思えば蔵に行くのは初めてだ。なんとなく誰も何も言わないからそのままだった。
縁側から外に出ると、鳥羽はまず家の井戸に悠を連れてきてくれた。
「まずはここで手を口をすすぎ、清めます」
「神社やお寺の手水と同じ感じですか」
「はい、それで構いません」
鳥羽が手動のポンプで水をくみ上げると、冷たくて透明な水が蛇口から出てくる。ここの水は地下水をくみ上げているらしく、生活用水にもしている。水道から出る水も地下水なのだそうだ。
手を洗い、水を口に含み軽く口をすすいで吐き出す。真っ白い綺麗な手ぬぐいを渡され、それで手と口元を軽く拭くと二人は蔵へと向かっていった。
「蔵は3つございます。今回の物は壱番蔵に。あの蔵には危険な物はございませんので、後で悠様に鍵をお渡しいたしますね」
歩きながら教えてくれる鳥羽の手には、一つの鍵がある。古い物で頑丈そうだ。
「安全な物でも、勝手に持ち出したりはできませよね?」
「いえ、そのような事はございません。壱番蔵に収められているのは安全な預かり物と、災いを成さない質草です。基本、預かり物は悠様でも開ける事ができません。逆に蓋が開く物は全て質草。多少触れても構わないものです」
「そういう物って、表のお店で売ったりしないんですか?」
当然ながら問うと、鳥羽はちょっと困ったように笑った。
「災いはございませんが、障りはあります」
「え?」
「おかしな物ではなく、俗に言う縁起物なのです。持ち主に幸福をもたらす物がほとんどです」
「いいものじゃないですか!」
「それが……強すぎると申しますか。物から魂が抜けていないものはどのように転ぶか分かりませんし、それを人に渡すのはちょっと無責任かと」
縁起物だからいいわけじゃない。鳥羽の表情はそう物語っているようだった。
「他の蔵はどうなっているんですか?」
「弐番蔵は主に祟り物ですね。ちょっと扱いに気をつけなければならないものです。預かり物もありますが、持ち込まれた呪物などもあります」
「それって、不幸の○○的な感じですか?」
「そんな可愛い物ではないかと。持ち主を5人くらいは祟り殺しているような物がざらに……」
「聞きたくなかったです!」
そんなヤバい物まであるのか……。途端に蔵に入りたくなくなった悠だった。
「参番蔵は大物主からの預かり物です。数は多くはありませんが、管理には神経を使いますね。何かあっては恐ろしい事になりますから」
「恐ろしい事って……」
「死後まで何かしらの障りがある可能性があります。来世のみならず、その後とかも」
「嫌すぎる!」
「ですが、あちらの要求に応えられれば得るものは多いのですよ」
そんなハイリスクハイリターンな賭け事、怖くてできません。
こんな事を話している間に、目的の壱番蔵が目の前にくる。頑丈な錠前がかけられており、鳥羽がそれを外して重い音を立てながら扉を開く。
中は薄暗く、ひんやりとした空気に包まれていた。
中には沢山の棚があり、そこに沢山の木箱が並んでいる。棚はどれも悠よりも高くて、一番上は届かない。窓からは明かりが差し込み、入口を閉じても蔵の中が見える。だが、奥はやっぱり暗く感じる。
「あの、どうしたらいいんですか?」
悠が問うと、鳥羽はさっき預かった割り符を出すようにと悠に伝えた。
「その割り符を挟むように手を合わせ、目を閉じて念じてくださればいいのです」
「念じる?」
「『片割れの元へ我を導け』という感じです」
「なるほど」
言われた通り先ほど預かった割り符を手の平で挟んで手を合わせ、目を閉じる。そうしてゆっくりと息を吸い込んだ。
不思議と、気持ちが凪いでいく。とても静かになって、空間に溶け込んでしまいそうな錯覚に陥る。
その中で鳥羽に言われた通り、割り符の片割れはどこにあるのか? と念じてみた。
途端、意識が空間に溶けたように視野が変化した。空間は黒く、物体も黒く線のみで見える。背景黒の白い線画の世界。悠の意識はその中をもの凄い早さで走り抜けていくようだ。
