秦景楓は何でもこなせる男だ。それは、物語の中の彼と現実で生きていた彼にある共通点。二つの間にはそれだけではなく共通点が多く、どことなく顔も近しい気がする。
それは、一体どれ程の確率の出来事なのだろうか。重なった偶然が起こした奇跡だろうか? 将又、何かしらの計らいで生じた必然か。不思議な事だが、秦景楓本人にとってそれはあまり気にすべき事ではなかった。
しかし、全く疑問に思わなかった訳ではない。空腹に苛まれている最中、現実逃避をしたがる思考は哲学に走り、その疑問も提示したのだ。だが、彼がそれをまともに取り合う事はしなかった。答え分からない事は、問うだけ無駄だから。それは、元より彼がそういう性格だというのもあるが、「ありのままを受け止める」「考えすぎない」「悲観視をしない」、そんな三つの信念が彼の中にあるからと言うのも大きいだろう。
「木々ある山がある限り薪の心配をする事はない」と言う、生きてさえいれば希望はあると言った意味合いの言葉に基づいている。いつだったか誰かに教えてもらった、「希望の言葉」だ。
――母を亡くしてまだ間もない頃の事。今日を生きるためのお金を得ようと仕事を探していた時、幼い景枫にもなんとなく伝わる、良い家の人であろう男性が歩いているのが目に見えた。仕立ての服を身に纏った、身なりの良い白髪交じりの男の人だ。知らない大人だったが、なんとなく彼は大丈夫な大人な気がして、景枫は声をかけた。
「おてつだいできることはありますか? ぼく、なんでもします。だから、おかねをください」
物乞いのような言葉に、男は最初少々訝し気な顔を向けたが、景枫の姿を目にした途端に小さく目を見開く。景枫の首に下がった彼の体に見合わない大きさの首飾りが映った彼の目には、少しの悲しげな色があったような気がした。しかし、景枫にそれが何故かなど分かる訳も無く、不思議に思っている間に男は優しい笑みを浮かべながらしゃがんでくれる。
「お金がいないのかい? なに、それなら何かをする必要はない。お爺ちゃんがご飯を食べさせてやろう」
「え……いいんですか? ぼく、こうみえていろいろできます! おもいものもつのは、まだすこしできないですけど……」
考えてもいなかった言葉に、景枫は目を丸くした。しかし、それに驚いたのは男の方だったのだろう。ぽかんと一驚した後に、小さく声を出して笑う。
「ははっ、こう見えて、お爺ちゃんの仕事は少し難しんだ。それに、私は小さい子に手伝わせるほど、落ちぶれていないからね」
穏やかな表情を浮かべる彼からは、どうしてか安心感があった。なんだか、記憶の片隅にひっかかるような、懐かしいような気分。目に映った歳を重ねたおじさんに、どうしてかそんな気持ちを抱いたのだ。
「ほら、欲しい物を言ってごらん。お爺ちゃんが買ってあげよう」
彼が向けた視線の先にあるのは、美しい光を魅せる赤い提灯の群れ。それなりに賑わっている商店街からは、一度意識すればお腹が空いてしまいそうな程、美味しそうな香りが漂っている。
空腹には勝てず、相手が良いというのなら……と、景枫はこくりと頷いた。
きっとそれが、景枫にとって一番贅沢をした日だっただろう。最初は控えめにあれが食べたいと口にしていた彼だったが、嫌な顔一つもせずに買い与えてくれるお爺ちゃんに、いつの間にか浮かれて、あれもこれもと強請ってしまった。
気が緩んだからか精一杯の敬語も途絶え、彼は久方ぶりに子供らしい無邪気な笑い方をしていた。つないだ手の先で、お爺さんは目を細め、幼子と対話する。そうして商店街を食べ歩きする二人は、傍から見ればまるで祖父と孫のようだっただろう。
付かぬ間の孫ごっこの時間はあっという間に過ぎ、すっかり日は暮れてしまい、空は真っ黒に染まった。暗いのは苦手だった。しかし、この場所はとても人も光も明るく、怖さを感じない。安心して、彼は沢山のご飯を食べる。
暗がりで灯されるいくつもの赤い光の下、岩で作られた腰掛に二人で並んで座る。饅頭を手にした景枫は、張りすぎてしまった事に多少の反省をしながらそれを見つめていたが、これからこんなに贅沢できる事はないのだから、好きなモノを食べるのなら今のうちだと気持ちを切り替え、はむっと饅頭を頬張る。
小さな頬に溜まる、もちもちの皮と甘い餡子の最強コンビ。頬が落ちそうなその味覚に、小さな子どもはニコニコと幸せそうに笑う。
