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【第三章】「皇子」

 さて、産まれたっての皇子の人生と聞いて、人々はどんなモノを思い浮かべるだろうか。一流料理人による毎日の食事、一等級の布で仕立て上げられた服――人により様々あるだろうが、その多くがイメージするのは、そんな何不自由もない豪華絢爛な生活だろう。確かに、それも強ち間違いではない。貧民層を見れば今日食べるご飯もない人がいる中、王族である彼等はまず衣食住に困る事はない。

 しかし、憂いの一つもない生活かと聞かれれば、答えは全く否だろう。幼少期の簫司羽を見れば、大方分かる事だろうが。

 産まれたっての皇子。健康で頭の切れる皇子は、将来の皇帝の座を約束されたようなモノだろう。父に似た顔立ちは幼いながらに凛とし、整っていた。しかし、皇后である母は、どうしてかそんな息子を気に食わずにいた。母から向けられる目はいつも底冷えしていて、優しく微笑みかけてもらった覚えはない。仮に母の愛なるモノがかつてはあったとしても、それは赤子の内の短い間だったのだろう。

 そんな彼を導いたのは、かつての時の皇帝である父だ。

「いいか、阿旭。将来の皇帝たるもの、いつ何時でも気を抜いてはならない」

「お前には酷な話だが。味方は、いないと思え。良いか、私達にとっては、全てが敵だ」

 王座に腰を掛けた父は、皇帝たる威厳を感じる。しかし、そこにいるのは「皇帝」の彼ではない。一人の父、簫允として、今己が座るこの座を教えていた。

「将来お前が座るこの席は、多くの者が狙う場だ。その中には、権力を己が物とし、私利私欲を満たそうとする輩も多くいる。寧ろ、そう言った輩しかいないと思え。私達のような立場の者は、警戒するに越した事はないのだ」

「決して、腐れた輩に王座を渡してはいけぬ……阿旭。強くなれ」

 それが、先帝たる父の教え。

 皇子たる彼が気を抜ける瞬間は、滅多になかった。人前で涙を見せるなど言語道断。常に身分に相応しい人物であろうと、幼いながらも気高く振る舞う彼が真に幸せだったかどうかと訊かれれば、判定は危ういだろう。彼は友達と庭を駆けまわった事も、大人に悪戯をし正座させられた事もない。「阿旭」と呼んでくれるのは父だけ。周りの大人にとって、自分は常に一つの「皇子」でしかなかった。

 本来であれば、彼を我が子として最も愛すはずの「母」は、己を酷く嫌悪していた。何故かは知らない、知りたくもない。そして、聡明が故に見え透く、大人たちの黒く淀んだ欲。皇子が物を知らぬ幼子のうちに息を吹きかけておけば、媚びを売り好感を持ってもらえれば、いずれ王座に就く時の皇帝を己が傀儡とできるだろうと。将又、皇子の命を摘み取り亡き者にしてしまえば――なんて、幼い皇子は、そのような悪意の対象だった。

 信じた者は、簫司羽の生まれ持った皇子という立場だけに靡き、媚びていただけだった。

 料理がとても美味しく、それなりに懐いていた料理人から出された、いつもより豪勢な食事には毒が盛られていて、一日中熱に魘される羽目になった。悪夢が、いっそこのまま死んでしまえと囁いた。

 そんな環境の中で、どうして純粋無垢な少年でいられようか。そんな事は不可能だった。

 悪意や欲に苛まれ、幼いながらに彼の心には嫌悪感が漂っていた。

(大人は、なんと欲深い事か……)

 目の前で父と話している大臣が一人。まるで皇帝の意思を尊重し、敬うような口ぶりだが、その目には権力や金への醜い欲が渦巻いている。

「いやはや、流石簫皇帝。民草に対してお優しいこと、誠に感服いたします。しかしながら、その優しさが果たして国のためになるのかどうかは、甚だ疑問に思う次第。ほんの僅かばかり税の徴収額を引き上げるだけで、この国の財政はより安定するとは思いませぬか。貧しいからといって税を免れるなど、到底納得できるものではございませんぞ」

 ケタケタと笑みを仄めかせる狐顔の男。その顔自体は生まれつきなのだろうが、彼の内側はその胡散臭い外側に見合ったモノだった。

「口が上手いな、王大臣。お前は国の為と謳うが、それは金に苦しむ民が居る現状を知っていての言葉か? 誠に国を思っての台詞か、甚だ疑問だな。この案は却下だ、下がれ」

 手を薙ぎ、丞相を追い払う。大臣は敬礼を見せたが、その口元には、良からぬ影がある。

「御意に……しかしながら、お忘れなく。有象無象の民草に、貴方様のご判断に見合う成果は出せぬという事を」

 それだけ言い残し、彼は立ち去る。

「阿旭。見ていたか、あれが王宮の大人だ。王の奴は税収を上げる事を国の為などと言っていたが、あれは結局、己が良い思いをしたいが為の提案であろう」

「確かに税は必要だ、無くす事は出来ぬ。しかし、国にはどうしようもない貧しき者もいるのが現状、だと言うのに無暗に徴収を増やす訳にはいかぬ。それが招くのは、破滅であろう」

