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【第一章】「生への望み」

 そうして、彼は想いにふけた。己のこれまでの人生、登場人物としての「秦景楓」ではなく、自分自身としての秦景楓として、記憶が脳裏に蘇る。

 彼は孤児だった。どうやら父は良い家の長男だったようだが、とある貧家の娘に一目惚れをした。貧しいながら必死に頑張る彼女に心魅かれ、何不自由なく暮らしていた今までの己の恥じた彼は、親の反対を無視して彼女に求婚し、また同じく彼に惚れていた母はそれを受け入れ、めでたく結ばれたようだ。

 しかし、その恋は決して祝福されたモノではなかった。勘当された父は、今までの裕福な暮らしから一転、時には霞をも食うような生活を強いられた。愛の力というとギザであろうが、二人はなんとかそれを乗り越え、少しずつだが商売も軌道にのる気配が出て、少なくとも食事が出来ない日がなくなった頃、彼等は子を授かった。彼等は、裕福でないながらも幸せに過ごしている、ように見えていた。

 だが、もとより苦労を知らぬお坊ちゃまだった男だ。本人が気付かぬ間に密かに積もったストレスが彼の体を壊し、十分な医療も受けられず死に行った。それは、景楓が二歳の時だった。

 それを皮切りに、母はやせこけて行った。愛する者を亡くした彼女は悲しみに暮れ、そんな彼女の心情に釣られるように景気が悪くなる。商売の売れ行きが下がり、食べられるご飯が少なくなり、ひもじい思いをしながら、彼女は必死に息子を、景楓を育てた。

 あまりにも昔の事で、景楓本人はあまり覚えていない。しかし、確かに記憶に残る、母の優しい表情。少ない米に粟を混ぜ、そうして出来上がった質素なご飯を全て与えてくれた。彼女だって、お腹を空かせていたはずだ。最低限の食事と水で、十分に栄養を得られぬ体、疲弊した心、全てが彼女を壊し、徐々に、徐々に弱っていく彼女に死が訪れるのは、当然の事だろう。

 それは、景楓が七歳の頃だった。

 それから、彼は必死に生きた。

「すみません。おみせのおてつだいします。なんだってします。だから、おかねをください」

 これは、その頃の彼が絶えず口にしていた言葉だ。両親が死んだ、自分は一人だ。そんな境遇は変えられない。だからこそ、前だけを見て真っ直ぐ進む。くよくよせず、受け入れる。これはきっと、試練なのだと言い聞かせて。彼がシステムに天国行きだと判断されたのは、そういう性格だったからだろう。決して盗みはしなかった、母はききっと、それを望んでいないから。

 母は、天上で父と再会できただろうか。父と美味しいご飯を食べて、笑えているだろうか。自分もそこ行きたいと思わない訳ではない。しかし、母と約束したのだ。「生きて、幸せになる」と。

 だから、生きなければいけないのだ。

 いつの間にか眠っていたようだ。秦景楓は体を起こし、外を見る。

 どうやら、朝のようだ。壁に隔てられたお陰で空が広がっていないが、少しでも覗いた空と感じる明るさで大体分かる。

「朝、か……」

 なんだか気だるい頭を叩き起こし、さて今日の粗飯はと袖机を見遣る。しかし、そこには何も置かれていない。

「忘れてやがる……」

 故意か過失かは知らないが、時折一日一回のご飯すら用意されない事があるのだ。

「はぁ、種でもあれば自分で育てるんだけどなぁ……自給自足はお手の物、ってね。あの雑草、食べられるかな」

 なんて、多分あれは食べられないだろう。雑菌が付着しているに決まっている。そう考えている所に、誰かの気配が部屋に入って来る。

 気配の方を見遣れば、そこには狐顔の太监がいた。遅れてご飯を持ってきたのかと思えば、その手には何も持っていない。

 起きている秦景楓を目に、男は薄ら笑いを浮かべる。

「なんだ、まだ生きていたのですね。そろそろ死ぬ頃合いだろうと思ったのですが」

 なんて、そんな失礼な事を堂々と言い放つ男。ムッとした秦景楓に、ゆらりと目を細めて笑う。

「貴方は武芸全ての才を持っているようですが。無い袖は振れない、と言いますしね。ここには、剣も琴もない」

 まるで挑発だ。実際、この狐顔はわざと怒らせるような口ぶりをしているのだろう、その表情が全てを物語っている。

「ですが、体はあります。舞や歌であれば見せてあげますよ、ま、あなた方のお陰で質は落ちたでしょうが。それでも貴方以上は出来るはずですからね」

 仕返しと言わんばかりに、言い返した秦景楓。狐顔はそれに嘲笑を浮かべるとすぐさま立ち去った。少し様子見をして満足したのか、一体何がしたかったのだろうか。まさか本当に死んだかを確認しに来たと言うのだろうか、顔に見合った意地の悪い男だ。

 そもそも一日に一食しか出してこないのが答えだろう。秦景楓に衰弱死でもして欲しいのだ、あの性悪共は。

 結局、その日はご飯の支給がなかった。例の如く、腹の虫はこれ以上も無い程文句を言っている。

 しかしだ、流石に雑草は食べたくない。洗って茹でれば食べられるには食べられるかもしれないが。慣れない味の葉物野菜だと思えばいい。とは思うのだが、青々しければいいと言う話ではないだろう。流石にこの荒れた庭にある雑草は頂けない。生理的に無理だ。

