その後、黒田さんは俺を家ではない場所に連れて行ってくれた。
とはいえ、家からはあまり離れてもいないそこは古い平屋のお家で、入ると老夫婦が出てきた。
とても優しそうなお婆さんと、少し厳しそうなお爺さん。二人は俺を出迎えて、とてもにっこりと笑った。
「あの……」
「俺の大学時代の恩師で、井崎さんだ。お前、体調がちゃんと戻るまではここにいろ」
「え!!」
驚いて井崎さん夫婦を見ると、二人とも知っているみたいに頷いている。知らなかったのは俺だけらしい。
でもそんなの、申し訳ない。何より俺はこのご夫婦の事を知らない。赤の他人が上がり込んで、面倒をかけるなんて迷惑だ。
辞退しようと黒田さんを見ても頑として譲る気配はなくて、井崎さん夫婦を見てもそれは変わらないようだった。
「あの、でも。俺みたいなのを置いても何もできません」
「あのなぁ。お前、今あの家に戻ったら元の木阿弥だろうがよ。あんな隙間風の吹く場所で、まともな布団も食う物もなくて、水も電気もガスも止まってたぞ。あそこは人間の住む場所じゃねぇ」
「そうですけど!」
「悠、お前今度こそ死ぬぞ」
そう言われてしまうとその通りで、言葉が出ない。
そのうちに、井崎のお婆ちゃんが俺の手を取って上へと促してくれた。
「黒田くんから話は聞いていますよ。大変だったわね」
「あの」
「子供が遠慮なんてするものではない。うちは家内と二人暮らしだ、気なんて遣わなくていい」
「でも、あの!」
「そんなに気になるというなら、うちの家事を手伝っておくれ。家内は見ての通り足が悪いものでね。手伝ってくれると助かるのだが」
いかにも学者や先生というお爺さんが、厳しくも温かく言ってくれる。お婆さんはにこにこと優しく頷いて、ずっと手を握ってくれている。その温かさに、俺はまた心が温かくなるように思えた。
この日から、俺は井崎さんのお家に厄介になっている。使っていないという部屋を間借して、代わりに家事をした。とは言っても最初は拙くて、料理なんかはダメダメだった。
でも、力仕事はできた。お風呂の掃除や部屋の掃除、洗濯物もなかなかの重労働だから。
黒田さんは週に2度ほど訪ねてくれて、差し入れをしてくれる。俺の様子を見て、話を聞いてくれた。
井崎のお爺ちゃんは俺に勉強を教えてくれた。大学の先生ということもあって教え方が上手で、俺はもっと話を聞いていたくて時間の空くときは一緒にお話をした。
けれどこれも、1ヶ月が過ぎると違ってきた。俺は、すっかり健康になっていた。
そうなると、出て行かなければいけない気がする。何より早くお金を返さないといけない。父の借金はどのくらいあるのだろうか。そればかりが気になって、日に日に元気もなくなっていった。
そんなある日、黒田さんが訪ねてきた時に俺は思いきってその話をした。井崎のお爺ちゃんとお婆ちゃんも同席で、俺達は今後の話をした。
「黒田さん、俺に仕事を紹介してください」
「あぁ?」
丁寧に頭を下げてお願いすると、黒田さんはとても怖い顔で俺を見た。お婆ちゃんは心配そうにして、お爺ちゃんは静かに聞いていた。
「父の借金がどれだけあるか分かりませんが、少なくないのは分かっています。少しでも早く返しはじめないと」
「お前から金を借りてるんじゃねぇ」
「でも!」
「悠、中学も出てないお前に出来る仕事はねぇよ」
そう言われてしまったら、どうしようもない。
俺は項垂れて、思いつく限りの事を考えた。そこで真っ先に出てきたのが売春だったのが、なんとも泣けるものだった。
「……悠くん、うちで住み込みの仕事をしないか?」
「え?」
お爺ちゃんが突然そう言って、俺は驚いてマジマジと見てしまった。
腕を組んでいたお爺ちゃんは真剣な顔で俺を見て、頷いた。
「君がいてくれて、家内はとても助かっている。何よりとても楽しそうだ。私たちにとって君は孫のようなんだよ」
「ですが……」
「そこでだ。私は君に今まで通り部屋を提供する。食事もだ。そして僅かだが、給与も出す」
「そんな、多すぎます!」
「そんな事はない。通いの家政婦や家事代行を頼めばかなりの金額になる。それを考えればそう高いものではない」
「でも……」
「勿論仕事はしてもらう。学校が終わった後の時間で、食事の準備や風呂の支度、洗濯物の手伝いに、庭の事。それに、時々は私の資料の整理なども頼めると助かるが」
「それは勿論!」
「それならむしろ、安いくらいだよ」
にっこりと微笑んでくれたお爺ちゃんの隣で、お婆ちゃんもにこにこしている。
胸の奥が温かくて、色々と身に染みて、嬉しくて泣いた。だって俺もここが好きだから。
黒田さんを見ると頷いてくれた。俺は井崎のお爺ちゃんとお婆ちゃんに頭を下げて、次に黒田さんにも頭を下げた。