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4 物に宿る想い

 その日の夕飯は質素すぎるくらいのものだった。炊き上げたお米に豆腐の味噌汁と香の物。中から綺麗にということで、肉や魚はダメなのだそうだ。

 更にお風呂に鳥羽がついてきて、とても綺麗に磨かれた。更に湯上がりのパジャマはいつものものではなくて白い浴衣みたいなものに羽織り物という出で立ちで、なんだか時代劇みたいだった。

 そうして部屋に戻ってくると文机には真新しい文箱があり、中には筆とお札サイズの和紙、そして硯と墨だ。

「まずは、お札の書き方をお教えしますね」

 側についた鳥羽が姿見の中の巫女へと視線を向ける。すると巫女は鏡の中で鈴を振って、何かの言葉を唱えている。けれどいつものはっきりした言葉とは違って難しく、小さいが朗々とした響きで内容はよく分からなかった。

 そのうちに姿見に文字が浮かび上がる。崩れた文字だが恐ろしく難しい文字ではなくて、悠は内心ほっとした。

「悠様、あれを鏡文字で書けますか?」

「え?」

「あれは巫女様から見た文字。鏡を通している我々に正しく読める文字ということは、巫女様が書く正しい札の文字は左右反転した鏡文字になるのです」

「……えぇぇ」

 それで無くても流れるような崩れた文字で書きにくいのに、これを左右反転の鏡文字に……。

「……頑張ります」

 気合いを入れ、まずは鏡の文字をそのまま半紙に書き写した。そしてそれを裏側にして、裏移りした文字を手本にする事にしたのだ。

「点の向きや払いの方向が間違いやすいので、お気をつけください」

「はい……あ!」

「やり直しですね」

 これ、ちゃんと書けるのだろうか? いやいや、弱気になってはいけない! 何度も挫けそうになり、何度も気合いを入れ直し、眠気とも戦いながら頑張り続けて3時間。深夜1時を過ぎた頃にようやく書き終える事ができた。

「で……できたぁ」

 なんだかドッと疲れた。筆を置いて御札を鳥羽に渡すと、彼はにっこりと笑ってくれた。

「お疲れ様でした。まずは水をどうぞ」

「有難うございます」

 札を受け取った鳥羽はそれを祭壇へと持って行く。一緒に巫女も移動したようで、途端に部屋は静かになった。

 なんだか、信じられないくらい疲れた。運動会を頑張りすぎて筋肉痛になったみたいな。それに凄く眠い。机につっぷしたまま微睡んでいると、九郎丸が様子を覗きにきて悠の側に来た。

「お疲れ、悠。今日は寝とけ」

「クロさん……?」

 後ろで布団を敷く気配があって、その後は抱きかかえられる。そうして寝かされた布団はとても心地がよくて、悠はぐっすりと眠ってしまった。


§


『ちょっとお母さん、お父さんのお棺に髪入れちゃだめよ』

 女の人の声がする。ぼんやりと……霧か何かをスクリーンにして映像を映したような、そんな頼りない映像が目の前に現れる。

 あまり綺麗ではない着物姿の、黒髪の女性。年齢は30代だろうか。

 その隣には面差しの似た老女がいる。人が良さそうな笑顔に、グレーの髪を適当な所でくくっている。

『だって、お父さん寂しがるでしょ?』

『だからって。連れていかれたらどうするのよ』

『平気よ、お父さんはそんな事しないわよ。それに、もしそうなっても悔いはないの』

 とても朗らかに、楽観的に老女は言う。ほんの少し垂れた頬の辺りとか、見ていてなんだかほっとする。

 老女の言葉に娘なのだろう女性も溜息をつき、困ったように笑った。

『それもそうね。お父さんがお母さんに悪い事するはずがないか』

『そうよ』

 老女は目の前の棺に、自分の髪を一房和紙に包んで入れた。

 それから少しして、若い衆が棺を担ぎ出して村の入口へと持って行く。そして用意してあった穴にそれを入れ、土をかけ、塚を置いた。

『長い間、ご苦労様でした』

『凄い人だよ。このご時世に夜盗にも襲われず、争いにも巻き込まれず手紙や物を運び続けたんだからな』

『あぁ、本当さ』

『神様のご加護があったんでしょうね』

 運んできた若い衆も、老女も、その娘も手を合わせる。その側で、蛍ノに面影の似た老人が眺めてニコニコと笑っていた。


§


 目が覚めた時、不思議な感覚があった。夢と言うには何かの予感がある。あれはきっと、蛍ノが埋葬されたその日の事なんだと。

 人の良さそうなお婆さんだった。蛍ノもきっと皆に慕われていたのだろう。そうして長い間旅に出る人や残された家族が旅の無事を祈ったのだろう。

「……返してあげないと」

 更に募った使命感。失敗したではすまない。あの髪にはあのお婆さんの想いが残っているに違いない。あれは、ただの物ではないのだ。

 障子に影が映り、程なく鳥羽が声をかける。それに答えた悠はスッと立ち上がり、部屋を出た。

 朝は禊ぎから始まった。井戸の水で体を清め、拭き上げる。新しい白装束を着た悠は祭壇の部屋から巫女の銅鏡を持つ。その後ろに付き従う鳥羽も白装束で、他の道具を木製の箱に入れて静かについてきた。