 本編では、公式カップルである顧軒がそんな親友を助けるべく奮闘するはずなのだが。その肝心の顧軒の姿が未だ見えないのだ。しかし、それもそうだろう。恐らくここは、ドラマと全く舞台を使ってはいるが、全く同じ世界ではない。そもそもこの「秦景楓」としての記憶に、あるはずの顧軒との思い出がないのだ。女だらけの後宮で、肩身が狭い思いをしながらする男妃仲間同士として、苦悩を分かち合った記憶も、気に食わない太監に「性器切られてるくせに」と愚痴を言い合ったりした記憶が丸ごとない。これが答えだろう。このシナリオは、ドラマとは別の世界線。言わば、パラレルワールドだ。

 顧軒の助けは望み薄だろう、諦めよう。しかしそれでも、腹は立派に空く。

「まぁ、一日くらいは大丈夫だ……」

 覚悟を決め、腹の虫を騙す為にも水を飲む事にする。汁腹も一時というくらいだ、誤魔化しにはなるだろう。

 結局その日は食事が出来ず、お陰で思考がろくに回らず何も出来なかった。人間、あんな粗飯でも行動エネルギーとしてくれるのだと実感しながら、ベッドの上で天井を眺めていた。

 次の日はいつものご飯が用意されていたが、相変わらず質素な事だ。

 どう見たって昨晩の残飯の寄せ集めのような飯が丸一日ぶりの食事とは、悲しい事だ。そりゃあるだけありがたいのだが、しかし、ご飯があろうがなかろうが任務は一向に進展せず、ただ只管に考えるだけの毎日には眩暈がしてくる。

 そりゃ彼だって、こんなにも必至に打開策を考えている。しかし、このろくに栄養が採れていない体で、高い壁を乗り越えようにもどうやって登れと言うのだ。皇帝に会うには、どう足掻いたってこの壁を乗り越えなければならない。

 部屋に籠って執務を執り行っている皇帝なんか王宮内ですらかなりのレアエンカウントだと言うのに、加えて簫司羽には警戒心が強いという設定があるとも来たものだ。そもそもスタート地点に立つことすら不可能に感じてきた。そして、打開の要となりそうな顧軒は未だ現れず、外に出る事も叶わない。これで一体どう攻略を進めろと言うのだろうか、あのシステムは。

(おい、本当に任務クリアさせるつもりあんのか、あのシステム……進行不能バグ起きてない、これ。デバックちゃんとしたのかぁ)

 一向に進展はせず、そんな文句は日に日に増していくばかり。本当に、進行不能バグかと疑う程、何も出来なかった。

 そうして、ここに来てから一週間経ったその日、起きた彼が一番に思った事は一つ。「あ、死ぬ」だった。袖机にはしっかりと粗飯が用意されていたが、食べる気が起こらない。なんとか体を動かし、起き上がったが、まるで鉛でも詰まっているかのようだ。

 秦景楓にはなんとなく分かった、溜まったものが一気に来たのだろう。

 彼の中にあった空腹のダムが決壊し、溜めに溜めていたそれが物凄い勢いで秦景楓を襲っているような感覚だ。眩暈がするし、なんなら吐き気もする。これは、あれだ。空腹感によってせりあがるタイプの空腹だ。そんなのは幼少期に経験済みだが、その比ではない。

 意識が朦朧としている。体の内側は必死に抵抗しようとしていたが、それも徐々に弱くなってきているような感覚が、確固たる生存本能を崩そうとしている。

 これは死ぬ――本能がそう告げていた。頭は必死に生きる術を探そうと今までの記憶を甦らせるが、極限まで詰まった餓死に対する解決法など、いくらなんでも知る訳が無い。

(そういえば、この世界で死んだらどうなるか確認してなっ――)

 気付いた時、その視界にきらりと光るものが映った。

 それは、翡翠色に輝く珠の首飾りだ。珠の中には、よく見れば蓮の花を模した物が浮かんでいるように見え、首にかけるための紐ですら巧みな技術によって作られている。売ればしばらく食う物には困らないであろう、見事な装飾品だ。

 はっきりと動かない脳でも、これが何かは一目で理解出来た。

 忘れる訳がない、これは母の形見だ。

 勘当された父が、実家から唯一施されたと言っていた物だ。「女に渡すも金にすると良い」と、秦景楓は顔すら知らぬ祖父に渡されたらしいこの首飾り。求婚の際、買えない指輪の代わりとなった。二人の愛の象徴だ。

 母も父も、どんなにひもじくともこれを売り飛ばそうとしなかった。だから景楓も、これだけは死守し続けた。これを売ってくれれば大金をあげようと持ち出してくれた大人の話も、迷わず突っぱねたのが。これを手放せば母が悲しむだろうと思っていたから。死ぬまで大事に抱え、いつかあの世で返そうと思っていた。

――生きて。幸せになって。

 その時、そんな母の言葉が聞こえたような気がした。

「ママ……」

 微かに震え続ける手で握りしめた。幼かったあの時、籠らない力で精いっぱいに繋ぎとめようと母の手を握ったあの時と同じように。

 そんな時だった。翡翠の珠から突如として眩い光が溢れ出し、部屋ごと秦景楓を包み込んだのだ。

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