深夜――夜行服を身に纏った男、
今の彼は秦景楓ではなく、皇帝を暗殺する任務を課せられた暗殺者。暗殺者Aの役として、潜入シーンの撮影中なのだ。しかしそれは、中々監督の思うような絵が撮れず難航している最中だ。
「カット! 秦くん、もうきもぉーちだけ、こうさ、魅入ってしまうような走り方できないかな? 良い線いってんだけどね!」
監督の声が割り込む。もう何度目かは数えていないし、数える意味もないだろう。
「魅入ってしまうような走り方、ですか……」
監督の今一よく分からない要望に、顎に手を当て思考する。走り方に魅入るもなにもあるのかという疑問は頭の片隅に沸いているが、まぁ無視をしよう。モブ役であろうと、監督の要望に応えるのが筋ってものだ。
「こう、ですか?」
秦景楓は、思いついた走りを監督の前で軽く披露する。暗殺者という設定を守りつつ、視聴者が魅入ってしまいそうな動きを意識したそれは、監督の脳内で思い浮かべられていた理想に限りなく近しいモノだったのだろう。
「そうそれ! それで行こう! じゃあ位置に戻ってー! 皆、これで今日の撮影区切りだから、しまってこ!」
「はい!」
嬉々として取り仕切る監督の言葉に、スタッフ一同で返事をして、皆が最後の気合を入れる。長丁場の撮影は中々に気力を削って来ていたが、後少しだ。もう終わらせたいという気持ちが現場に満ちる中、秦景楓も頬を叩いてやるぞと心の中で念じた。
その時だった。
(ん……なんか、きな臭い……?)
そう気付いた時、その背後で耳を劈くような音が響き、それを脳が処理する暇もなく体が熱い爆風に押され、数メートル先の地面に突きつけられる。
「秦さん!」
スタッフ達の駆け付ける声が脳にぼんやりと届いている。
(あんだけ大きな音を聞いても、鼓膜って案外破れないんだなぁ……)
なんてそんな現実逃避のような事を考えながら、彼の意識は眠りに付くように沈んでいく。
『システム作動――対象者の意識の乖離を確認。これより任務を開始いたします』
落ちる直前、そんな女性だか男性だか区別のつかないような声が脳に届いたが、それを気にしている時間など彼にはなかった。諸に爆風を食らった体は火傷を負い、それに加え強く体を打った衝撃はかなり重症で、彼の生きる力をいとも簡単にそぎ落としたのだった。
〇
第一に沸いたのは、数秒間の困惑だった。無理もないだろう、そこは謎の空間なのだ。目を開けた秦景楓の視界にまず映ったのは、澄み渡った綺麗な青空。普通、白い天井が見えるのがお決まりなのだが。加えて、自分がいま横たわっている場所はどう考えたってベッドではない。しかし、コンクリートの地面でもなければ、芝生の上でもない。
「は……? どこ……」
素っ頓狂で間抜けな声を漏らしながら、徐に上半身を起こす。そうして改めて辺りを見渡してみるが、それでも尚、謎の一言に尽きる状況だった。
地面は白く、少しもこもこしていて雲の上を思わせる。空間に終わりは伺えず、しかも何もない。そうなると、秦景楓が思い当たったのは一つだけ。
「ここが、天国かぁ……思ったより、何もないんだな……」
目に映る手に、火傷の跡はない。体の痛みもない為、怪我は治っているのだろう。
一先ず、自分は天に昇れる人間だったと安心すべきだろうか。ぼんやりとそんな事を考える最中、パソコンの起動音のような音が耳に届いた。
『――おはようございます、秦景楓。ワタシは移転システム。人々を別世界へ移転させる、転生の為のシステムです』
無機質な、男とも女とも言い難い機械音がどこからか聞こえる。驚いた秦景楓は「え」っと声を漏らしながら辺りを探すが、どこを見ようが声の主らしきものは見当たらない。
『要求――アナタには
秦景楓の困惑を放って、機械音は無感情にそんな事を告げる。
「は?」
『要求――アナタには簫司羽を攻略し、五千ポイントを取得していただきます。任務達成の暁には、アナタを元の世界に生き返らせましょう』
秦景楓の疑問符を、聞き取れなかったと判断したのだろうか。一言一句違わない説明をもう一度告げるが、今の「は?」はそういう意味ではない。内容が意味分からないと言う意味の一音だ。
「いや違う、もう一回話してとかそういう意味じゃない。え? 簫司羽の攻略って、つまり?」
