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3-3 一人ではない(3)

 俺の新しい生活が始まった。給食費は給料から出すと言って、そこから支払った。その分沢山仕事をした。でも、全然苦にならない。俺にとっては仕事というよりもお手伝いみたいだから。

 週末はお家の事をしたり、時々黒田さんが来てご飯を食べたりどこかに連れて行ってくれたりした。


 それでも一つ、どうにもならない事がある。

 学校行事だけは井崎のお爺ちゃん達にお願いできなかった。二人とも高齢で、長時間の参加は負担になる。何より二人は俺の家主であって保護者ではないのだから。

 結果、俺は伝える事もせずに運動会のプリントを捨てた。少し寂しくはあったけれど、それは贅沢なんだと思う事にした。


 そうして当日、期待していない俺は不意に名前を呼ばれて驚いて……こけた。

 見ると小野田さんがデジカメを構えて声を掛けてくれている。それに驚いて、嬉しくてたまらなかった。

 とはいえ徒競走でこけたのは痛かった。ビリだし、膝をすりむいて洗いに行くと、小野田さんが来てくれて声をかけてくれた。

「ごめん、突然声駆けたから驚いたっすよね?」

「いえ、あの。でも、どうして……」

 問うと、小野田さんはとても困った顔をした。

「悠くんの学校行事、黒田さんに筒抜けっすよ? なのに井崎さん達は何も聞いてないって知って、俺が応援にきたっす。ほら、俺なら親戚の従兄弟です! で通る年齢だし」

 それを聞いて、俺は驚いて俯いた。全部バレていたなんて、知らなかった。

 項垂れた俺を見て、小野田さんは焦っていた。そしてポンと肩を叩いてくれた。

「次、頑張るっすよ! ちゃーんと動画、撮ってあるっす。後で井崎さんや黒田さんと見る約束っすよ」

「あの……黒田さんは」

 怒っているだろうか。

 心配になった俺に、小野田さんはにっかと笑った。

「あの人悪目立ちするから今日はいないっすよ。でも後で井崎さん家に集合っす。あと、お弁当は井崎のお婆ちゃんの手作りっすよ」

「お弁当!」

 驚いて、嬉しくて、泣きたくなる。前は悲しくて寂しくて絶望して泣いたけれど、今は温かい涙が出るようになっていた。

「悠くん」

「俺、頑張ります。ちゃんと、撮っておいてくださいね」

「勿論っすよ!」

 前を向いて笑える。そうして実際、俺はけっこう頑張った。

 帰ったら黒田さんも居て、皆でビデオを見てあれこれ言って笑っていた。俺の、宝物の時間だった。


 時間も過ぎて、修学旅行の話が出始めた頃、俺はこれももみ消そうとした。借金だらけの奴が旅行なんて行けるわけがない。井崎さんにもこんな事お願いできない。それくらい費用がいるのだ。

 けれどこれは見事に黒田さんに知られて、俺はこっぴどく怒られた。

「お前、大事な連絡はちゃんと俺にしろって言ってるだろう」

「いりません。俺、行かないですし」

「いるだろうが!」

「行かないんです!」

「クソ坊主……いいか、こういうことはちゃんと行け! 金は俺が出すから」

「これ以上出世払いとかダメです! 返すあてもないのに借金するバカがどこにいるんですか!」

「……お前の親父とかな」

「……面目なくて顔を上げられません」

 なんとも言えない沈黙の後、黒田さんは盛大な溜息をついた。

「いいか悠、こういうのは金じゃないんだよ」

「お金です」

「この年でそうなるな。まぁ、言っても仕方が無いが」

「はい」

「……いいか、悠。人生、金じゃ買えないものがいくつもある。本物の友情や、信頼だ」

 黒田さんは声を低くして言う。それを、俺は黙って聞いていた。

「だが、友情も信頼も思い立った時からコツコツ積み重ねて作る事ができる。年齢や時を選ばねぇ。だがな、思い出だけはその時その場にいなければどうしようもない。金では買えない、かけがえのないものなんだぞ」

「でも……」

「でもじゃねぇ。悠、行ってこい。そんでもって、土産話の一つでも聞かせてくれ。写真も頼むな。あと、俺達に土産はいらない。楽しんで、自分の為に金を使ってこい」

「そんなの!」

「大事だ!」

 そこまで言われて、しかも既に修学旅行のお金は払い済みだと言われてはどうする事もできなかった。そして修学旅行当日、井崎さんから「預かっている」と、お小遣いまで渡された。

 楽しかった。クラスの友達と観光して、買い物して、買い食いするなんて想像していなかった。毎日寝るまで大騒ぎだった。写真も沢山撮って……いつまでもこの時間が続けばいいのにと、思ってしまった。


 進路の時、黒田さんが三者面談に来てくれて、俺はそこではっきりと進学はしないと伝えた。

 黒田さんも、井崎さんも、担任の先生も最後まで俺に進学するように言ったけれど、俺は就職すると突っぱねた。

 中学までは義務。けれど高校は違う。途端に授業料などは高くなるし、制服だってバカにならない。給食もなくなる。

 ここから先は我が儘だ。それよりは早く働いて、自立していかなければ。

 同時に、井崎さんの家を出る事にした。二人は引き留めてくれたけれど、俺は丁寧にそれを断った。

 知っていたんだ、娘さんや息子さんから同居の打診があること。お婆ちゃんの足が悪い事を気にしている事。二人も歳をとっていることを。

 孫のようだと言ってくれるけれど、実際は赤の他人。そこに気を遣って同居の話を断ったりしていたら、申し訳ない。

 井崎さんの家を出て、元の家に戻った。寒いあの部屋に寝袋と毛布を持ち込んで生活した。

 昼間は工場とかで働いて、夜は年齢を誤魔化して夜間の仕事もした。バレるとクビだけど、また次を探した。

 時々、危ない仕事の勧誘もあったけれどその度に黒田さんが来て追い払っていて、俺は有り難かったり残念だったりした。

 父は相変わらず俺の給料を持ち逃げしたけれど、最低限は財布に入れているからなんとか食べる事はできた。

 何より俺は、一人じゃなくなっていた。あの寒い部屋で過ごしても、もう寂しさに泣く夜はこない。俺の胸には沢山の思い出がある。今も側にいてくれる人がいる。井崎のお爺ちゃんとお婆ちゃん、小野田さん。何よりも黒田さんがいてくれる。

 俺には沢山の宝物があるから、もう何も怖くなくなっていたんだ。


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