 否や、彼は紙を破き火にくべる。紙は灰と化し、炉の中に消えた。

「阿旭。賢明な王であれ。だが決して優しき王になりきる事はせぬように、仁義ある絶対君主であれ。それが、星月の皇帝たる者だ」

 父の言葉は強く、真っ直ぐとしていた。まるで、これがあるべき皇帝の姿だと示すように、そこに座していたのだ。

 言えば、飴と鞭だ。皇帝はそれらを巧みに使い分けねばならない。父のその言葉を、阿旭は……簫司羽はよく覚えている。

 そして、

「っ――父上!」

 仁義ある賢明な王が迎えた結末も、よく知っている。

 暗殺だろう。自室の椅子に、力なく凭れた父。戸惑いなく突き刺された殺意が、その胸から血を流させていた。

「司羽……っ、かつて、私の言った事を、覚えているか……?」

 簫司羽の存在に気付いた彼は、弱々しくなった言葉を紡ぐ。

「強くあれ。仁義ある、王であれ……その願いは、今も変わらぬ……っ」

「決して、我が弟に――凌に、王座を渡してはいけぬ。あ奴はもう、どうにもならぬのだ。欲に溺れ、己を見失った……。お前が、私の意思を継ぎ、星月の歴史を護れ……っ、よいな? 司羽」

 父の告げた最期の言葉に息を呑む。どうしてか、とても胸が締め付けられるような思いで、彼は力なく下がった拳を握り、顔を逸らした。しかし、それも一瞬の事。真っ直ぐと先帝を見据え、頭を下げる。

「父上の、御意のままに」

 今この場で、彼の認められた返答は、それくらいだっただろう。

 父は、どこか安堵したように弱く微笑み、目を閉じた。

「この簫司羽が、必ずや果たしてみせましょう」

 それは、彼が十七歳の時。その数日後、正式な儀式を得て簫司羽は若き皇帝となった。

 新たなる星月の生誕だ。執り行われる儀式の中、新たなる皇帝を、声を揃えて讃える者達。例えそこに心が籠っていなかったとしても、偉大なる「天帝」の下、誓いは仕来り通りに星月の空にて立てられる。それが仕来り通りの、伝統的な儀式だ。夜空の星月を映した酒を呑み、つい先日まで父のものであった王冠を継承する。

 そうした堅苦しい儀式を終えた後は、一気に場の空気が変わり賑やかしい宴会が開かれた。皇帝の為に用意された演舞や食事は見事なモノであり、一般の平民がどう足掻けど体感しようのない逸品であったが、簫司羽の心が浮つくことは無かった。

 明日には、休む間もなく先帝の葬式がある。そこから国全体が喪に服し、一ヵ月は娯楽の類が禁止される。今のうちに楽しんでおくべき事だと分かってはいるのだが、父を亡くしたばかりの子にどうしてそんな事が出来ようか。もう幼くないにしても、まだ大人になり切れていない十七歳の少年が背負ったのは、皇帝という立場の重荷。度重なったそれ等は彼の心を酷く沈ませ、宴を楽しむ余裕をも奪い取っていた。

 そうして、数多くの大人たちの喜びの言葉を生返事で流す彼の前に、見知った男が敬礼する。

「簫皇帝。貴方様の即位、心よりお喜び申し上げます」

 それは、父の御付きであり簫司羽のお世話係のようなものを兼ねていた、李公公だ。

「李公公……」

 その時、簫司羽は初めて誰かの名を呼んだ。

「本日より、貴方様の御付きをさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 彼のその身振りは、かつて父と接していた時に見せていた皇帝に対するモノだと気付いた時、簫司羽は改めて実感した、自分の身分は変わったのだと。そして同時に、もう幼かったあの頃のように話してもらえなくなるのかという、悲しさがあった。

 李公公は、そんな主の内心はなんとなく分かっていた。そりゃ分かりもするだろう。彼は、簫司羽が赤子だった頃から傍で世話をして来たのだから。嘘をつく時の癖や不機嫌な時に見せる無意識的な仕草ですら、よく分かっている。

 しかし、李公公には主の望む、その心の穴を埋める存在になる資格がなかった。何故なら彼は応家に仕える者に過ぎず、出過ぎた真似は赦されていない。李公公自身が、そう考え一歩引いていた。

 そうして現在、李公公は変わらず皇帝の御付きとして、お世話係の延長線として主の傍にいる。

「簫司羽様。湯浴みの準備が整いました」

「あぁ……今日は、湯浴みをしたら寝る。夕食は、お前が食うと良い」

「御意に」

 彼が警戒しなくていい数少ない寄り処として、そこにいるのだ。

 王族として産まれた子の人生は、特に長子である彼の人生は、決して順風満帆とは言えない。気を許した途端に裏切られるのが常の立場で、食事一つですら警戒しながら行わなければ命取りとなる立場で、どうして人生を楽しめようか。冷めたご飯は、どんな一級料理人が手掛けたモノであろうと美味しさが半減する。