やわく首を振り、訂正をいれてから正確な問いを投げかける。如何せんこの状況下だ、彼は冷静になれている方だろう。
『質問を検知――回答。この場合の攻略は恋仲になる事を指します。簫司羽と恋に落とす、それがアナタの任務です』
「なるほど、理解した」
秦景楓は頷いて、考える。言われた事自体は単純で分かりやすい、要に、恋愛ゲーム的な攻略という訳だ。体感型ゲームと言えば分かりやすいだろうか、しかし、どうしても引っかかってしまうのが、生き返らせるの部分だ。
(生き返らせる、って事はやっぱり僕は死んでいる、のか……? だとしたら、断ったらどうなるんだ)
そんな心配には、ちょっとした好奇心も混ざっている。
「あ、あの。もし僕がそれを断った場合、僕は本格的に死ぬ、とかですか?」
秦景楓は小さく手を上げ、問いかける。
『質問を検知――回答。いいえ。アナタは正確には死んでいません。只今、アナタは魂と肉体が乖離しており、所謂植物人間の状態です。アナタが任務を拒否した場合、アナタは肉体と魂が乖離したまま、「アナタ」は生きる事も死ぬことも出来ません』
『目覚めは、時の運でしょう。最悪の場合、一生アナタは暗闇に閉じ込められます。しかし、ご安心ください。その場合、アナタは確実に天国に行けます』
恐ろしい事をさらりと言われた後に、天国行きを教えられた秦景楓の心情は非常に複雑だった。
(天国行きなんだ、良かった。けど、暗闇に閉じ込められるのはなぁ……生き返れる保証もないし)
立てた膝に頬杖をついた彼の思考は、暗闇は嫌だなになっていた。いくらその果てが天国だとしても、先の見えない期間を暗い場所に閉じ込められるのは御免だ。明るければいいという話でもないが。
それに、この任務は、秦景楓にとって都合のいい事が一つある。
(にしてもこのシステム、僕がゲイって事よく分かったな……)
そう、彼は所謂同性愛者だ。特別隠している訳でもなければ言いふらす事もしてないが、歴代でいいなぁと思った相手は皆男だった。そして、システムの言った簫司羽は、男である事は確定だろう。
そりゃ知っている、だってそれは、ついさっき撮影していたドラマの登場人物だから。
ドラマ、「廃妃秦景楓」。このタイトルを見て分かる通り、主人公が自分の名前と同じという奇跡が起こっている。しかし、自分は主人公役ではなく暗殺者Aだ。
まぁ無理もない、彼は有名役者でなく、エキストラ登録もしている一介のフリーターのような者。元よりエキストラとして通行人の一人とかを担っていたのだが、垣間見える優秀さからセリフあり出番のありのモブに抜擢されるようになり、結果この仕事を貰ったくらいの役者だ。いくらそれなりの演技が出来るとは言え、主人公には抜擢されないだろう。
残念な事に、簫司羽役や秦景楓役とは撮影現場で顔を合わせたことが無い。二人はメインキャラだというのに、不思議な事に一回も無い。キャストくらい調べればいくらでも出てくると思うかもしれないが、しかしこれは「制作決定」の四文字くらいしか公開されていないドラマなのだ。キャストが誰かなんて調べても出てこない。よって、彼はシステムの言う攻略相手がどんな顔をしているのかが分からないが。美形な事は間違いないだろう。何せBLドラマのメインキャラなのだから。
「分かりました。その任務、受けましょう」
秦景楓の言葉に迷いはなかった。元より現実を受け入れる性格をしている彼にとって、応と回答するのは造作でもなかったのだ。
それに、ここで死ぬ事は認められない。
まだ生きていたい。いや、生きなければならないのだ。それなら、選択肢は最初から一つだろう。
『了承が受領されました――秦景楓。健闘を祈ります』
システムが契約成立を告げる。同時に、溢れた光により視界が真っ白に塗り潰された。
次に目を覚ました時、秦景楓は冷えた部屋のベッドに横たわっていた。目覚めると同時に、激しく主張しだす腹の虫。飯を食えと大声で喚きたてる腹の虫を抑え、状況を思いだした。
「……僕、『秦景楓』だ」
彼の漏らした言葉は、消して自分の名前を再認識した訳ではない。いや、そうとも言えるかもしれないが、この場合の「秦景楓」は、ドラマの登場人物としての名前である。