「悠様」
「……見つけた」
目を開けた悠の視界はこれまでと変わらない色彩と明暗で見えている。それにほんの少し安心していると、割り符を挟んで合わせている手がクンクンっと独りでに前に伸びる。散歩をせがむ犬がリードを引いているような感じだ。
「わわわっ!」
「せっかちですね。では、参りましょうか。階段などもございますので、足下に気をつけてください」
手は二階へと連れて行こうとしている。そして悠が見つけた物も確かに二階にあるのだ。
少し急な階段を慎重に登って更に奥の棚へと向かう悠は、どうしても違和感を覚えた。それというのも外側から見た蔵の大きさと、今歩いている蔵の大きさが微妙に合わない感じがあるのだ。
「あの、鳥羽さん。俺の勘違いだったらごめんなさい。この蔵、なんか大きくありませんか?」
恐る恐る問うと、鳥羽は苦笑する。それだけで答えが分かった気がした。
「お気づきになりましたか? 実はこの蔵も奥の方は人の次元とは少し違う場所になっております」
「やっぱり……。この家、人が迷い込んだら大変な事になりませんか?」
「なりますが……不届き者であった場合は放っておきます。いつの世も神隠しというものは存在いたしますから」
「怖い事をサラッと言わないで!」
友達とか出来てもここには連れてこられない。そんな気がしてならなかった。
そうして辿り着いた棚の前。悠は高い所にある木箱を見つめた。大きさはあまり大きくはなくて、ハードカバーの本が一冊入りそうなくらいだ。
「僕が取ります」
鳥羽が踏み台を持ってきてその箱を下ろす。それを受け取った悠の目の前で、割り符は蓋の隙間から中へと入り込んでしまった。
「あ!」
「正解ということです。ひとまずご苦労様でした」
鳥羽に言われ、悠もほっと胸をなで下ろしたのだった。
箱を持って応接室へと行くと、蛍ノが目を輝かせて近づいてきて、悠の手から箱を受け取った。
ホクホクと嬉しそうな顔をしている蛍ノを見ると、やっぱりこれを彼に返さなければという思いが迫ってくる。プレッシャーでもあるけれど、使命感もあった。
『あぁ、嬉しい。開けてよいですかな?』
「どうぞ」
彼は一体何を預けたのだろう。こんなにも嬉しそうにして。よほど大切な物なのだろう。
目の前で箱の封が彼の手で開けられる。鳥羽によると封は持ち主にしか開けられないのだそうだ。
箱に貼られたお札のようなものが剥がれ、枝のような細い手が蓋を持ち上げる。その中から彼が持ち上げたのは、和紙に包まれた髪の毛だった。
「それって……遺髪ですか?」
和紙に丁寧に包まれた一房の髪。長さからして、女性だろうか。黒とグレーが混じる感じから、それなりに年配の女性だろうと思えた。
蛍ノは困ったように笑って首を横に振る。そして、手の中の髪を愛しそうに見つめた。
『遺髪ではないのですが、妻の物です。本来は、死んだ者の棺に生きている者の髪を入れてはならないのですがね。儂が寂しいだろうからと、どうしてもきかなかったのですじゃ』
そういう蛍ノの温かくて柔らかな空気。手の中にある髪は、彼にとって奥さんそのものなんだろうと思える。
だからこそ、連れてゆきたいのだろう。
「奥さん、その後は……」
『娘夫婦と仲良く暮らし、儂より10年は長生きして旅立ちましたとも。ですが……あの世で一緒にとは、なりませんでしたな。それだけが心苦しく思います』
「そうですか」
悠も穏やかに笑う。そして、巫女を見た。
「巫女、これを蛍ノ様にお返しするにはどうしたらいいの?」
『禊ぎをして、札を書いて、札と一緒に炊き上げるのよ』
「今からでもできる?」
『明日ね。やるなら今日の夕飯から粗食にして、水は井戸の水。札も書くのが大変だと思うから、練習しなくちゃ』
「うん、分かった。えっと、蛍ノ様はどうしよう」
「客間を用意してありますので、そちらにお泊まりいただきましょう」
『一晩お世話になりますぞ、当代殿』
頭を下げる蛍ノに、悠はこくりと頷いた。