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1 孵化

 ぐるぐる……グルグル……

 腹の中で渦を巻く何か。

 気にはなる。けれど、覗く勇気はない何か。

 目を瞑り続けたそれが、知らないふりをし続けたそれが。

 徐々に孵化しようとしているなんて、知らなかった――


§


 11月の終わり頃、悠の元にはお客さんがくる事が多くなった。

「それではこちらが、姓を変更するための書類になります。ご確認の後、捺印をお願いします」

 雅楽代家お抱えの弁護士、佐久間が書類を悠の前に出す。その佐久間の隣にはまだ若い弁護士もついている。

 佐久間は雅楽代家に代々仕えてくれている弁護士一族で、人間だ。最近悠の目にも人外と人間の区別が難しく、鳥羽に聞くと3人に笑われた。

 話によると佐久間の家は雅楽代の当主に代々仕える家で、それこそ江戸から関係は続いているらしい。そして、雅楽代の特殊な事情も知っているそうだ。

 普通疑問に思いそうなのだが、何せ小さな時から色々な事を聞かされ、実際歳を取らない鳥羽を見続け、何度か不可思議な事にも巻き込まれていくうちに信じざるを得なくなるらしい。

 正月に親族が集まると昔の怪異譚の怖さ比べが始まると、とても朗らかな笑い声と一緒に言っていた。

 隣にいるのは息子の嘉一よしかずさん。年齢は30代で、今後悠とは一番接点を持つだろう弁護士なのだそうだ。

 今目の前には姓を変える為の手続き書類がある。詳しくは難しくて説明を聞いていないが、これに署名と捺印をして手続きが済むと、悠は「御堂」から「雅楽代」になるそうだ。


 どろ――


「あの、今署名を」

「そのように急がれる事はございませんよ。高校の事を考えても、12月の頭くらいまでで構いませんので」

 直ぐにでも署名しようとする悠に、嘉一が穏やかな声音で伝えてくる。自然な茶の髪を刈り上げた爽やか系で、背も高くけっこうイケメンなんじゃないかと思う。爽やかスポーツ系イケメン?

 悠は手元の書類に視線を落とす。別に今更、躊躇ったりはしない。家を出た時から気分のうえではもう御堂ではない感じだった。今はこの幽玄堂が家だと思える。だから平気なのに、嘉一も鳥羽も悠に「待て」というのだ。


 どろ…………


「悠様、よく考えてからで大丈夫ですから」

「? 俺、考えていますよ? 手続きとかって時間かかるから、出来るだけ早いほうがいいのかと」

「……それで本当に、悠様の気持ちはいいのですか?」


 ……どろ


 いいはずだし、躊躇いもない。

 なのに、腹の辺りが不快な感じがする。気のせいってくらい一瞬、あっという間の感じ。継続もしない、気のせいだと思う。そのくらいの事だから記憶にも残らない。

 でも、何故だろう。とても心配になる。なんだかとても、不安になる。


 どろ……どろ……


「まだ大丈夫ですので、気持ちの整理などもつけてください悠様。名前が変わるというのは意外とその後で衝撃があったりします。それに……父親に、会わなくても本当にいいのですか?」


――どろ、どろ……ピシッ


「?」

 一瞬、刺すそうに痛んだ気がした。でも、直ぐになんでもなくなった。

 父の事を言われると引っかかるけれど流すようにしている。だって、今更何を話ていいか分からない。もう、何年もまともに顔を合わせていない。

 父は悠が居ないときにこっそりと家に戻って、隠しておいたお金を持ち逃げしたりしていた。時々直接顔を合わせると悠のカバンを漁って財布から抜き取る事もあった。

 もう今更、何を言うこともない。恨むというほど強い感情もないけれど、顔を合わせる気持ちもないのだ。


――どろ、どろ……どろ……


「悠様?」

「あっ。はい。父には、会うつもりはありません。鳥羽さんが行った時も、俺の好きにしていいと言っていたそうですし」

 目の前にある書類には、既に父の署名と捺印がある。鳥羽が悠の事を佐久間と一緒に説明して、書いてもらったそうだ。

 なんの、要求もなかったという。署名するかわりに金銭を要求するとか、署名を拒むとか。鳥羽はあらゆる可能性を考え、手切れ金まで用意していったという。だが結局、一銭も払う事無く父はこれに署名した。

 「抜け殻のようでした」と、鳥羽は言っていた。


 ……どろろ


 悠は書類を一撫でする。最近、自分の感情が分からない事がある。今がまさにそうだ。何を、思えばいいのだろう。この胸のもやもやは一体なんなのだろう。言葉に出来ないこの気持ちの悪い感情は、どうやって整理をつければいいのだろう。

 悠は結局、書類にサインをするのは延期した。

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