 用意された部屋は広くて、白い布を掛けた祭壇が作られ、銅鏡を置くその両脇には榊の枝が飾られている。

 祭壇から十分の距離を離して少し大きな火鉢のような物が置かれ、その上には小さめの木組みがあった。

「悠様、巫女様を祭壇へ」

「はい」

 銅鏡を用意された場所に安置すると、目の前には火鉢と木組みがくる。その真正面に悠が座り、鳥羽は少し外れた脇へと座った。

 やがて蛍ノが来て一礼する。それに悠も向き直って一礼し、彼の手から和紙に包まれた髪を受け取った。

「その品をこの札で挟み、木組みの中に収めてください」

「はい」

 苦労して書いた札を鳥羽から受け取り、和紙の上からくるむようにしてから木組みの中に入れる。だがそこに火種はなく、底の白い灰のような物と細い木で組まれた物があるだけだ。

「悠様、お座りください」

「あっ、はい。あの、俺は何をしたらいいのでしょうか」

「特にはございませんが、祈ってください。どうか持ち主に返るようにと」

「はい」

 それだけでいいのだろうか。まぁ、難しい事を求められても困る。修行をしたわけでもない悠にはお経を間違えずに唱える事も難しいだろう。少しは出来た方がいいのかもしれないが。

 ……後で巫女や鳥羽に聞いてみよう。


 チリリィィィン


 鳥羽が鳴らす澄んだベルのような音。金色の小さな鈴が、繊細な音を出していた。

 悠は言われた通り深く息をして、蛍ノの元へお婆さんの想いが届くようにと願った。昨夜の夢は、お葬式なのに穏やかだった。きっとこの二人の間にはなんの心残りも無かったのだろう。いつその時が来ても大丈夫なくらい沢山話して、沢山一緒にいたのだろう。だから残されたお婆さんはあんなに穏やかでいられたのだろう。

 ふと、フラッシュバックする思い。それは自分の中のもの。

 だがその瞬間場の空気が乱れたように感じて、悠は気を引き締めた。今は自分の事ではない。蛍ノとお婆さんを会わせてあげなければならないのだ。

 巫女の静かな声が聞こえる。これは……お経とは違う。何か、もっと違う聞き慣れない言葉。けれど心が洗われるような空気を感じる。声と、時々なる鈴の音。それに意識が吸い込まれていく。

 ボッと、火鉢に作られた木組みに火がついた。火種なんて何もないのに、突然だ。

 だがこの時の悠は何も驚く事はなく、意識がその火へと吸い込まれるような感覚に従っていた。火は徐々に激しくなり、30cmほどの火柱になっていく。そしてそこに、背景が透けた人物像が浮かんだ。

 あのお婆さんだと思った。グレーの髪を肩より少し下で緩く束ねた、小柄なお婆さん。頬がほんの少し優しく下がっていて、目は常にキラキラ優しく楽しそうで、笑顔が包み込むように優しくて……。

 悠が夢で見た姿を強く思い描くと、炎の中の像もはっきりとしてくる。質素な着物姿のその老女は蛍ノを見て、嬉しそうに笑った。

『あぁ、婆様! 確かにそこにいるのかい!』

『えぇ、おりますよお前様』

 悠の横を蛍ノが通り抜け、炎へと近づく。老女は半透明な手を蛍ノへと伸ばし、二人は確かに抱き合って再会を喜んだ。

『待たせてすまない、婆様。会いたかったよ』

『あらやだ、子供みたいですよお前様。私は全然、心配などしておりませんでしたよ。お前様が私を置いていくなんてないと思っていましたもの』

 パチリと木組みが爆ぜて、沈んでいく。炎が徐々に弱まっていく。だが半透明な老女の姿は消える事はなく、蛍ノの腕の中にいた。

 やがて炎は完全に消え、白い煙が一筋天へと昇っていった。

『当代殿、有難うございます。確かに受け取りました』

 蛍ノの腕の中にはもう老女はいない。煙が消えたらそれと一緒に消えてしまった。

 だが蛍ノはとても嬉しそうに悠へと笑いかけて深々と頭を下げる。これで良かったのか悠には分からないが、多分一番大事なものを届けられたのだと分かってほっとした。

 途端、体中から力が抜けて姿勢を保つ事ができなくなった。不自然なくらい体が崩れる。それを鳥羽が後ろから支え、とても心配そうな顔をした。

「ご立派でしたよ、悠様。初めてとは思えない完璧な仕事でした」

『当代殿、感謝いたします。妻と最後に話す事ができました。なんと懐かしく、温かな気持ちか。既に魂は巡っているでしょうが、あそこに残された想いを確かに受け取りました。これで、心置きなく上へ昇ることができますじゃ』

 何かを返したいと思う。鳥羽には「大丈夫」と、蛍ノには「よかったです」と返したい。けれど体どころか口も上手く動かなくて、視界も徐々に閉じていく。凄く心地よく沈み込む感覚に引きずられて、悠は意識を手放した。

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