当日、悠は興奮から眠れなかった。修学旅行の前日は眠れたのに、今回はダメだった。
「悠様、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
結局眠れなくて起き上がったのが朝の4時。黒田との約束は6時だ。
目の下にちょっと隈が出来ている気がする。こんな顔では会えないとのろのろ立ち上がったら、鳥羽が湯船に湯を張ってくれた。少しは緊張が緩まるからと。
有り難く温かい湯に浸かり、息を吐く。ほんのりと柚子の香りがする。多分香油を少し入れてくれたんだろう。
「気持ちいい。温まる……」
温かいというのは本当に魔性だと思う。緊張を和らげて、気持ちもほっこりとしてくれる。心地よくて、ずっといたいと思ってしまう。前の家の寒さを思い出して、あの生活はやっぱりダメだったんだなと今更思った。
気持ちが緩むと頭の中も緩んで、目もとろんとしてくる。悠はいつの間にか眠ってしまっていた。
「……さま」
ふわふわと心地よい中、声が聞こえる。誰かが体を支えてくれている感じもする。
目を開けた悠は自分を支えてくれている鳥羽をぼんやりと見上げた。
「あれ?」
「目が覚めましたか?」
「鳥羽さん、俺……」
「少しだけ、眠っていたみたいですね」
しっかりと起き上がり、ゆっくり湯船から上がる。早朝の少し冷たい空気でようやく頭も覚醒して、悠は恥ずかしく鳥羽を見た。
「すいません、お手数かけて」
「いえ。昨日は眠れませんでしたか?」
「……はい。子供みたいで恥ずかしいです」
顔を赤くする悠に、鳥羽は小さく笑って首を横に振った。
「今日はお天気も良さそうです。温かくして、存分に楽しんできてくださいね」
「はい、有り難うございます」
「お泊まりの時はお知らせだけ下さいね」
「その予定はないよ!」
どうしてみんなそっちに誘導しようとするのだろうか。悠は肩を落として否定するのだった。
ちゃんとご飯を食べて、鳥羽が用意してくれた服を着てみた。細身のジーンズに薄手の丈長白ニット。それに丈長のコートを羽織った。オフショルダーのカバンには鳥羽がかなりの現金を入れてくれたが、こんな大金持ち慣れなくて半分返した。それでもかなりの大金だ。
「こんなにお金はいりません!」「いざというとき必要です!」の押し問答をしている間に黒田が迎えにきて、二人を見て妙な顔をしていた。
「はぁ……」
「朝から賑やかだな」
こんな話を車内で黒田にしたら、黒田は視線を真っ直ぐ前に向けたまま笑う。今日は小野田の運転ではなく、黒田が自分で運転している。
「だが、鳥羽の言う事も分かる。いざというとき必要になる」
「これだけで心臓バクバクです」
「アトラクションにも乗っていないのにか?」
笑われて、ちょっと恥ずかしい。それすらも見透かして黒田は笑った。
「……黒田さんの私服って、若いですよね」
「ん?」
今日も黒田は髪を自然と下ろしている。黒の細身のジーンズにキャメルのVネックニット、それにダークグレーの膝丈のコートを着ている。シンプルだけどなんだか似合うのだ。
「スーツ姿が見慣れているので」
「私服は割とこんな感じだ」
「そうなんですね」
私服でもジャケットとかを着ているイメージだ。黒田は体格がいいからそういうのも似合う。でも、これはこれでとても素敵だと思うのだ。
こんな事をグルグルと考えていると、不意に黒田の視線がちらりと悠へと向かう。その横顔が何故か、少し赤い気がした。
「お前も、似合ってるぞ」
「え?」
「今日の服装、似合っている」
自分の服装を見下ろし、ちょっとだけど照れる。嬉しいし、少し恥ずかしい。思わず俯いてしまうけれど、悠の顔は笑っていた。
道中早い段階でコンビニに立ち寄り、お手洗いと飲み物、軽い食べ物の購入を済ませた。それというのもそこへと向かう道は混雑するのだそうだ。
とは言っても朝の6時半。それほどの混雑はないと思っていたのだが…………さっきから車があまり動かない。
「凄いんですね、朝のラッシュって」
「だな。T県方面へのトラックやらも多いしな」
「電車のラッシュもまだ経験がないので、圧倒されます」
のろのろと少し進んでは止まり、また進み出す。そんな事をずっと繰り返しているのだ。
「通勤ラッシュもしんどいぞ」
「黒田さんは経験あるんですか?」
「あぁ。大学生の頃だが、朝一限の授業に間に合うようにと思って出ると大抵鮨詰め状態だ」
「うわ……」
想像しただけでちょっとしんどくなる。そういえば少し前に帰宅のラッシュには遭遇したか。でもアレよりも凄いと聞いた事がある。
「悠は学校、決めたのか?」
「いくつかパンフレットなどを見せて貰っていますが、まだ決めていません。俺にはちょっとお坊ちゃん学校過ぎて」
苦笑した悠は鳥羽や嘉一が持ってきてくれた学校資料の事を思い出していた。
無事に名字を変更するための書類に捺印し、弁護士の嘉一にお願いした。そしたら次は学校だと、10校ほどの資料を渡されたのだが……明らかにお金持ち学校という感じがした。
「お行儀がいいのは嫌か?」
「俺、中身がお坊ちゃんじゃありませんから。化けの皮が剥がれます」
「ははっ、そうだな。お前はどっちかと言えば倹約家だしな」
黒田に笑って言われて、ふと悠は表情を落とした。それを、黒田は横目でちゃんと見ていた。
「どうした?」
「……俺、我が儘になっていませんか?」
「はぁ?」
驚いた声を上げる黒田に、悠はコートの裾をギュッと握って俯いたままで口を開いた。
「最近、我が儘な気がします。住めればどこでもいいと思っていたのに、幽玄堂がとても心地よくて。ご飯もお腹に入れば何でもよかったのに、今では鳥羽さんが色々作ってくれます。お金も使わないようにと思っていたのに、今は5万も持たされて、お土産なら買ってもいいかと思っているし。それに黒田さんからのお誘い、誘惑に負けて受けてしまうし」
思い返せば色々出てきて余計に凹む。温かい布団に温かいお風呂、美味しいご飯が当たり前になっている。でも、本来の悠は違うんだ。その心を忘れちゃいけないような気がしている。
伝えると、黒田は溜息をついて片手でぐりぐりと悠の頭を撫で回した。
「黒田さん!」
「ばーか、いいんだよそれで。これまでが異常だ。お前はもっと甘えろ。これでもまだ足りないくらいだぞ。世の高校生を見ろ、帰りにカラオケや買い食い、ショッピングだってしている。休みの日に友達と遊びにだって行く。それを、贅沢だとか我が儘だと考えている奴はあんまいないぞ」
そう、なのだろうか。
黒田を見れば溜息を更につかれる。だが次にはにっこりと、優しい笑みを見せてくれた。
「お前の青春はこれからやり直すんだ。手始めに、今日は存分に楽しむんだぞ」
「……はい!」
まだ、こういうことはドキドキする。けれど皆が「これでいい」と言ってくれる。まだ、色々と慣れないけれど少しだけ、自分も楽しいと思える時間を作ってもいいのだろうか?
少なくとも隣にいる黒田は、いいという顔をしている。