お爺さんはそんな彼を微笑ましそうに見守っていたのだが、その内に何かを考え込むように顎に手を当て、少しして覚悟を決めたような表情で小さく頷いた。饅頭に無我夢中な景枫がその一連の流れを目にする事はなく、「小景」と呼ばれ顔を向けると、お爺さんは優しい老人の顔を浮かべていた。
「君さえよければ、お爺ちゃんのお家に来ないかい? この世界は、一人で生きていくのに向いていない。小さな子どもとなれば、猶更に」
悲し気な彼の瞳には、他でもない景枫が映っていた。目に映る幼い子どもに重ねられていたのは、一体なんの影だったのだろうか。その事を、景枫が知る由はない。
なんとなく、景枫の勘は言っていた。この人なら大丈夫だ、気を許して良いと。しかし、
「ううん。やめておく」
景枫は小さく首を振った。
「おじちゃんはいい人だけど……ぼく、がんばってみたいの」
答えた彼の視線は真っ直ぐとしていて、そこにはどこか幼子らしくない強い意志を感じられる。
これもまた、どうして断ったかなんて覚えていない。しかし、その言葉は強がりでも何でもなく、ごく自然にそう思っていた事は確か。それが、景枫という子だった。
「そうか。君は、強い子だな」
お爺さんはそんな彼に弱く笑い、顔を前に向ける。提灯の光がやけに眩しく、年老いた目には少し毒だった事だろう。そうして彼は、子の小さな頭にポンと手を添える。その手は、皺も刻まれ多少骨ばっていたが、何だか心地のいい手だった。
「『留得青山在、不怕没柴烧』……覚えておくと良い。これからの君に、大事な言葉だ」
そうして教えてくれたその言葉こそ、今の秦景楓が胸に掲げる、「木々ある山がある限り薪の心配をする事はない」。己の信念を築き上げた種そのものだ。
男の顏も声も、こうして過ごした思い出の記憶ですら朧気で、大人になった秦景楓が思いだそうとしても思いだせない記憶だが。
その日の朝、秦景楓は陽光の暖かさに包まれながら目を覚ました。ゆったりと上半身を起こし、大きな欠伸を一つする。
「ふわぁ……なんだか、懐かしい夢みたような……」
秦景楓は夢を覚えている事の方が珍しく、今回見たような気になっている夢も、例の如く全く覚えていない。しかし、どこか懐かしいと思えた気持ちは心に残っていた。
(なんだろう、少し覚えてるような気がするけど……出てこないなぁ……)
寝起きのぼやっとした頭を抱え、ほんの少しだけ思いだそうとしてみる。
見た夢の記憶は、寸の所まで浮かんできていた。しかし、五秒ほど考えて出てこなかったため、これはもう思いだせるモノではないのだろうと思考を切り替え、袖机のご飯に手を付けた。
朝はそうして用意されているご飯を食してから、今育てているモノたちの様子見と手入れを行った。今の所は順調と言えるだろう、二日目にして行き詰まっていたらそれはそれで問題だが。
「庭も整備されてきた所だし、鶏仕入れるかぁ。卵食べたいもんな」
新たな試みを構築しながら、昨日編んだ小物達が崩れたりしないよう丁寧に竹籠に入れる。
さて、合計でいくらになる事だろうか。それ次第で、養鶏がどう転ぶかが決まる。
この時、既に彼の頭の中に「簫司羽」という単語は無かっただろう。最初に言い渡された任務の事を大方意中から外し、最早恋愛シミュレーションゲームが農業ゲームに変わっているようなモノだ。しかし、仕方ないだろう。本題の恋愛ゲームが本当に無理ゲーなのだから。
そもそも。、ドラマ内の「秦景楓」が皇帝に近寄ることすら出来なかったという設定の時点で、無理難題なのはお察しなのだ。それなら、こうやって稼いで言った方が余程堅実ではないか?
まぁ、秦景楓の場合、任務が可能か不可能か以前に、攻略対象がいるという事をすっかり忘れてしまっているのだが。今の彼の脳をしめているのは、この雑草ハンドメイドが何ポイントになるかという期待とこれから待っている鶏とヒヨコ達との出会いへのワクワク感、後は雑草がなくなった後は木彫りでもしようかとか、どんな庭にしていこうかという計画だ。どうしたって、色恋とは程遠い思考だろう。
餓死しにかけた一昨日とは打って変わって、彼はとても穏やかで清々しい気持ちでいた。爽やかな朝日を前に背伸びをして、バッチシ気合を入れる。
「さぁて、今日も働きますかっ!」
都合の悪い事は大体忘れた秦景楓は、そうして今日もポイント稼ぎと仕入れの為、意気揚々とスペースに入ったのだった。