、誰の耳にも届かぬ音がそう告げた。

「あぁ。頼んだよ」

 たった一言返された男の返答を確かめたのは、足元に見える星月達のみだった。



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