「なぁ、李公公。お前は、来世があるなら、何になりたい?」

 どう見たって一人で入るには大きすぎる湯の中、淵に肘をかけ湯に浸かる簫司羽は、ふとそんな事を問うてきた。

 皇帝のその意味ありげな問いを前にした時、多くの者はその真意を探ろうと思考を回す事だろうが、簫司羽のそれが特別な意味を持つ問いでないのは長年仕えている彼には直ぐに分かった。

「そうですね。貴方のお傍にいられるのであれば、何者であろうと本望でございますよ」

「はっ、御付としては百点満点の回答だな。面白味には欠ける」

 簫司羽は一笑を飛ばし、水の動く音が軽く鳴り響く。そうして彼は、振り返って「御付」の李公公を横目に映す。

「だが、王族になりたいと言わなかっただけ評価してやろう」

「恐縮です」

 その言葉に、李公公は小さく頭を下げた。

 彼は、いつしか主の心を埋められる存在を――その傍で、味方でいてくれる者が現れる事を、切に願っていた。それは一種の、親心とも呼べるだろう。

 李公公は、湯のぬくもりにほんの少しでも緩まる主の背を目に、微かな笑みを浮かべた。

 本来であれば入浴中に人が傍にいるなど落ち着かないだろうが、入浴と就寝の間は人が最も無防備になる時間だ。特に敵が多い簫司羽から、離れる訳にもいかないのだ。それに、彼がこうして湯のぬくもりに気を緩ませる事が出来る相手は、李公公くらいしかいない。

 簫司羽は、三十分程湯で目を瞑っていた。李公公は、これは別に寝ている訳ではない事をとうの昔に知っていたが、ほんのりと心配になってしまう。

「簫司羽様。お風呂で寝られますと、私が貴方を抱えて運ぶ羽目になります故、勘弁していただきたいのですが」

「馬鹿にするな……大体、お前そんな無駄にガタイいいのだから、たまにはそれを活かせ」

 どうやら起きているようだ。色々な意味で安堵した李公公は、「良かったです」と苦笑交じりの表情を浮かべる。

「しかし、そろそろお上がりになってください。のぼせてしまいますよ」

「分かってる」

 湯から出した手で前髪をかきあげ、十秒ほど間が空いてから立ち上がる。湯の外で、李公公はバスタオルを彼に差し出す。王宮御用達の肩書がついているだけあって、なんともの質のいいそれで水滴をぬぐいてから、手渡された寝巻に袖を通す。一見ただの黒い布で作られたシンプルな衣だが、こちらもその肌触りはとても滑らかで心地のいい、睡眠への弊害を及ぼさないよう設計された一級品だ。

 皇帝の寝室もそうだ。捕り揃えられた調度品はどでも一級品で、一般平民であれば一つ売ったお金で一年は何もせずとも満足に食いつなげる程だ。しかし、簫司羽はそれらに一切興味を示す事はせず、真っ先にベッドになだれ込む。

「簫司羽様。再三言っておりますが、ご就寝前には白湯をお飲みください。ご用意はできておりますから」

「はぁ……それ、どうしてもやらないといけない事かぁ?」

 文句を言いながらも渋々体を起こし、李公公の手から杯を貰う。

 面倒くさそうに頭を掻いた後、杯に口を付け、丁度いい温度にまで覚まされた白湯を嚥下する。三・四度喉が上下した時、杯の中が空になり、簫司羽は大きく息を吐いた。

「白湯は、味がなくて美味しくない」

 不意に呟かれた子どものような文句に、李公公は慣れたように思わず漏れそうになる笑い声を堪えた。しかしその口元には微かにそれが現れていて、ついでに言葉にもそれとなく出てしまった。

「寝る前に糖分をお口にされると、虫歯になりますよ」

 簫司羽は彼の表情に気が付き、ムッと頬杖を突きながら杯を返す。

「何も甘いのをとは言っていないだろうが。もういい、下がれ。俺は寝るからな」

「御意に。それでは、お休みなさいませ。簫司羽様」

 そっと敬礼をし、部屋から立ち去る李公公。しかし、彼の仕事はここで終わりではない。主の寝首が搔かれぬよう、この門前で見張りをするまでが仕事だ。

(この仕事は、他に譲る事は出来ない……)

 すっかり暗くなった空を見上げ、李公公は一人心の中で呟く。

 流石に彼にも就寝が必要な為、夜中は夜勤の護衛に変わり変わりに立たせているが。出来る限りは長く、自分が護れるようにしている。



 そうした一方で、秦景楓はだが、

「んー! 我ながらきれいな編み目だ!」

 完成した雑草の編み物に出来に、目を輝かせていた。「これ、十ポイントくらいにはなるかなぁ」と、期待に満ちた声で独り言を呟く。そんな彼の頭の中に、既に本来の目的などすっぽ抜けている訳だが。仕方があるまい、本題が無理ゲーなのだから。 


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